第4回 建築再生

当社の発祥は建築であり、英一番館、蓬莱社、岡山県庁、抄紙会社工場(後の王子製紙)をはじめ数多くの建物を手がけ、「洋館の鹿島」として名を馳せる。その仕事ぶりを見込んだ当時の鉄道頭・井上勝(*1)の勧めで鉄道工事を行い、その後「鉄道の鹿島」と言われるまでになったが、これを機に土木、建築を両輪とすべく動き出すことになる。建築再生の時代の工事と先人たちの足跡を追ってみよう。

「鉄道の鹿島」時代の建築工事と建築部

明治13年、「洋館の鹿島」から活動の中心を鉄道工事に移した鹿島であるが「一方では依然として建築の仕事も続けていた」(*2)。しかし井上に鉄道に専念するように言われ、「鉄道の鹿島」と言われるまでになる。

当時、土木・建築の明確な区分はなく、鉄道工事に駅舎が、水力発電所工事に発電所の建屋も含まれるという「土木工事」も多かった。

ところが、日露戦争後、工場や大型のビル工事が増え、建築部を創設することになる。「建築部は大正7年から設けられたのだが、それまでは土木工事に付随した発電所や鉄道の土木工事に続いて駅舎などの建築が主となっていた関係上(中略)鹿島組は土木専門のように思われていたので、建築に就て特命は元より入札指名さえも餘り無く、偶々あっても辞退しておられた位であったので、建築部が出来てもあまり華々しい事はなかった。」(*3)と建築部創設当時の様子を竹川渉(*4)は回想している。

中央大学校舎建替工事

そのような状況にあった鹿島が大正7年3月、失火で全焼した中央大学の校舎建替を行う。現存資料の中では建築部となって初の工事と言える。

中央大学校舎(煉瓦造り2階建 建坪800坪)103,000円 大正7年5月~8月(校舎は関東大震災で焼失) 中央大学校舎(煉瓦造り2階建 建坪800坪)103,000円 大正7年5月~8月(校舎は関東大震災で焼失)

中央大学の大学史には「設計建築の一切を鹿島組に托し、6月22日には早くも上棟式をあげ、8月30日建坪800余坪の二階建て耐火建築の竣工をみた。」(*5)とある。受注の経緯は不明だが、このときの健闘が買われ、大正8年12月の中央大学財団評議会で予科校舎の工事が「建築は鹿島組によって請け負われ、来春始業期(4月)までには竣工する予定であると報告された。」(*6)この建物は大正9年5月に竣工した。

東京都公文書館には、大正7年中央大学校舎改築願に添えた設計図面が残されているが、残念ながら鹿島組の記載はない。

中央大学が文部大臣に提出した校舎改築願(東京都公文書館) 中央大学が文部大臣に提出した校舎改築願(東京都公文書館)

中央大学校舎新築設計図(部分)(東京都公文書館) 中央大学校舎新築設計図(部分)(東京都公文書館)

優秀な若手を引き抜いて増強

大正8年、大倉土木組(現・大成建設)の一條節郎は「鹿島精一組長(*7)が会いたいと言っている」との伝言を受ける。南部同郷会(*8)での面識程度で会う理由がわからぬまま深川の鹿島邸を訪ねると「建築部を独立運営するから来て欲しい。大倉の首脳には自分が話をつけてやるから心配ない」と言われる。鹿島に来たのは翌年2月、一條29歳の決断であった。当時の鹿島組本店には工務、計理、庶務の3係に商事部を加え、30名、現場も合わせて100名ほど、建築系組員はたった4名しかいなかった。

入社後一條は、以前から懇意だった大日本製糖東京工場長の所に日参し、増改築工事を特命で受ける。当社にとっては画期的な大型工場工事となった。

一條節郎(大正9年2月入社、昭和4年8月退職)当社総務部大高主任の祖父。岩手県立工業学校(現・盛岡工業高校)卒業。大倉土木組入社後、大倉組本社(銀座初の5階建。大正4年)、国府津駅機関庫(明治44年)、三井倉庫などを手がけ、鉄筋コンクリートで施工をする鉄筋部に所属一條節郎(大正9年2月入社、昭和4年8月退職)当社総務部大高主任の祖父。岩手県立工業学校(現・盛岡工業高校)卒業。大倉土木組入社後、大倉組本社(銀座初の5階建。大正4年)、国府津駅機関庫(明治44年)、三井倉庫などを手がけ、鉄筋コンクリートで施工をする鉄筋部に所属

