第44回 JR高尾駅 -大正天皇御大喪仮停車場の今-

JR高尾駅は、「関東の駅百選」に選ばれている全国でも珍しい寺社建築のようなたたずまいの駅である。この駅は昭和2(1927)年、大正天皇御大喪の時に「新宿御苑仮停車場」(*1)として鹿島が施工した駅を移設したものである。

*1 昭和11(1936)年の鉄道省の職制改正によって「駅」という呼称になるまでは、列車が止まる場所(駅、操車場、信号場)はすべて「停車場」と呼ばれていた。一般には停車場と駅という呼び方は混在していた。

現在の高尾駅北口正面 現在の高尾駅北口正面クリックすると拡大します

大正天皇の崩御

大正天皇が静養先の葉山御用邸(神奈川県三浦郡葉山町)で崩御されたのは、大正15(1926)年12月25日午前1時25分のことである。齢47歳であった。

大正元(1912)年7月30日に33歳で即位した大正天皇は「西洋の教育に養育され、外国語も身につけ、民間の子弟と学校に通った」(*2)新たな時代の天皇として期待された。一夫一婦制を貫き、皇太子時代の明治33(1900)年に結婚した節子(さだこ)妃殿下との間に4人の男の子をもうけている。子供たちとは、皇室の長年の伝統に従って別居していたが、夫妻で何度も訪れるなどして非常に暖かい家庭を作っていたと言われる。10回以上日本中を巡幸し、日本全国での経済発展に寄与した。最初の巡幸の際には節子妃も同行している。明治天皇の時代には考えられないことであった。

産業技術に興味を持ち、精力的に活躍していた時代もあったが、病気のため大正10(1921)年11月25日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任する。静養中は小康状態を保っていたが、大正15(1926)年10月末に気管支炎となる。24日夜に容体が急変し、崩御された。崩御の翌日には、官報号外によって12月27日に葉山から皇居へ奉還することと、その道筋が伝えられる。

27日午後4時40分、菊花紋章の黒布に覆われた棺は、葉山御用邸から近衛騎兵40名と儀仗兵に守られた霊柩馬車によって、逗子停車場まで運ばれた。馬車の後ろには皇太后陛下、高松宮殿下ほかの自動車が続いた。午後5時35分に逗子停車場を出て午後7時5分に東京の原宿停車場(原宿皇室専用駅)に到着する。棺は皇室関係者、国務大臣など多くの奉迎者が見守る中、近衛将校15名の馬車に移され、白砂が敷き詰められた道を皇居(当時は「宮城」と呼ばれた)に向かった。沿道には寒空のもと、日暮れ前から人々が詰めかけた。沿道の護衛は葉山御用邸から逗子停車場までは海軍儀仗兵2,000名、横須賀重砲兵500名、警官、憲兵が、原宿から皇居までは近衛師団、第一師団、陸軍諸学校生徒などが警備にあたった。

*2 ニューヨークタイムス1912年9月1日

大喪の儀と御陵所の決定

昭和2(1927)年1月4日付官報号外で「大喪儀期日場所」が通知された。同年2月7日新宿御苑、8日陵所で行われ、「御陵所」を武蔵陵墓地「多摩陵」(たまのみささぎ)とする。ちなみに神武天皇から122代の明治天皇までの陵はほとんど近畿地方にあり、東京に御陵所が置かれたのは大正天皇陵が初めてである。大正天皇は、東京で生まれた初めての天皇でもあった。

新宿御苑で行われる大喪の儀の葬場殿は清水組が施工することとなる。建坪71坪5合(236.4㎡)、入母屋造檜皮葺屋根。新宿御苑には葬場殿のほかに正門、参列者控所、祭官控所、手水所、食堂、トイレ、休憩所、調理所、牛舎なども作られた。そのほか皇居から新宿御苑までの沿道の整備も進められ、橋梁や道路の補修、街灯や人止め柵の設置が行われた。ちなみに明治天皇の大喪は、帝国陸軍練兵場(神宮外苑)で行われ、東海道線を使って京都の伏見桃山陵に運ばれている。

