第10回 明治期の鉄道工事

横浜や神戸で「洋館の鹿島」として名を馳せた鹿島は、毛利邸洋館を建設中に鉄道頭・井上勝に出会う。元長州藩士の井上は公務の余暇にたびたび旧藩主邸の普請を見に来ていた。鹿島はその働きぶりを買われ、井上から国の将来を担う鉄道工事への進出を勧められる。明治13年3月、鹿島は鉄道工事を事業の中心に据えることになった。しかし、それより前に鹿島は日本初の鉄道工事に関わっていたのである。

刀を差して測量開始

政府は明治2年11月10日(*1)、東京-京都(中山道経由)、東京-横浜、京都-神戸、琵琶湖-敦賀の4路線の鉄道敷設を決定する。明治3年3月、エドモンド・モレル(*2)が鉄道技師長としてイギリスから招かれ、測量が開始された。役人は大小の刀を差し、陣笠に羽織袴姿で外国人の測量を手伝ったものの、刀は機器を狂わせ、羽織袴は動作が不便であったため、軽服着用となった。

東京-横浜間は約18哩(マイル)(29km)。外国人技師の指導監督のもと直営(一部請負)で施工した。もともと鉄道より軍備という考えの兵部省は、高輪の土地を「軍事上必要であるから手放せない」と 測量すらさせない。大隈重信は「軍の土地などいらぬ、陸蒸気(おかじょうき)を海に通せ」と、田町-品川間2.7kmの海上に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通した。当時の品川の海は遠浅で、測量は干潮時に泥にまみれながら行ったという。

この付近の線路撒布用砂利1,000立坪(約6,000m³)を、明治3年10月、鹿島が納入している。高島嘉右衛門(*3)の勧誘があったためと伝えられる。これが日本初の鉄道と鹿島との最初のかかわりであった。

直轄方式で発注して遅れた関西線の開通

並行して政府は明治3年7月から阪神間の線路測量を開始。神戸相生町から大阪梅田までの20哩の工事が、東京より1年4ヵ月も余分にかかった原因は、直轄方式だといわれる。現場当局者は役所が直接作業員を集め、工事をさせれば工費を減らせると考えた。安く無尽蔵に集められた作業員は、統率する頭(かしら)もおらず、組織も訓練も経験もない素人集団の集まりである。工事は遅れた。

これ以降、鉄道頭・井上勝(*4)は、請負業者でないと鉄道工事は進まないと痛感し、その指導・擁護に努めることとなる。

高輪付近。八ツ山・御殿山を切り取った土砂を牛馬で運搬して埋め立てた。右側が堤防(「日本国有鉄道百年写真史」より)高輪付近。八ツ山・御殿山を切り取った土砂を牛馬で運搬して埋め立てた。右側が堤防(「日本国有鉄道百年写真史」より)

明治10年ごろの品川駅。右上に海が見える(「日本国有鉄道百年写真史」より)明治10年ごろの品川駅。右上に海が見える(「日本国有鉄道百年写真史」より)

トロッコを使った斬新な施工

明治13年開通の大津線(京都-大津間)は、日本人技術者の手による初の鉄道となった。鹿島が鉄道請負として参入したのはこの頃で、敦賀線(*5)(米原-敦賀間)を施工した。請負金額は約20万円。明治12年当社施工の木造2階建て洋館・岡山県庁舎(延べ1,950m²)が1万3,600円であるから、鉄道工事の金額の大きさがわかる。

この後鹿島は、長浜-大垣線、日本鉄道会社線(東北本線)、新宿-品川間、山手線田端-池袋間改良、中山道幹線高崎-横川間など次々と施工。「品川-赤羽間の工事の際には新進杉井は先進鹿島と雁行し鎬(しのぎ)を削って、業界の注目を引いたが、施工振りを見るに杉井は新進なれど昔の鳶職気分に支配されて保守的であり、先進の鹿島は新進気鋭の技術者首脳者が多く頗(すこぶ)る進歩的であった」。(*6)後の鉄道院副総裁・古川阪次郎は鹿島の創業50周年(昭和4年)の祝辞で、「明治17年に新宿-板橋間の工事で、当時土の運搬は人が担ぐか猫車だったが、鹿島組はトロッコを使い、斬新だった」と述べている。

