第14回 生駒鋼索線(生駒ケーブル)

奈良県にある生駒鋼索線(生駒ケーブル)は、日本で最初に乗客を運んだ営業用ケーブルカーである。
大正7(1918)年8月29日に開業し、今も近鉄生駒鋼索線として急斜面を昇降している。
鋼索鉄道(ケーブルカー)とはケーブルを繋いだ車両を巻上機で巻き上げて斜面を走行する鉄道線をいう。この日本初の鋼索線(ケーブルカー)を施工したのが鹿島であった。

駕籠と電車の写る写真

ここに一枚の写真がある。一両の登山電車(*1)と通り過ぎるのを待つ駕籠、ひとりは草鞋、後ろは地下足袋を履き、2人とも腰には煙草入れとキセルをぶら下げている。駕籠に乗っている人は着物姿だ。その後ろは草鞋履きで薪を背負った樵(きこり)だろうか。電車の中には詰襟姿の運転士と、その右に乗客が座っているのが見える。線路はぐんぐんと斜度を上げ、電柱や電線とともに山頂方向に伸びている。線路右側の法面は養生してから間もないように見える。

ケーブルカーが通り過ぎるのを待つ人たち(大正7年)急な斜面を登った山頂にある神社仏閣の参拝には一般的に駕籠が使われていた。駕籠や馬が沿線で客待ちしている様は、昭和初期まで各所で見られた。 ケーブルカーが通り過ぎるのを待つ人たち(大正7年)急な斜面を登った山頂にある神社仏閣の参拝には一般的に駕籠が使われていた。駕籠や馬が沿線で客待ちしている様は、昭和初期まで各所で見られた。 クリックすると拡大します

現在の同じ場所。踏み切りの道は狭く、車一台通れる程度だが、線路の向うには住宅街が広がる。山の形と山に向かって伸びる線路は変わらない。山頂の遊園地に合わせたデザインの電車となっている。これは猫の「ミケ」現在の同じ場所。踏み切りの道は狭く、車一台通れる程度だが、線路の向うには住宅街が広がる。山の形と山に向かって伸びる線路は変わらない。山頂の遊園地に合わせたデザインの電車となっている。これは猫の「ミケ」

これは、大正7年8月に開通した日本初のケーブルカー、生駒鋼索線の開通当時の写真である。生駒鋼索線は生駒鳥居駅前から宝山寺駅までの約0.9キロの路線で、生駒山中腹にある真言律宗の大本山・生駒山宝山寺(*2)の参詣客のために建設された。

*1 後のケーブルカーと違い、生駒鋼索線は一般鉄道車両と同様の二輪一軸式(一本の車軸に左右の車輪)。捲揚機にも一般の電気鉄道同様直流550Vのモーターを使った。
*2 生駒山宝山寺 延宝6(1678)年僧宝山湛海の開山。古くは都史陀山大聖無動寺という。奈良時代、役行者が般若窟を行場としたと伝えられる。不動明王を本尊とし、秘仏大聖歓喜自在天(聖天)を聖天堂に祀る。生駒駅開業で、大阪から峠越えで宝山寺へ参詣する二つの古参道は姿を消した。

アジアでは香港にしかない登山鉄道

大正2年7月、宝山寺近隣の有志が一年前に政府に出願していた生駒山鋼索電気軽便鉄道の許可が下りる。そこへ大正3年4月の大阪電気軌道 (現・近鉄奈良線)開通(*3)で、生駒・宝山寺間を結ぶ鉄道の必然性が急速に高まっていった。同年7月、大軌(大阪電気軌道株式会社)の役員と宝山寺の援助で資本金14万円の生駒鋼索鉄道株式会社が誕生、工事に着手する。「まだ我国の何処にも登山鉄道はなく、実物は香港まで出かけなければ見ることができず、参考資料さえもほとんどない時代で、自分としても素より何等この方面に知識を有せず(中略)にわかに海外における文献を集めて勉強を始め、身の程も知らず実施設計に手を染めたので、今も当時を顧みて冷や汗の思いがする」(*4)と設計者の大戸は後に述べている。

