ベーレンスは友人であるリヒャルト・エーメルの紹介でフックスと出会い、彼から演劇について大きな影響を受けた。それはデーメルの詩のなかの言葉『生のミサ』に言い尽くされているのだが、祝祭として生活の表現としての劇場という考え方にベーレンスは感応した。そしてベーレンスは初めてのエッセイ集として『生と芸術の祝祭』を出版する。1900年6月のことである。ダルムシュタト芸術家村第1回展覧会のオープニング一年前のことであり、この本は『ダルムシュタト芸術家村』に捧げられている。
このエッセイ集には祝祭劇場の提案が含まれていた。「劇場は谷間をまたぐように山あいに造られ、7本のマストに旗がたなびき、高みから光る衣装のトランペッターが大地に響き渡るように合図を告げる。入り口の大きな扉が開くと、観客は色彩にあふれ、オルガンやヴァイオリンやトランペットの音楽が奏でられたなかへと導かれる。そしてここに生の演劇が始まる」。上演されるものは音楽とダンスと言葉と運動の統合されたものであり、精神世界が演出されるべきとした。このため劇場では観客と舞台が分断されてはならなかった。観客に「われわれはわれわれの芸術から分断されたくない」というような想いを抱かせる空間が求められた。昼間には太陽の日差しが劇場の内部に降り注ぎ、夜には人工的な光に満たされた劇場空間が想定された。
ベーレンスは翌1901年1月には小冊子『祝祭』を出版し、デーメルの「生のミサ」の提案を具体的な劇場建築として提案した。そのあんかの「ラインランデ」の章は劇場について詳述されている。その劇場は円形をしており、ドーム状の屋根が架かっている。東西南北の四方にゲートが設けられ、正面ゲートとなる南側は「太陽の玄関」と名づけられた。そして東側は「暁の星の玄関」、西側は「宵の星の玄関」そして北側は「月の玄関」というように、建築は宇宙と関連づけられた。半円形の舞台の全面の三分の二の幅は左右に分かれて階段が設けられて客席とつなげられており、舞台の中央の三分の一の部分は客席に大きくせり出して、ドーム中央に位置している。これはまさに1919年にマックス・ラインハルトが『ベルリン大劇場』で実現した劇場空間にほかならない。すなわち新しい時代の新しい建築家たちは、みな同じような舞台空間を提案していたのである。
ベーレンスもまたオストハウスの依頼により、ハーゲンに住宅を設計している。オストハウスはホーエンハーゲンの自邸『ホーエンホーフ』をヴァン・デ・ヴェルデに設計させたが、その他の数軒の住宅をベーレンスに設計させた。
1907年に描かれたはい地図を見ると、中央の正方形の「黄金のゲート」と名づけられた広場を中心に数軒の住宅が配列されている。現在でも修復されて残っているハーゲン市長の自邸である『クノ邸』、そしてすでに取り壊された『シュレーダー邸』や『ホーエンホーフ』が南北軸に並び、それと直交するように、東西軸にはその東側に向かってウンター・カスタニエン(栗の木の並木)通りが伸びたその端部に屋外劇場が提案されていた。ベーレンスのこの『森の劇場』では夏の演劇祭のプログラムが考えられていた。(長谷川章/東京造形大学教授)
引用・図版:長谷川章『世紀末の都市と身体』ブリュッケ、2000年