馬で1ヵ月かかる現場巡回

明治21年5月着工の小繁-青森間工事は交通不便な場所で、横浜から船で青森の湊に到着後、馬を飼い、馬に乗って現場周りをした。それでも大急ぎに巡回しても一ヵ月はかかったと現場代人・新見七之丞(*7)は後に述懐している。

その後明治32年、朝鮮半島で最初の鉄道・京仁鉄道、台湾縦貫鉄道、満鉄本線複線工事と海外でも各所で工事が続いた。

明治37年ごろの朝鮮半島での鉄道橋建設工事(京釜線速成工事三柳里橋)明治37年ごろの朝鮮半島での鉄道橋建設工事(京釜線速成工事三柳里橋)

中央西線施工の際の測量隊(明治41年ごろ)中央西線施工の際の測量隊(明治41年ごろ)

明治42年ごろ。鹿児島線矢嶽トンネル。熊本県人吉と鹿児島県吉松間のトンネルで、これによって九州北部と鹿児島が結ばれた明治42年ごろ。鹿児島線矢嶽トンネル。熊本県人吉と鹿児島県吉松間のトンネルで、これによって九州北部と鹿児島が結ばれた

当時の鉄道工事では隧道の巻立、橋梁、溝渠(こうきょ)(*8)に基礎以外全て煉瓦を使った。砂利や砂が傍にあっても、業者が鉄道近くに作った工場製の、高価で強度の薄い煉瓦が使われた。隧道の坑門、建造物の表面には高級な煉瓦が使われた。また、現場の多くは山間僻地で道路もないため、牛馬や人が資材を運んだ。

現在、国内の鉄道の総延長は2万7,400km。ごく当たり前の交通手段として私たちの生活に馴染んでいる。交通手段が船、馬、徒歩だった時代に、道なき道を切り拓いて鉄道を作った先人たちの苦労に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。

新橋から東京にかけて現在も残る煉瓦造りの高架橋は鹿島施工。新橋起点の東海道線と上野起点の東北線を結ぶための東京市街線は新銭座と永楽町を結ぶ「新永間市街線高架橋」と呼ばれ、ベルリン高架鉄道の煉瓦アーチ式高架橋を採用した。明治43年開通新橋から東京にかけて現在も残る煉瓦造りの高架橋は鹿島施工。新橋起点の東海道線と上野起点の東北線を結ぶための東京市街線は新銭座と永楽町を結ぶ「新永間市街線高架橋」と呼ばれ、ベルリン高架鉄道の煉瓦アーチ式高架橋を採用した。明治43年開通

明治41年に発行された「開国五十年史」の鹿島組広告明治41年に発行された「開国五十年史」の鹿島組広告

*1 太陽暦では12月12日。明治5年まで太陰暦使用
*2 Edmond Morel 1841-1871 鉄道開通前に結核で死去。英国製枕木でなく日本の木材使用を提案、「国内で技術者を養成せよ」と伊藤博文に進言した
*3 1832-1914 横浜の実業家・易断家。神奈川・横浜間を埋め立てるなど発展に寄与
*4 明治4年に鉄道頭となった井上は(第4回脚注参照)、欧米出張した伊藤博文の工務省後任・山尾庸三と合わず6年7月退官。帰国した伊藤により7年1月再任。直轄工事は井上不在の時期
*5 滋賀県米原から福井県敦賀。後の柳ケ瀬線(KAJIMA2004年2月号「鹿島紀行」参照)
*6 鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治編』(1967年)p61
*7 1854-1919 鹿島の三部長のひとり。「鹿島の新見か、新見の鹿島か」といわれた。折衝が巧みで業界代人中でも傑出
*8 鉄道が跨ぐ幅の狭い水路や道路など

(2007年2月19日公開)

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