建築はさっぱり儲からない

しかし、建築受注は第一次世界大戦(大正3~7年)後の不景気、震災恐慌、金融恐慌、昭和恐慌と続く慢性的な不景気でなかなか増加しない。中小企業の倒産、銀行の休業も相次ぎ、同業では人員削減が断行された。

後に鹿島精一はこの頃のことを「建築が大分面白そうだからと言うので、少しやりだしたところが、昭和5年頃の不景気にぶつかってさっぱり儲からない。建築のほうが安全で儲かるものだと思ったのがなかなか競争が激しくて仕事がとれず、とれば損すると言うようなことでしばらく建築のほうに手を広げないで置こうという時代がありました。」(*9)と語っている。

日之出セメント天草工場(二間戸工場)新築工事(熊本県)SRC造195,200円昭和7年12月~8年3月全景(写真左)大鉄管据付ほぼ完了(写真下) 社員は工事終了後、そのまま天草下島道路工事(土木)の現場へ赴いた日之出セメント天草工場(二間戸工場)新築工事(熊本県)SRC造 195,200円 昭和7年12月~8年3月
全景(写真左)
大鉄管据付ほぼ完了(写真下)
社員は工事終了後、そのまま天草下島道路工事(土木)の現場へ赴いた

建築部の改革

このままでは鹿島組の中に建築が育っていかないと危機感を抱いた鹿島守之助(*10)は昭和9年9月、「建築部の改革」を行う。「(前略)現在建築部に必要なるは機構の変更にあらずして機構の浄化である、その腐敗の匡正である。(中略)計画経済が成功するためには社員の精神も相当変わらなければならない。単なる規約の改正だけでは、成功は覚束ない。(中略)鹿島組は過去に於いてあまりに繁栄が永続したから内輪の者には気付かれないようであるが、相当不健全なる要素が堆積している。これが現在不況の原因である。機構の変更にあらずして其の洗浄が繁栄への道である。現在の不況に依って新しいよりよい道念が確立せらるれば何よりの幸である。唯この希望と確信によってのみ建築部の新なる改革の成功を期待することが出来る。」(*11)

これ以降、土木と建築が鹿島の両輪となって大きく育っていくのである。

上野駅改良工事(昭和5年2月~9年7月)当時土木の丹那トンネル工事と双璧をなしていた。後の鹿島を担う人々は、土木は丹那、建築は上野に携わった人たちが多いといわれる。上野駅改良工事の詳細は7月号で紹介予定上野駅改良工事(昭和5年2月~9年7月)当時土木の丹那トンネル工事と双璧をなしていた。後の鹿島を担う人々は、土木は丹那、建築は上野に携わった人たちが多いといわれる。

*1 1843-1910 元長州藩士。造幣頭兼鉱山正、鉱山兼鉄道頭、鉄道頭、工部大輔、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任。小岩井農場創設者の一人、貴族院議員。日本の鉄道の父。東京駅丸の内駅前広場に銅像がある。
*2 鹿島精一 座談会「日本の土木建築を語る」(昭和17年)
*3 竹川渉「感激」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(昭和25年)p184
*4 大正8年1月入社、建築部次長を経て昭和22年6月~26年1月監査役。一條とともに大正・昭和期の建築部の中心人物の一人。
*5 中央大学『中央大学七十年史』(昭和30年)p102
*6 中央大学百年史編集委員会専門委員『中央大学百年史 通史編 上巻』(2001年)p382
*7 1875-1947 明治32年副組長、明治45年組長、昭和13年会長
*8 明治初期に旧藩主を中心に在京旧藩出身者と学生が創設。大正前期までは郷党関係唯一の団体。昭和初期に旧藩意識を離れた在京岩手学生会(初代会長:鹿島精一)となった。
*9 鹿島精一 座談会「日本の土木建築を語る」(昭和17年)
*10 1896-1975 昭和9年7月から当社の経営に携わり昭和11年4月取締役、昭和12年5月副社長、昭和13年組長(昭和22年~社長)、昭和32年会長
*11 鹿島守之助「建築部の改革」鹿島組月報昭和9年10月号
協力:中央大学大学史編纂課
参考資料:塩谷誠『日糖六十五年史』(大日本製糖昭和35年) 社史発刊準備委員会『大成建設社史』(大成建設昭和38年)

(2007年2月19日公開)

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