第32回 軽井沢、鹿島の森のはじまり

軽井沢に「鹿島の森」と言われる場所がある。今から120年近く前、そこは長野県が種牝牛馬を放牧している広々とした牧場だった。鹿島の森は、今では落葉松の木々が森を作り、軽井沢を代表する別荘地となっている。

軽井沢は戦場だった

碓氷峠に隣接する軽井沢(現在の旧軽井沢付近)は、昔から軍事上重要な交通路で、大きな戦が何度も行われた。1334年の新田義宗と足利尊氏の合戦の際には、碓氷峠にある熊野神社の神官・滋野八郎が30余旗を率いて戦い、1542年の上杉武田笛吹き合戦では、碓氷峠と軽井沢が決戦場になっている。

江戸開府とともに軽井沢は、箱根と並ぶ急峻な碓氷峠を越えるための宿場町として整備されてきた。中山道は、五街道のうちでも京都と江戸をつなぐ交通上重要な幹線で、1604年には東海北陸両道と共に道路が改修され、36町ごとに一里塚が築かれる。横川には関所が置かれ、軽井沢は18番目の宿駅になる。

寛永年間には参勤交代の本陣が設けられ、庶民の泊る旅籠も整備された。大小30藩の大名がここを通り、加賀百万石の大名道中は、2,000人近く引き連れた長い行列で、軽井沢宿では一晩で2カ月分の水揚げがあったほどのにぎわいだった。また、文久元(1861)年、皇女和宮の降嫁の時には、中山道を通り軽井沢の本陣で休まれたという。

軽井沢の町は、当時総戸数数百軒、旅籠屋は20数軒。これらの旅籠のうち半分以上には、十数人の遊女がいた。中には数十人いたところもあった。周辺の碓氷峠、雲場の原、追分原などは雲助、ごまの蠅、追い剥ぎの稼ぎ場になっていた。(*1)賭場もたくさんあった。江戸時代の軽井沢は、そういう場所であった。

*1 佐藤孝一『軽井沢今昔物語』(1951年)P39 雲助=荷物の運搬や駕籠(かご)かきなどをしていた無宿者 ごまの蠅=盗人 追い剥ぎ=盗賊

廃れ行く軽井沢

しかし、この賑やかな宿場町の軽井沢も、明治に入ると一転する。
明治17(1884)年の碓氷新道(現・国道18号線旧道)開通を機に、軽井沢は衰退の一途をたどるのだった。その後明治21(1888)年の横川・新軽井沢間の鉄道馬車開通(*2)で碓氷旧道による交通が途絶えてしまう。参勤交代もなくなり、旧道よりも新道の交通量が増え、にぎやかだった軽井沢の町は寂れていく。

道路だけではなく鉄道の開通も衰退に追い打ちをかけた。明治17(1884)年5月には上野・高崎間が、明治18(1885)年10月には高崎・横川間が、ほとんどの区間鹿島組の施工で開通する。また、鹿島組他の施工で直江津側から着工していた直江津・軽井沢間が、明治21(1888)年12月に開通する。残っているのは碓氷峠を越える横川・軽井沢間の施工のみで、ここには前述の鉄道馬車が通っていた。

横川・軽井沢間の路線が決まったのは、明治24(1891)年2月のことで、鹿島組も、26本のトンネル中10本を施工している。明治26年4月に横川・軽井沢間の鉄道が開通すると、軽井沢と並んで浅間根越の三宿と言われて賑わった沓掛宿(現在の中軽井沢付近)、追分宿(現在の信濃追分付近)の交通は絶え、鉄道工事の作業員でにぎわった軽井沢の26軒の旅籠、10軒を超える休み茶屋には、客も来なくなってしまう。

*2 旧国道18号線上を二頭立ての馬車で行くコースだが、冬は道路の凍結によって馬が滑り、死者が出たこともある。峠越えに2時間半かかった。

アーネスト・サトウの紹介

「猥雑な軽井沢からすたれた原始の一小村に還った」(*3)軽井沢を、欧米人に最初に紹介したのはアーネスト・サトウ(*4)である。明治14(1881)年に初版を、明治17(1884)年に改訂版を出した『明治日本旅行案内』(A handbook for travelers in central and northern Japan)で、彼は軽井沢を紹介する。外国人の日本国内旅行制限は、明治7(1874)年に緩和され、外国人旅行者、滞在者には日本のガイドブックが求められていた。