鉄道省の動き

崩御からさかのぼること約1か月前の大正15(1926)年11月13日、宮内省から鉄道省に霊柩車の準備について内々に照会があり、鉄道省は東京の大井工場(*3)で霊柩車の準備を始める。加えて、棺の移送のための停車場と御陵所の施設も鉄道省の方で手配するように宮内省から内儀を受けた。12月15日には鉄道省担当者が宮内省関係者と共に御陵所と葬場殿の予定地を視察している。16日には東京鉄道局が葉山御用邸の最寄駅となる逗子停車場のある逗子町内に臨時出張所を設けて、局長以下幹部が待機を始めた。

12月27日、鉄道省内に大喪委員会が設置された。これは指揮系統を一本化して御大喪に関する一切の業務を委員会で行い、直接宮内省や関係官庁とやりとりし、現場に指示を出しやすくするためである。委員会には総務部、輸送部、工事部、車両部、経理部の5部が設置される。このうち新宿御苑仮停車場の施工を指揮する工事部には7名が配され、工事部長に工務局長後藤佐彦、土木担当委員に工務局保線課長の黒河内四郎技師、建築担当委員に工務局建築課長の久野節技師がそれぞれ任命された。宮内省との交渉は後藤工事部長が黒河内、久野両委員と共にあたった。明治天皇と昭憲皇太后の大喪の儀の関係書類をたどって工事計画を進め、同日のうちに乗降場の長さについて輸送部と協議する。

12月29日、停車場の基本設計が決まった。明治天皇の時は霊柩列車と供奉(*4)列車の乗降場が別だったが、今回は供奉列車専用乗降場を設けないこととした。また、乗降場の長さは宮内省側では152.4mで足りると考えていたが、輸送部と協議の結果、編成車両の長さを考慮して182.9mとすることとした。幅員は4.572mである(*5)。一方、乗降場の上家は当初乗降場全部に設ける予定だったが、霊柩列車車部分だけに設け、清楚を旨として建造することとなった。

千駄ヶ谷停車場構内には百分の一勾配があり、霊柩列車を特定の場所にピンポイントに停車させるのは難しいため、輸送部、車両部と協議の結果、遷車台を設置して対応することとした。新宿御苑仮停車場設備工事に要する材料は、東京鉄道局が手配することとなった。

*3 大正2(1913)年にできた工場で、御料車両などを制作。東京都品川区大井町にある。現在はJR東日本東京車両センター
*4 ぐぶ 行幸や祭礼の時のお供の行列
*5 鉄道工事では当時哩(マイル)呎(フィート)鎖(チェーン)と言った単位が使用されていた。メートル表記になったのは昭和5(1930)年からである。そのため元資料ではこれらの数字はそれぞれ、500呎、600呎、15呎となっている。

鹿島組へ特命

工事請負人は「斯界(*6)において、信用確実なるものを選定し、これと特命随意契約を締結せり」(*7)とあり、新宿御苑仮停車場関係の工事のほとんどが鹿島組に特命された。鉄道省の『大正天皇大葬記録』には、鉄道省側の「工事請負契約担当者」は工事部長、請負人は「東京市京橋区木挽町9-31 鹿島組 鹿島精一」と明記されている。

鹿島精一組長は、特命を受けると直ちに理事(現在の副社長クラス)菅野忠五郎を工事担当に指名した。菅野にとっては鹿島組在職26年間で唯一の自分名義の契約だった。菅野はのちに「まだ窮屈な時代であったから、位階を持っている私が、契約当事者として、適任だろうというので、特に私にその工事担当を指定された。私は身に余る光栄として快諾した。」(*8)と述べている。

*6 しかい 専門業界のこと
*7 P107 鉄道省『大正天皇大喪記録』(1928)
*8 P140 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963)

菅野忠五郎

菅野忠五郎は明治4(1871)年に岩手県盛岡市に生まれ、旧制盛岡中学校を卒業して明治22(1889)年に日本鉄道会社(*9)に入社した。明治32(1899)年に、長谷川謹介(*10)らと共に台湾総督府鉄道部に移る。日本鉄道の工事で盛岡に赴任していた長谷川と中学生の菅野はアイススケートが縁で知り合ったらしい。長谷川が当時最新のスポーツだったアイススケートにはまり盛岡駅構内の氷で練習を始めた。そこの練習会に菅野が参加したのが二人の出会いだった。

