第2回 江戸から横浜へ

当社は、1840年に京橋で創業してから横浜へ本店を移している。横浜に本店があったことを知っている人は少ないのではないだろうか。創業から再び東京に戻る1880年までの鹿島を、幕末から明治へと変遷する時代背景と絡めながら紹介しよう。

大工の岩吉

天保の飢饉、大塩平八郎の乱の後、老中水野忠邦は天保の改革で綱紀粛正・風俗匡正・倹約を行った。1841年のことである。

鹿島岩吉が大工の棟梁として江戸中橋正木町(現・中央区京橋1-13)に店を構えたのは、その前年の天保11 (1840)年であった。独立に際し、大名屋敷に近く便利なこの地を選んだと伝えられる。その後岩吉が出入り大工となった桑名藩主松平越中守の上屋敷は、楓川(現・首都高速道路)にかかる越中橋(現・久安橋)を渡った所。その向こうには八丁堀組屋敷が広がっていた。

遠山左衛門尉景元が北町奉行に就任したのも岩吉の独立と同じ天保11年。奉行所は呉服橋御門内(現・東京駅八重洲北口付近)にあった。

文久3(1863)年再刻尾張屋の江戸切絵図。中央を流れる楓川の中央寄り左下に松平越中守の上屋敷があり、その屋敷前に架かる越中橋の左上に大鋸町、正木町、南鞘町がある文久3(1863)年再刻尾張屋の江戸切絵図。中央を流れる楓川の中央寄り左下に松平越中守の上屋敷があり、その屋敷前に架かる越中橋の左上に大鋸町、正木町、南鞘町がある

現在の地図(江戸切絵図にある横線から上の部分)。正木町は赤く囲った場所。高速道路は河川を埋め立ててできたことがわかる。昭和通りは関東大震災後にできた現在の地図(江戸切絵図にある横線から上の部分)。正木町は赤く囲った場所。高速道路は河川を埋め立ててできたことがわかる。昭和通りは関東大震災後にできた

埋立地だった正木町

「昔本材木町より東中通に連なる一條の入堀なりしを元禄年間埋築して市街とせし」(*1)正木町は、元禄3 (1690)年頃に埋め立てられた土地。元は江戸城の築城用材木や石材の陸揚げ用の入堀だった。その後、埋め立てて町屋とし、明治2(1869)年4月、南隣の南鞘町に統合された。当社の初期の小史に「京橋の鞘町邊に店を置き」とあるのはそのためである。「天保14年頃には家を京橋大鋸町に移し」とある書物もある。大鋸町は正木町の西隣と北隣。岩吉がいた時代、歌川広重の住居や中橋家狩野屋敷があった。

延宝年間(1673-80)の入堀の様子。矢印が後に正木町となる場所延宝年間(1673-80)の入堀の様子。矢印が後に正木町となる場所

幕末、ペリー来航(1853年)、安政大地震(1855年)等で、開府以来250年安穏としていた江戸に不安が翳る。安政コレラ(1858年)は、江戸だけでも死者28万人といわれ、歌川広重もコレラで亡くなっている。岩吉が横浜へ移ったのはその頃のこと。「黒船来航以来明治維新となるまで江戸は騒然たるものがあったので、岩吉は当然江戸を出て横浜に乗り出し」(*2)たのである。

新しい町横浜へ

安政5、6(1858,9)年頃、岩吉は江戸の店をたたみ、横浜に本店を移した。そして、最初の洋館・英一番館を建てる。しかしこの移転の年は、「慶応3(1867)年同地に移住し」(*3)た説もあり、定かではない。

たった101戸の村・横浜では開港(*4)に備え、突貫工事が進められる。大工の手間賃は江戸の2倍。「当時の横浜は、少なくとも手堅い棟梁・職人の行く所ではなかったようである。しかしこのような人々の中にも、大胆ではあるが着実に歩みを進めていた人がいた(中略)その代表的な例が、初代及び二代目清水喜助と鹿島岩吉であろう。彼らは開港を知るといち速く横浜に進出して後の請負業としての基礎を固めている。」(*5)