この旅行案内には、日本国内の青森から鹿児島まで、64の旅の案内が紹介されている。「妙義山回遊」の項の中に「新道で碓氷峠を越える」という章がある。「碓氷峠を越えて軽井沢までは約3里。新道が建設されたことにより、登りはかなり楽になった。傾斜はわずかで1,2箇所を除いては、馬車で容易にこなせる」とあり、夏のぶよに気をつけること、吾妻の名の由来となる神話や碓氷峠の話のあとに、軽井沢が紹介されている。「軽井沢へは碓氷峠を越える新道が完成した今、江戸からわずか2日の旅となった。」とある。この時代まだ、「江戸」と言う名称のほうが一般的だったことがわかる。「高原なので夏は大変涼しく、蚊がいないことも推薦できる理由のひとつである」「村には立派な家々が数多くあって良好な宿が得られる。多様な散策と山登りを楽しむことができる」「7,8月になるとまだ鍬が入っていない平原には野花が一面を覆いつくし、南の方角に向かって何マイルも続く。東は草深い山並みで尽きる。」と、その自然光景の美しさが記述され、かまど岩、愛宕山、離山についても紹介されている。ほかの項目と比較してみると、軽井沢は手付かずの自然がきれいで、さわやかな高原であることがさらっと紹介されている。

明治18(1885)年夏、スコットランド出身のカナダ人牧師A.C.ショウ(*5)と同郷の友人で東京帝国大学文科講師J.M.ディクソン(*6)は軽井沢を訪れ、亀屋に逗留する。このサトウの本を読んで訪れたといわれている。ショウは、スコットランド貴族の出で、明治6(1873)年、英国聖公会から日本へ派遣される。そして、慶応義塾向かいのお寺に寄宿したことがきっかけで、福澤諭吉の子女の家庭教師を始め、後に慶応義塾の倫理学教授を務めていた。

二人が訪れた軽井沢の高原はヨーロッパに、モミの木はカナダの森に、雲場野の野原はスコットランドの花に似ていた。望郷の念に駆られた彼等は翌年の夏、家族を伴って再訪し、民家を借り受けて8月下旬まで滞在する。そしてその翌年にも訪れ、三夏軽井沢に滞在して良さを確認。明治21年5月に別荘を建てる。ショウは、養蚕民家を移転改造し、ディクソンは旅籠を移築した。

夏の平均気温が東京よりも5度は低く、湿度も低い軽井沢は、東京の蒸し暑さから逃れて滞在するには最適の場所だった。当時は船旅の時代で、帰省には何ヶ月もかかる。故郷を離れて12年が経過していたショウにとって軽井沢はどんなにか望郷の思いに応える気候と風景であったろう。ショウは軽井沢を「屋根のない病院」と言っていたと言う。

ショウは毎年家族や友人の宣教師を誘って軽井沢を訪れ、軽井沢は外国人宣教師の間に知れ渡る。朝鮮、中国、香港、シンガポール、フィリピン、インド、ジャワなど東洋各地から宣教師とその家族たちが避暑に集まり、各派の宣教師が伝道会議を開いたりした。ドイツ、イギリス、アメリカ、フランスなどからも宣教師が訪れた。

この当時は、軽井沢の土地は、3~5銭/坪。別荘は5~8円/坪で建築できた。つまり300円もあれば土地と別荘を持つことができたのである。宣教師たちは古い民家を再生利用することも多かったため、実際はもっと安く別荘を手に入れていたと思われる。

*3 佐藤孝一「軽井沢今昔物語」P6(1956年)
*4 Sir Ernest Mason Satow 1843-1929 イギリスの外交官。ロンドンに生まれる。大学を飛び級で卒業し日本駐在通訳に応募して文久2(1862)年19歳で来日。翌年の薩英戦争で通訳として活躍。明治9(1876)年日本語書記官。明治17(1884)年シャム総領事となって離日、明治28(1895)年イギリス特命全権公使として再来日。親日家で日本名を佐藤愛之助と名乗った。日本や東洋文化について紹介する多数の著書を残した。
*5 Alexander Croft Shaw 1846-1902 スコットランド貴族の出で、幼いころに両親とともにカナダ(当時英領カナダ)に移り住んだ。父はトロント市の連隊長で、市内にはショー通りがある。トロント大学から神学校へ進み、地元の教会を経てロンドンの教会に勤務する。近代化の進む日本への布教を考えた英国聖公会から日本に派遣された。
*6 James Main Dixon 1856-1933 スコットランド生まれで、父は長老教会の牧師。エディンバラ大学とセントアンドルーズ大学で文学と哲学を学び、明治12(1879)年お雇い外国人の一人として来日。工部大学校で6年間英語と英文学を教えた後、東京帝国大学文科講師となった。専門ではなかったが史学も教えていた。明治25(1892)年日本を離れ、南カリフォルニア大学東洋学科主任を務めた。