台湾時代の菅野は、朝鮮半島、欧米各国に出張し、見聞を広めている。鹿島組も台湾では数多くの鉄道工事を請け負っていた。台湾総督府技師として台湾各地での鉄道建設に携わるが、大正9(1920)年3月に台湾総督府を退職する。その時に従四位の位階を授与された。明治期の鉄道関係者は長州閥が多く、東北の旧制中学出身だった菅野がここまでになるには、もともとの才能に加え、大変な努力が必要だったであろう。

鹿島組に乞われて理事として迎えられたのが同年4月のことである。昭和14(1939)年に顧問となって退くまで、鹿島組の発展に寄与した。「卓越した記憶力の持ち主で、土木業界における生き字引的な存在であった」(*11)。日本土木工業協会が日本の鉄道請負についての歴史を編纂した『日本鉄道請負業史 明治編』(1967年)のほとんどは菅野が書いている。また、『鹿島組五十年小史』(1930年)『鹿島組史料』(1963年)も菅野の著書である。『鹿島組史料』はもともと菅野がノート27冊に書き溜めたものである。菅野は、「鹿島建設社報」に「鹿島組史料」を連載中の昭和26(1951)年81歳で急逝した。その後、資料の散逸を防ぐために一冊の本にしたのが『鹿島組史料』である。

*9 明治14(1881)年、岩倉具視をはじめ華族が中心となって設立した日本初の民間鉄道会社。現在の東北本線、高崎線、常磐線などを施工。鹿島組は日本鉄道会社が発注するかなりの工事を請け負った。明治39(1906)年鉄道国有法により国有化
*10 はせがわきんすけ 1855-1921 山口県出身。大阪英語学校に学び、明治7(1874)年から鉄道寮(のちの鉄道省)に勤め英国人技師の通訳、測量手伝いなどに従事する。工務省技手の後、明治25(1892)年日本鉄道入社、明治32(1899)年台湾総督府臨時台湾鉄道敷設部技師長、台湾総督府鉄道部長を歴任、明治42(1908)年鉄道員、大正7(1918)年鉄道員副総裁就任。「台湾鉄道の父」と呼ばれた
*11 菅野忠五郎『鹿島組史料』の序文(鹿島卯女)

菅野忠五郎 菅野忠五郎クリックすると拡大します

菅野忠五郎『鹿島組史料』ノート 菅野忠五郎『鹿島組史料』ノートクリックすると拡大します

昼夜問わずの突貫工事

話を新宿御苑仮停車場に戻そう。
崩御から5日後の昭和元(1926)年12月30日午後10時、鹿島組の菅野忠五郎は鉄道省の大喪委員会工事部に出頭し、久野技師からできあがったばかりの新宿御苑仮停車場の上家の図面を受け取る。翌31日には今度は黒河内技師が作成する乗降場の図面の出来上がりを待って受け取った。国中が喪に服しているとはいえ、大晦日も元旦もあったものではない。大喪は2月7日。一度しか使うことのない駅舎の建設に猶予はなかった。鉄道省の資料によると仮停車場の工事着手は1月4日、竣工は1月20日となっている。工事期間はたった16日。季節は日照時間の短い真冬である。

菅野は現場主任に竹川渉を任命し、資材調達、作業員の手配、工程管理のすべてを任せた。竹川は明治22(1889)年生まれで当時38歳。大正8(1919)年1月に鹿島組に迎え入れられ、鹿島の建築部門の第一人者であった。

工事はまず現場事務所の設営から始まった。この当時の現場事務所は「詰所」と呼ばれる簡易な建家だった。当時の現場事務所は空いている民家を借りるのが普通で、場所によっては新しく簡易なものを建てる。今回は千駄ヶ谷停車場そばの工事とはいえ突貫工事であり、民家を借りてそこから通う時間も惜しいため、現場脇に「詰所」が作られたと思われる。突貫工事であるから仮設宿泊所の機能もあったのかもしれない。