御開港横浜の図。文久3(1863)年一川芳院。左の彩色してある区画が外国人居留地。右が日本人街。上の四角く囲った部分が遊郭街。その周りは葦の原御開港横浜の図。文久3(1863)年一川芳院。左の彩色してある区画が外国人居留地。右が日本人街。上の四角く囲った部分が遊郭街。その周りは葦の原

明治14年2月に内務省地理局測量課が発行した横浜全図。波止場近くの四角く囲った所が英一番館、街中の赤い印が鹿島明治14年2月に内務省地理局測量課が発行した横浜全図。波止場近くの四角く囲った所が英一番館、街中の赤い印が鹿島

急激な変化の中で

現在の横浜スタジアム付近には遊郭街ができ、芝居小屋や寄席も相次いで開業する。しかし周りはすべて葦の原。罪人は町外れの橋の袂で晒し首にされ、大名行列前を馬で横切った英国人が切られる生麦事件が起きるなど、まだまだ物騒な時代の横浜であった。

慶応2 (1866)年、遊郭付近の豚肉料理店から出火し、遊郭と居留地の大半、日本人居住区が延焼する(*6)。この後日本人街と居住地の境に防火帯の日本大通と公園ができた。明治元年に境町官地が入札で貸与され、「彼我ノ境界ナルヲ以テ塗家ニアラサレハ建築スルヲ許サス」(*7)場所(横浜市境町1-4)に鼈甲商の岩蔵が店を構え、そこが岩吉の仕事の拠点、つまり本店となった。「発展期の横浜居留地の異人館や大小の西洋館の新築、改築の需要は引きもきらず多くの注文をかかえ、明治の初め頃には“大岩”を“鹿島方”と改称して活気にみちていた。」(*8)

先人たちは、刻々と変わりゆく横浜で明治維新を迎えた。明治5年、岩吉は神奈川県指定請負3名のうちのひとりに選ばれる。

現在の横浜。画面上四角く囲った所が英一番館(現・シルクセンター)、街中の赤い印が鹿島のあった場所(現・日本銀行)、画面下の四角く囲った所が現在の横浜支店現在の横浜。画面上四角く囲った所が英一番館(現・シルクセンター)、街中の赤い印が鹿島のあった場所(現・日本銀行)、画面下の四角く囲った所が現在の横浜支店

再び東京へ

鹿島は横浜で「洋館の鹿島」として名を馳せながらも、東京方面での仕事も行っていた。そして明治13(1880)年、鉄道請負に専念することを決め、再び東京に戻る。

横浜の鹿島はその後、「港町の川岸、金(かね)の橋(吉田橋)※の近くにあった。其の頃横浜に支店を置く必要はなかったのであったが、わが組の発祥の地というので何となく存在を続けて居たものだ。」(*9)と明治20年頃の思い出に書かれている。

東京に戻った鹿島は木挽町に本社を置き、「鉄道の鹿島」として新たな道を歩み出すこととなる。

※原文のまま。鐵(かね)の橋。明治2年12月竣工の日本初の鉄橋。明治7年まで通行料を徴収した。

*1 京橋協会『京橋繁盛記』(大正元年)
*2 作者不詳『わが鹿島組』(昭和13年)
*3 (社)鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治編』(昭和42年)
*4 1859年7月1日(安政6年6月2日)
*5 初田 亨「建築史からみた横浜」神奈川県立博物館『横濱銅版畫』 (昭和59年)
*6 豚屋火事
*7 太田久好『横浜沿革誌』(明治25年)
*8 鹿島卯女「理事長の日記より」鹿島建設月報昭和43年8月号
*9 鹿島龍蔵「深川時代の追憶」鹿島組月報大正14年3月号付録

(2007年2月19日公開)

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