3年で閉鎖した県種畜場

ショウ師らが軽井沢に別荘を建てたのと同じ頃、鉄道局技師・本間英一郎(*7)は、軽井沢の気候が以前留学していたボストンに似ていると大変気に入り、土地を購入し、別荘を建てる。最も古くから軽井沢に別荘を建てた日本人の一人である。そして、旧知の仲であった鹿島岩蔵(*8)にも軽井沢の土地の購入を勧めた。その時は、軽井沢はいい場所だし、鉄道も開通するのだから、将来のために買っておいても損はないよ、といった程度の誘いだったようである。本間は、鹿島が最初に手掛けた敦賀線の時の鉄道局の准奏任御用掛で、高崎・横川間、横川・軽井沢間の工事も本間の担当だった。

岩蔵が本間から土地の購入を勧められたちょうどその頃、佐藤万平が岩蔵に土地の話を持ってくる。佐藤万平は、亀屋旅館の主人である。亀屋旅館は、起源が明和元(1764)年と古く、軽井沢が宿場町時代から旅籠屋であった。しかし早くから外国人客の接待に力を注いだため、明治期にはすでに、夏、外国人客が避暑に滞在する旅館となっていた。亀屋旅館は明治27(1894)年、外国人向けの「亀屋ホテル」として現在の軽井沢銀座に開業する。しかし、最初のうちはバスタブの構造がよくわからず、「水の漏らない長い箱」ということで、棺桶の大きいものを作らせて代用した。ベッドは畳の上に大工が木で作った枠に縄で編んだクッション、部屋の仕切りはふすまだった。それでもこの時代の外国人旅行者には好評だったと言う。明治29(1896)年に万平ホテルと名を改め、後に軽井沢を代表するホテルの一つとなる。

この佐藤万平と、鹿島岩蔵とは当時かなり親しかった。横川・軽井沢間の鉄道工事を施工していた岩蔵が、軽井沢に長く滞在し、そこで佐藤と知己となったようである。岩蔵は、佐藤から長野県が経営していた種畜場と獣医講習所の土地を手放すことを聞く。

長野県は、明治7(1874)年、政府から種牛馬の貸下げを受け、明治12(1879)年、長野町(現・長野市)に種畜場を設けた。種牝牛馬の巡回交配と貸付を始め、明治21(1888)年4月、この種畜場を軽井沢に移転させる。同時に県獣医講習所を併設した。ここでは3年間で12人の獣医を養成したが、明治23(1890)年、県議会で県営の牛馬品種改良事業の廃案が通過。翌明治24(1891)年、種畜場の土地は公売に付され、獣医講習所は3月に閉鎖される。その土地の払い下げの情報を入手した佐藤が、土地を探していた鹿島岩蔵に声をかけた。

*7 ほんま ひでいちろう 1854-1927 慶応3(1867)年、黒田藩の指示により、アメリカ・マサチューセッツ工科大学に留学、鉄道について学ぶ。卒業後、明治7(1874)年に帰国して海軍所を経て明治13(1880)年2月工務省鉄道局に勤める。敦賀線工事を担当したのち、長野出張所長、青森出張所長などを歴任。明治27(1894)年退官。退官後は、総武鉄道社長、北越鉄道技師長、東武鉄道技術顧問などを歴任した。
*8 かじま いわぞう 1844-1912 鹿島創業者・鹿島岩吉の嫡男。「洋館の鹿島」から明治13(1880)年、「鉄道の鹿島」へ転向し、鹿島組を創業した。

軽井沢の六軒別荘

鹿島岩蔵はその払い下げ用地15万坪(約50万m²。東京ドーム10個分以上)を坪5厘、合計750円で購入する。当時の軽井沢の一般的な土地の値段の1/100であるが、それでも「あんな湿地帯の荒れ地がよく売れたものだ」、「あんな土地を買うなんて、東京の人だからわからないのだろう」などといわれたそうである。公売で競争相手は全くいなかったようであるが、長野県史には、公売にかけられたまでの記載しかないので詳細はわからない。明治26(1893)年の鉄道開通に合わせ、岩蔵は、ここに自分の別荘と外国人向け貸別荘5軒を建設する。六軒別荘と言われるゆえんである。そして、これが軽井沢における貸別荘の始まりと言われる。