次に矢来(やらい)を設置する。矢来とは仮囲いのことで、当時は竹製と木製の矢来があり、木製の場合は特に「丸太矢来」と呼ばれた。鹿島側の資料には「矢来立て回しにはじまり」(*12)とあるだけのため、竹製の仮囲いを設置したのかと思われたが、鉄道省の資料には「外構柵垣は竹矢来」(*13)と書かれている。ここから本設の柵として竹矢来を先に施工したことが読める。この柵は新宿御苑と仮停車場の境界線に設けられたもので、高さ3.6m、長さ223.6m、正面部9mは開閉できるような構造となっており、ほかに幅3.6mの木戸門を設置した(*14)。下図「新宿御苑仮停車場平面図」の駅舎正面の左右にくねくねと広がる細い線が「矢来」である。

工事は昼も夜もなく突貫で行われた。寒気は例年よりも厳しく、零下8度を上下した。気象庁のデータで見ても、この冬の12月から2月までの東京の平均気温は3.0度しかない。前年の冬は平均4.8度だった。ちなみに2014年、2015年の同時期の平均気温はそれぞれ6.8度、6.1度である。しかし、天気には恵まれた。東京の冬の降雨・降雪はそれほど多くないことが幸いしたがこの年は特に少なく、雨はわずかに1月11日の一度だけだった。

竹川は昼夜を問わず現場に出たが、菅野も毎日現場に出、大喪委員会、鉄道省、東京鉄道局に出向いて工事上の交渉や協議、連絡を取ったという。菅野は当時55歳である。といっても今の55歳と事情はだいぶ違う。今の70歳くらいのイメージではないだろうか。工業化が進み、定年制が生まれたのは1920年代のことで、55歳が定年だった。当時定年後の余命は10年程度、65歳である。しかし昔も今も元気な老人はいる。菅野も、初めての自分の名前での工事、特別な工事であり、張り切って現場や鉄道省を回っていたのであろう。

*12 P140 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963)
*13 P103 鉄道省『大正天皇大喪記録』(1928)
*14 原文では高さ12尺、長さ738尺、正面30尺、幅12尺の木戸門

1月15日上家上棟、27日引き渡し

並行して乗降場の土工と擁壁(土留めのこと)工事が行われた。

乗降場の長さは182.9m、そのうち霊柩移御(*15)作業のための中央部分9mの奥行は21.8mとされた。また、その左右18.3mは移御作業や見送りの際の混雑緩和のために奥行11mに、その他の部分は4.6mとある(*16)。擁壁は木造である。杭木は中央部の遷車台ピット設置個所を除いて3尺(90cm)間隔に打ち込んだ。土留板は杭裏突合せで打ち付けている。1月10日には9割の成形を終えた。

上屋は木造平屋建杮板葺である。建築面積997.2㎡。建物は中央部と左右翼(ホーム上家)からなる。中央部の梁間9.1m、桁行25.15mであるが(*17)、葱花輦(*18)の出入りを考慮して、正面入口の開口部の高さは4.8m、幅は5.5mとした。建物の裏側(ホーム側)には線路上の霊柩車を覆う左右翼梁間11m奥行18.2mの屋根が付けられ、総延長は127.3mという構造(*19)になっていた。

上家の上棟が行われたのは1月15日である。 続いて屋根を葺き、裏板張りを施工する。正面と中央部側面は幕張羽目張りを施した。その後乗降場用壁面に沿って長さ4m、幅2.4mの遷車台基礎と葱花輦台を施工する。乗降場は当初全面砂利敷として土を締め固めた上に砂利を散布する設計だったが、天皇陛下の立たれる中央部はアスファルト舗装を施すこととなった。そのため鹿島組ではアスファルト舗装も行い、ほかの部分への砂利散布の後、工事は終了した。

限られた工期のため人海戦術がとられ、大工、鳶をはじめ作業員は多い時には一日に百人以上が働いたという。大喪施行の10日前の1月27日に鉄道省大喪委員会に引渡すことができた。1月30日、鉄道大臣・子爵井上匡四郎、大喪委員長・次官八田嘉明、工事部長後藤佐彦らによる鉄道省の監査が行われた。

2月5日には大雪が降った。鹿島組の工事は終わっていたが、東京市の記録によると、沿道の整備がほぼ完成した時期だったため、各局課の緊張と精励はひとしおで、沿道の除雪作業、道路洗浄作業が行われた。