*3 明治42年大阪電気軌道株式会社(現・近畿日本鉄道)誕生。大阪上本町駅から奈良駅までの30.8km(現在の近鉄奈良線)開業時の所要時間55分。それまでは旧関西本線で1時間20分
*4 大戸武之「鍵田翁を想ふ」鍵田忠三郎編『鍵田忠次郎翁伝』(昭和31年)

宝山寺の敷地整備

戸部戸米次が生駒ケーブルの鹿島組工事現場へ赴任したのは大正6年春、生駒山の桜が散り始めた頃であった。小僧の修行時代を経て、前年秋に工手学校(後の工学院大学)土木科を卒業した若き技術者にとって、初めての本格的な現場である。出張所主任は日吉於菟一郎(後の監査役)、現場主任太田金之助(初代大阪出張所長)、他に萩原三郎(2代大阪出張所長)、いずれも関西の中心的人物。しかし、意気揚揚と乗り込んだ戸部を待ち受けていたのは宝山寺の整地工事であった。敷地を広く取るため高さ8m、1分5厘の勾配で石を積む。2度の法面崩壊でも勾配変更は許されず、3回目に1尺余掘りして裏詰め栗石で敷地整備を終えた。

宝山寺資料室によると、寺の敷地内で高さ8mもの石垣があるのはここだけなので、たぶんこの場所ではないかとのこと。現在はコンクリートで固められている斜面は20mほど続く。駐車場整備工事中だったがガードレール脇の灯篭に寺の敷地らしさが見える。宝山寺資料室によると、寺の敷地内で高さ8mもの石垣があるのはここだけなので、たぶんこの場所ではないかとのこと。現在はコンクリートで固められている斜面は20mほど続く。駐車場整備工事中だったがガードレール脇の灯篭に寺の敷地らしさが見える。

明治期の宝山寺。右下の崖の部分を整地したと思われる。(資料提供:宝山寺) 明治期の宝山寺。右下の崖の部分を整地したと思われる。(資料提供:宝山寺) クリックすると拡大します

鋼索線建設に戻った戸部は、同僚の萩原と二人、コンクリート練り、石積、アーチの巻き立て、鋳型などに独自の工夫を重ねて工事を続けた。途中から赴任した若い戸部には知る由もなかったが、宝山寺の整備も生駒鋼索鉄道建設の一環だったのであろう。苦しい大阪電気軌道を救ってくれた(こぼれ話参照)宝山寺へのお礼の意味もあったのかもしれない。

当時の宝山寺駅 当時の宝山寺駅 クリックすると拡大します

現在の宝山寺駅(2007年)現在の宝山寺駅(2007年)

大正7年8月29日、生駒鋼索線は開業する (*5) 。初年度の大正8年度には乗客数は144万人にもなった。快調な営業を続け、半年後には複線計画が持ち上がり(*6)、日本全国の登山鉄道の発展を促した。生駒鋼索鉄道は大正11年1月、出資者であった大軌に合併される。その後、大阪電気軌道は目覚しい発展を遂げ、近畿日本鉄道となって関西一円の鉄道事業を始めとする様々な企業グループを包括する大企業に成長している。

*5 営業時間6時~22時(夏期は24時)10~15分間隔。鳥居前・宝山寺間7分。往復19銭、片道12銭
*6 昭和元年12月開通、昭和4年には宝山寺・山頂駅間の山上線も開通。山上線は宝山寺の下を開削工法で掘ったトンネルで抜ける。

参考図書
近畿日本鉄道『50年の歩み』(昭和35年)
大林組社史編集委員会『大林組八十年史』(昭和47年)
高梨光司編著『金森又一郎翁伝』(昭和14年)
松藤貞人『奈良県の軽便鉄道』(2004年)
鍵田忠三郎編『鍵田忠次郎翁伝』(昭和31年)

協力
近畿日本鉄道秘書広報部
生駒山宝山寺資料室

(2007年4月26日公開)

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