ほとんどの資料には、鹿島岩蔵が貸別荘を建てたのは、明治32(1899)年と記載されているが、これは、当時は登記などが割にあいまいだったために、きちんと登録したのがこの年で、岩蔵が別荘を建てたのは、軽井沢に鉄道が開通した明治26(1893)年のことだったらしい。当時はヨシや葦の生えた野原で、木も小さく、家も少なく、軽井沢の駅まで見渡せ、浅間山もよく見えたと言う。

岩蔵が建てた6軒の家は広大な敷地の中にあったが、夏に1カ月程度しか使用しないため、建物は粗末なものだったらしい。しかし、「外国人はプライバシーを大切にするから寝室は2階にした方がいい」などの佐藤の助言を得て建設したために、人気が高かったという。理由はそれだけではない。これらの別荘は各戸に家具や寝具、食器などを備えていた。それまで軽井沢に避暑に来る外国人は、自分たちで寝具も食器も持ってこなければならなかったのだが、それらが備えつけられていたために、身軽になって非常に重宝されたとのことである。また、寝具などは、佐藤万平の息子たちが、各戸を回ってきれいなものと取り換えるなどの御用聞きをしていたそうである。

岩蔵は、旧中山道からこれらの別荘近くまで行く一本の道を新たに作り、別荘番の夫婦に命じてその道の両側に軽井沢の気候に合うという落葉松を植えさせた。

清貧の町、軽井沢

宣教師は清貧を旨とする。遊興の宿場町だった江戸時代の軽井沢が寂れ、静かな自然あふれる寒村となっていたために、軽井沢は彼らの琴線に触れたのだった。そして彼らが築いていく新たな軽井沢はまた、彼らの清く貧しく美しい信仰と共にあった。質素な暮らしを営む教会関係の人々が中心となって作ったこの別荘地は、享楽よりも簡素さと清潔さがあふれていた。そして町が自治のかなりの部分を彼らに許し、彼等はそれを善用した。宣教師は住民に善風と良俗を教えた。住民は生活が苦しく、外国人のところへ行けば仕事にありつけると考え、皆、教会へ行って、洗礼を受けた。

やがて、これらの宣教師の紹介で、横浜や神戸の外国人貿易商や大学教授、各国大公使、領事なども軽井沢に避暑に来るようになる。その国籍は20カ国以上に上り、軽井沢はコスモポリタンの町となっていった。明治36年ごろには、別荘の数は100軒にもなったと言う。

日本人の知識階級も軽井沢に来始めた。学習院を中心とした旧大名華族の子女と、昔からの実業家の子弟などである。彼らにはもともと外国人に知人が多く、外国生活の経験者も多かった。宿場町時代から大名道中に親しみを持っていた住民は、(徳川)将軍様、薩州様、加州様、細川様、福井様、伊達様がお出になったと言って懐かしがったそうである。三井家をはじめ、旧実業家の子弟も避暑に訪れた。

軽井沢は、避暑客らがつけた名称がそのまま地名になることが多い。岩蔵が作ったこの一本の道は、後に落葉松の木が茂りGrove Lane(木立の道)と呼ばれ、外国人が好んで通る散歩道となった。そしていつしかこのあたりは、鹿島の森と呼ばれるようになった。 昔の軽井沢は霧が多く、時には一寸先も見えないほどで、特に鹿島の森のあたりは、一区画が大きい別荘と落葉松の木立のため、細川家の別荘の手伝いをしていた地元の炭焼きの老人は、しょっちゅう道に迷ったと言う。

鹿島岩蔵が亡くなったのは、明治45年2月のことであるが、後を継いだ娘婿の鹿島精一は、山林経営、木材・石材の販売、炭鉱、煉瓦製造など、岩蔵の60あまりの事業を整理し、本業である建設業中心に戻した。この軽井沢の土地も大部分を処分したのだが、それでもまだ広々とした土地が残っていた。

その後の軽井沢

上野から軽井沢までは汽車で6時間。横川でアプト式の機関車に付け替えるのに30分かかり、そこから軽井沢までは26本のトンネルを通り抜けて1時間15分かかる。軽井沢の駅では出迎えに来た別荘番の大八車に、女中や書生が行李やバスケットやスーツケースを積み込んだ。夏の初めの軽井沢では毎日のように繰り広げられる光景であった。