*15 いぎょ 天皇皇后の移動のこと。この場合は柩の移設
*16 原文では長さ600呎、中央部分30呎の幅は72呎。左右各60呎は幅36呎、その他15呎
*17 原文では建坪301坪666、中央部の梁間30尺、桁行83尺
*18 そうかれん 屋根の頂上に金銅製の葱の花の形をした飾りのついた人がかつぐ乗り物。 縦五本・横二本の黒漆塗の轅が付けられている。天皇の略儀の行幸に用い、皇后・東宮の行啓にも用いた。
*19 原文では高さ16尺、幅18尺。左右翼梁間36尺桁行60尺、左右135尺、総延長420尺

東京市が行った除雪作業(皇居前) 東京市が行った除雪作業(皇居前)クリックすると拡大します

東京市が行った除雪作業(桜田門外)東京市が行った除雪作業(桜田門外)クリックすると拡大します

フロックコート、シルクハットで参列

昭和2(1927)年2月7日夜、大正天皇の大喪の儀がしめやかに厳かに執り行われた。沿道には十数万人の市民が詰めかけた。皇居から新宿御苑まで歩く行列の先頭は、陸軍、海軍、霊轜(れいじ。霊柩車の意)、文官、陸海軍と続く。約4kmの行列は通り過ぎるまでには1時間40分もかかったという。皇居から葬場殿までには制服警察官、私服警察官、騎馬警察官合計5,180名が配置についた。新宿御苑仮停車場から東浅川仮停車場(大林組施工)までの45kmの間には停車場、橋梁を重点的に、沿線には一定間隔で警備に着いた。内訳は制服警官2,478名、鉄道関係者1,448名、陸軍近衛師団17名、第一師団14名、憲兵隊63名とあり警備の物々しさがわかる。東浅川停車場から多摩御陵(大林組施工)までの約17万8,500㎡には制服私服合わせて1,400名の警官が配された。

鹿島組の菅野忠五郎と竹川渉は、関係者として特に許されて大喪に参列した。鉄道省の記録によると「新宿御苑及び東浅川の両仮停車場の建造を請け負わしめたる鹿島組及び大林組の代表者を大喪当日鉄道職員に準じ奉送せしめたり」とあり、服装はフロックコート、シルクハット、黒手袋着用で、鉄道所定の腕章を右腕に着けること、鹿島組代人菅野忠五郎は大喪当日新宿御苑仮停車場に、大林組代人萩真太郎は東浅川仮停車場に参着することとある。

新宿御苑仮停車場には38名の駅員が配置され、東京駅長が駅長を兼務、東京駅助役、千駄ヶ谷駅長、新宿駅助役が助役兼務を命じられた。東浅川駅長は名古屋駅長が兼務、甲府駅長と長野駅長が助役を兼務している。

指導列車、客車7両編成の先発供奉列車に続いて、9両編成の霊柩列車が新宿御苑仮停車場を発った。予定より7分遅れの2月8日午前0時15分のことであった。霊柩列車の後には後発の6両編成の供奉列車が出発している。鉄道省ではこれらの運転に先立ち、列車停止位置などの試験のため1月7日から試運転をしていたという。霊柩移御作業、遷車台の動作確認なども何度も訓練を重ね、当日に備えていた。

葬場殿全景 葬場殿全景クリックすると拡大します

大喪の日当日の葬場殿前 大喪の日当日の葬場殿前クリックすると拡大します

大喪当日の皇居前の奉拝者  大喪当日の皇居前の奉拝者 クリックすると拡大します

大喪当日の赤坂見附付近 大喪当日の赤坂見附付近クリックすると拡大します

大喪が終わって

新宿御苑仮停車場の使命は終わった。2月8日限りで廃止し、撤去することとなる。東浅川仮停車場は、2月8日限り一旦廃止とするが、その後さらに仮停車場としてその設備を存続し、乗降場、待合室などの一部を撤去したのち1年間必要のつど随時使用することと定められた。

新宿御苑仮停車場の工事請負金額は、鹿島側の資料によると上家および付属工事31,966円、乗降場5,048円、中央部工事1,761円、合計38,775円であった。これに対して実費は38,987円(除く監督員給料、事務所経費)、現在の金額で2,500万円程度だったと思われる。差引212円の赤字が出たが、菅野はこの収支について「このような特殊の工事で、利益を上げるのは本意ではない。さりとて徒(いたずら)に多額の損失を被ることも営業上その当を得たものではないと思っていたが、精算の結果、ほとんど損失なく、まさに私の希望に合致したのには誠に本懐であった。」(*20)と述べている。

