第6回 賞与の始まり

6月と12月は賞与(ボーナス)の季節である。日本独特の進化を遂げたともいえる賞与は、いつごろ生まれたのだろうか。賞与の始まりと明治時代の賞与についてたどる。

7世紀後半にあった賞与の考課表

賞与は、元は「餅代」から発展したものといわれている。

江戸時代、暮れになると商家や職人の主人から番頭・手代へ「餅代」という名で包み金が支給された。また、住込みの丁稚・手代が唯一休める盆正月の薮入りには、主家から「身綺麗にして田舎へ帰りなさい」と小遣いとお仕着せ(*1)が支給された。これらが賞与の起源といわれている。

さらに遡ると、酒船石(さかふねいし)遺跡(奈良県明日香村)から現物支給の賞与である「季禄」(*2)が書かれた木簡が出土している。7世紀後半の役人の考課表である。

明治時代に始まった「賞与」

明治維新後、文明開化と共に人々の生活は急激に変化し、産業界もまた変化を遂げていく。そして近代産業の成立とともに「賞与」が生まれた。

日本初の賞与は明治9年12月、郵便汽船三菱会社が出したといわれている。世界最大の海運会社との6ヵ月の防戦の功績を労い、給仕・小間使いに至るまで賞与を支給。しかしこれが制度化して毎年のこととなるのは、明治21年であった。

清水建設の社史には明治17年7月の賞与が掲載されている。明治14年から経営に携わった3代目清水満之助が「各現場における利益金の一割を賞与として関係店員に分配」(*3)とある。

賞与の支給は、明治10年代から官吏や財閥系企業を皮切りに、通例化していく。

明治21年の賞与

では、鹿島組ではいつから「賞与」という形を取ったのだろう。鹿島方を鹿島組と改め、鉄道工事に力を注ぎ始めたのが明治13年であるから、明治14、15年頃から賞与が支給されたのではないかと思われる。連載第1回にも登場した星野(芳田)鏡三郎は、明治21年に800円の賞与金を得ている。明治19年及び20年の功労金とある。通常前年度に対しての功労が、なぜこの年は前2年分の賞与金なのかは不明だが、これが当社に現存する最古の賞与の証である。

星野(芳田)の賞与。金額に「鹿島検之」と検印が押されている。賞与800円は破格星野(芳田)の賞与。金額に「鹿島検之」と検印が押されている。賞与800円は破格

「鉄道工事請負場所担当中の功績」は、翌明治22年から「担当業務勉励功労少からず候に付」と書式が改められ、一年の功を全体に労う形に変わった。金額と日付の墨の色は薄く、後から書き入れたことが見て取れる。

明治22年6月の賞与明治22年6月の賞与

鹿島の三部長

星野は当時、新見七之丞、池田亀吉と共に「鹿島の三部長」の一人で、鹿島組組長・鹿島岩蔵の現場代人(当時の呼称)として活躍していた。

星野鏡三郎(明治41年ごろ)星野鏡三郎(明治41年ごろ)

新見七之丞新見七之丞

池田亀吉池田亀吉

建設業にとって、この現場代人の占める役割は大きい。特に、現在のように情報網が発達していない時代、店主(組長)の意思を各所に徹底するのは大変な努力を要した。現場事務所にはもちろん電話はない。本店の電話は明治26年頃には設置されていたが、営業所に設置され始めたのは大正時代の半ばを過ぎてから。電報も、明治13年には主要都市間で整備されたが、全国網になったのは大正から昭和初期であった。

そのような中で、経営者の意思が地方にいる現場代人に届かず、失敗して消えていった会社が数多くあるという。鹿島精一(*4)はそのことを、昭和4年に行われた講演で次のように語っている。

「その場所で臨機の処置を、委任を受けた手代が執らなければ仕事ができない。そこで手堅い人は兎に角敏活を欠き、また非常に機敏な腕のある人、お得意の御機嫌を損ぜず相当賢く働いて金儲けの旨いという方は中々良い事ばかりはしない。つまり荒っぽい仕事をやっているのに手堅くて、そして機敏に働くこれ両方を備えた人を得ることがもっとも難しい」(*5)

鹿島では、「三部長」が施工を担当し、完成時に利益の一定額が賞与として与えられる「部長請負方式」(*6)を取っていた。組長・鹿島岩蔵は、この「鹿島の三部長」に全ての監督を委ね、破格の報酬を出すことによってその労に報いたのであった。

昭和15年から年2回支給に

昭和4年発行の「鹿島組五十年小史」では、「賞与には年末賞与と成功賞与との二種あり」とあり、いつの間にか賞与の支給時期が年末に変わっている。鉄道院では半期ごとの賞与が明治45年から他の官吏と同じ、年末賞与のみになった。それに倣ったのだろうか。

鹿島組五十年小史(昭和4年発行)鹿島組五十年小史(昭和4年発行)

星野の賞与は、この明治21年のものから彼が退職する明治30年のものまで残されており、それらを見ると毎年5~8月の間に支給されている。

星野の最後の賞与である明治30年8月付け賞与の次に残っている賞与は、田井慎一郎の最初の賞与で、大正8年12月付けとなる。この間22年間の賞与の変遷が分かるものは、残されていない。

田井は同年2月入社。当時20歳くらいだった田井は同年2月入社。当時20歳くらいだった

当社の賞与はその後、昭和15年から中元手当と称したものが支給されて年2回支給となった。そして、「第○期普通賞与」という名称を経て、現在の夏季賞与・年末賞与という名称に変わったのは、昭和32年のことであった。

*1 主家によって違うが、足袋、着物、帯などの衣類一式
*2 文武の職務につく官人に出勤日数や成績などに応じて絹・綿などを春と秋に支給するもの
*3 清水建設『清水建設二百年 経営編』(2003年)
*4 1875-1947 明治32年副組長、明治45年組長、昭和13年会長
*5 鹿島精一「土木建築について」(昭和4年1月25日 信用調査講求会第141回例会での講演)
*6 担当者の経営意欲を高める方式として昭和40年代まで続いた建設会社もあった

参考資料
三菱グループホームページ
鍵山整充・太田滋『日本型賃金-その推移と展望』白桃書房(2006年)

(2007年2月19日公開)

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