軽井沢は、皇族や華族も大勢来る避暑地ではあったが、贅沢を見せびらかすことはなかった。宣教師たちと日本人たちが夏の間、質素で和気藹々とした欧米の家庭的雰囲気の中で夏を過ごす場所だった。大正5(1916)年、KSRA(軽井沢避暑団)(*9)が結成され、「飲む、打つ、買う」といった風俗営業を一切認めない「軽井沢憲法」がこの町の不文律となった。

大正8(1919)年には、鹿島の森の別荘地に隣接した場所にゴルフ場が建設される。現在の旧軽井沢ゴルフクラブである。日本で7番目のゴルフ場でトム・ニコル設計によるものだった。大正12(1923)年8月には後の昭和天皇もここでゴルフを楽しまれた。地元では旧ゴルフ場と称し、親しまれていた。

関東大震災の時は、碓氷峠から東京の大火が見えたと言う。別荘の人々は、軽井沢駅に入る避難民で鈴なりの汽車に、牛乳、飴、タバコ、砂糖などの差し入れと、炊き出しを持っていった。そろそろ東京に帰る時期だったが、この年だけは遅くまで軽井沢で過ごした。

鹿島精一は、残していた軽井沢の土地の一部に、昭和3(1928年)、ゴルフに行くための小さな家を建てた。2階は畳敷きの部屋、下にはベランダに続くロビーがあった。精一は、昼はゴルフ、夜は親しい友人を招いて将棋を楽しみ、妻の糸子も、狭くて困ると言いながら、涼しい高原の生活を楽しんでいた。

昭和6(1931)年夏、イタリアから帰国した鹿島守之助は、家族を連れて軽井沢を訪れる。夫妻と子供4人、お付きの7,8人がこの精一の小さな山小屋へ押しかけたために、ロビーに布団を敷いて寝、裏庭の楡の大木の下に机を置いて、夫婦で守之助の博士論文の校正をしたこともあったという。狭いための苦肉の策だったが、風流なことをしていると羨ましがられたという。

戦争中は、鹿島本社の調査部、経理部、人事部などが軽井沢に疎開し、いろいろな別荘を借り上げて、男女約50名で合宿生活をしながら事務を執った。空襲がないのでもんぺもはかず、防空壕もない別天地だったが、広い庭を畑にしても、8月にならないと何も取れないため、食事には苦労したと言う。庭ではヤギを飼ってその乳を飲んでいた。
また、鹿島の森一帯にはVIPの別荘が点在していた。彼らは公安の目を避け、「散歩」と称して別荘の庭伝いに行き来して、政局や戦局について話をしていた。

そんな軽井沢も今ではすっかり俗化してしまったが、それでも鹿島の森のひそやかさはそのまま残っている。岩蔵が作った一本の道は、近衛家の別荘があった通りだったため、現在では近衛通りという名前が付けられている。また、このあたり一帯は、今では岩蔵が土地を購入したころの地名ではなく、鹿島の森と呼ばれており、ホテル鹿島ノ森、旧軽井沢ゴルフクラブと共に、軽井沢の中でも最も古くから開発されたステイタスの高い別荘地としてその面影を残している。

*9 Karuizawa Summer Residents Association 自治に熱心な英米人、日本の知識人を委員とした団体で、道路その他の施設改善、商店との団体折衝などが役目だったが、このボランティア団体のおかげで、軽井沢の軽井沢らしさを保つことができた。

<参考資料>
大澤輝嘉「避暑地軽井沢とA.C.ショー」慶応義塾機関誌『三田評論』2009年8・9月合併号
重久篤太郎『お雇い外国人 教育・宗教』(鹿島出版会)(1968年)
岩波写真文庫『軽井沢』(岩波書店)(1951年)
佐藤孝一『かるゐざわ』(1912年)
佐藤孝一『軽井沢今昔物語(改訂版)』(1951年)
鹿島卯女「軽井沢の思い出」『鹿島建設月報』1960年9月号
鹿島卯女「軽井沢山荘にて」『鹿島建設月報』1981年10月号
宍戸實『軽井沢別荘史』(1987年)
朝吹登水子『私の軽井沢物語』(文化出版局)(1985年)
幅北光『明治・大正・昭和 思い出のアルバム 軽井沢』(郷土出版)(1979年)
中島松樹『軽井沢避暑地百年』(図書刊行会)(1987年)
長野県『長野県史 通史 第7巻』(長野県史刊行会)(1988年)
庄田元男訳、アーネスト・サトウ編著『明治日本旅行案内 中巻』(平凡社)(1996年)
鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
旧軽井沢ゴルフクラブ『旧軽井沢ゴルフクラブ70年記念誌』(鹿島出版会)(1990年)

(2011年4月20日公開)

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