明治と昭和の間に挟まれた大正天皇は、その在位期間の短さによって、生涯病弱だったというイメージでとらえられがちだが、近年の研究によって、後年病に侵されるまでは、精力的に近代国家の君主として活動していたことがわかってきた。「世界平和や国際道徳に関して進んだ思想の持ち主」(*21)であった。フランス語にも堪能で外国の王室や要人とも交流があったという。

鉄道省の大喪委員会は2月12日に廃止された。大喪後、新宿御苑内の葬殿場では2月9日から28日まで一般拝観が行われ、最寄駅の千駄ヶ谷と信濃町は、通常の5倍の100万人以上が乗降した。

2月16日、国有財産法を元に大喪の儀のために使われた建造物その他の処分が決められた。新宿御苑、陵所、皇居などの建造物および付属物は宮内省の所管になり、新宿御苑仮停車場、東浅川仮停車場、霊柩車は鉄道省の所管とされる。

新宿御苑仮停車場の撤去はなかなか行われなかった。
5月5日、宮内省内匠寮から鉄道省工務局に連絡が入る。新宿御苑敷地復旧工事の施工上、新宿御苑仮停車場が障害になるので建物を8月20日までに撤去してほしいというのである。当時は蒸気機関車の時代であり、列車運転の際の火の粉で、木造平屋杮板葺の上家が火災を招く恐れも考えられた。そのためこの駅舎を、明治38(1901)年に開業している浅川停車場(現・高尾駅)改築に使用することとして、そちらに移設した。浅川停車場は東浅川仮停車場のひとつ先の停車場で、この駅を降りて自動車で多摩御陵に参拝する場合もあったためである。

東浅川仮停車場はその後、皇族が武蔵陵墓地を参拝する際に使用され、昭和26(1951)年には貞明皇后(大正天皇妃)の葬儀にも利用された。しかし隣の浅川停車場の利用が増え、自動車での参拝も増えたことから、次第に使用されることが少なくなり昭和35(1960)年に廃止される。廃止後は八王子市の施設として使用されていたが、1990年焼失。現在は駅前ロータリーにその面影が残っている程度である。

新宿御苑仮停車場が移設された浅川駅は、昭和36(1961)年高尾駅と名前を変えた。JR高尾駅北口の駅舎は関東の駅百選にも選ばれる。2015年5月、八王子市は懸案となっていた高尾駅南北自由通路整備に伴い、この高尾駅北口駅舎を解体し、旧東浅川仮停車場だった場所への移設を決める。駅舎は2017年度中に解体され、部材の補修などを行って移設される。鹿島がまだ株式会社にもなっていなかった昭和2(1927)年に、1か月足らずで作った1日限りのはずの駅舎は、場所を変え、平成の時代となった今も残り、また新たな場所へと移って存続していこうとしている。

*20 P141 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963)
*21 ロサンゼルスタイムス 1926年12月25日

大喪後の一般参拝(葬場殿) 大喪後の一般参拝(葬場殿)クリックすると拡大します

大喪後の一般参拝(多摩御陵) 大喪後の一般参拝(多摩御陵)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(外観全景) 現在の高尾駅(外観全景)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(入口側面) 現在の高尾駅(入口側面)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(屋根細部) 現在の高尾駅(屋根細部)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(天井) 現在の高尾駅(天井)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(柱) 現在の高尾駅(柱)クリックすると拡大します

現在の高尾駅(京王線側から見た駅舎裏側) 現在の高尾駅(京王線側から見た駅舎裏側)クリックすると拡します

<参考資料>
大阪朝日新聞社『朝日年鑑 昭和3年』(1927)
北垣恭次郎『国史美談現代史巻1』(1927)
東京市役所『大正天皇御大喪奉送誌』(1927)
東京府『大正天皇御大喪奉送記録』(1927)
警視庁『大正天皇御大喪儀記録』(1927)
鉄道省『大正天皇大喪記録』(1928)
菅野忠五郎「明晰なる頭脳、尽きぬ情愛」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950)
菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963)
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』(1962-1974)
フレドリック・R・ディキンソン『大正天皇』(2009)

(2015年8月7日公開)

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