第45回 高輪毛利邸洋館工事

その昔、東京南部、芝高輪に毛利公爵の屋敷があった。現在の品川駅高輪口のほぼ正面に広がる敷地は1万6,461坪(5万4,420㎡)。そこには様々な建物があったが、その中に建つ唯一の洋館を施工したのが鹿島であった。鹿島に残る最初の社史に「高輪の毛利公の和洋折衷の邸宅などを新築した」、また、『日本鉄道請負業史明治編』に「鹿島岩蔵は偶然、高輪の毛利邸の建築を請け負い」(P34)とある。「洋館の鹿島」と言われた時代の話である。

洋館の鹿島

天保11(1840)年、鹿島の祖・鹿島岩吉は大工の修行を終えて棟梁として独立し、江戸中橋正木町(現・東京都中央区京橋1丁目)に大岩(*1)という店を構えた。その仕事ぶりは丁寧で松平越中守、土井大炊守、水戸徳川家などをはじめとする大名屋敷のお出入り大工として活躍するまでになる。しかし江戸には徐々に不穏な空気が流れ始める。嘉永6(1853)年のペリー来航の後、安政大地震(1855年)、安政の大獄(1858-59年)と続き、江戸にコレラが流行した1858年には岩吉の近所に住んでいた歌川(安藤)広重もコレラで亡くなっている。100万都市と言われた江戸では、40日間で4万人以上が亡くなったと言われる。『わが鹿島組』(昭和13・1938年発行)には当時の江戸について「黒船来航以来明治維新となるまで江戸は騒然たるものがあった」と書かれている。

一方、日米修好通商条約(1858年)で開港場となることが決まった横浜には、1年足らずの間に運上所(税関)などの政府施設、日本人の商店、外国人居留地の商館や住居などを建設するため、全国から大工が集まってきていた。大工の手間賃は江戸の2倍にも跳ね上がったという。岩吉も江戸を離れ横浜へ出るが、日本人の発注する工事はいち早く進出した大工や棟梁が既に施工中だった。そこで彼が請け負うことになったのが、日本初の外国商館「英一番館」である。発注者はジャーディン・マセソン商会。「英一番館の大建築工事は中々の苦心と努力とを払われた」(*2)が、「工事は順調に進んで利益も多く、これで一寸基礎ができた」(*3)と鹿島の最初の社史には書かれている。

ジャーディン・マセソン商会の支配人ウィリアム・ケズウィックの紹介で、鹿島は通称亜米一と呼ばれたアメリカ最初の商館、ウォルシュ・ホール商会の建物も建設する。岩吉の「気に入らぬと損をしても遣り直す」(*4)仕事ぶりに惚れたウォルシュ兄弟は知り合いや客先に彼を推薦する。鹿島は横浜や神戸で数多くの外国商館を建設し、「洋館の鹿島」としての地位を確立していった。

*1 「おおいわ」ではなく、当時の慣習から「大工」の「岩吉」の店、「だいいわ」と呼ばれたのではないかと思われる。
*2 伝菅野忠五郎『わが鹿島組』(1938)
*3 鹿島組『鹿島組五十年小史』(1930)P3
*4 肥塚龍『横浜開港五十年史』(1909)P97

明治維新と長州藩

毛利公爵の祖となる毛利氏は鎌倉時代に始まる長い歴史を持ち、戦国時代には8か国112万石を治める徳川家康と並ぶ大勢力となったが、関ヶ原の戦い(1600年)で敗れ、領国を周防・長門(山口県)に減じられる。その後は西国の大藩・萩(長州)藩36万9,000石の藩主として国を治めていた。

江戸末期、長州藩は攘夷論(*5)を唱え、倒幕運動を展開するが、1864(元治元)年7月19日の「禁門の変(蛤御門の変)」(*6)で幕府軍に敗れる。続いて行われた第一次長州征伐で長州軍は戦わずして幕府軍に降伏。幕府軍の先鋒は薩摩藩であった。事態が急展開したのは1866年(慶応2)年1月21日、坂本竜馬の取り持ちで薩長同盟が結ばれてからである。それまで敵対関係にあった薩摩藩と長州藩は倒幕のため手を結び、鳥羽伏見の戦い(*7)で旧幕府軍に勝利をおさめ、明治維新を迎える。薩長土肥による版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)と時代は急激に変化する。江戸から東京へ、徳川幕府から明治政府へ。常にその中心にいたのが長州藩であった。

長州藩は、江戸に外桜田の上屋敷1万7,170坪(5万6,760㎡。現・日比谷公園16万1,636.66㎡の北西部分)、麻布龍土町に中屋敷900坪(2,975㎡)と地続きの下屋敷3万3,280坪(11万㎡)(現・東京ミッドタウン)、深川鶴歩町の街並屋敷1万8,954坪(6万2,660㎡。現・江東区木場3丁目)、荏原郡若林村のお抱え屋敷1万8,300坪(6万500㎡。現・松陰神社を含む世田谷区若林)、砂村新田、平井新田に抱屋敷、町並屋敷(現・江東区南砂2丁目)計3万5,474坪(11万7,300㎡)などを所有していた(*8)。しかし朝敵となったためそのほとんどが焼打ちに遭い、第一次長州征伐の後の元治元(1864)年に江戸・京都の拝領屋敷はすべて幕府に没収されてしまう。

*5 じょういろん 外国人(夷人)を撃退しようとする思想。長州藩は最初のうちは公武合体派(朝廷の「公」と幕府の「武」の関係を強化する)だったが攘夷派に転じ、リーダー的存在となる。
*6 きんもんのへん はまぐりごもんのへん 攘夷派の長州藩が公武合体派を排除して京都奪還を図り幕府軍である会津藩と戦う。西郷隆盛率いる薩摩藩が介入して長州藩は敗北する。
*7 とばふしみのたたかい 慶応4/明治元(1868)年 幕府軍を下回る数の薩長連合が京都の南・鳥羽と伏見で闘い勝利した。大政奉還は前年の10月に行われていた。
*8 毛利庭園のある六本木ヒルズは府中毛利藩(長府藩、長門府中藩ともいう。長州藩の支藩)上屋敷・抱屋敷の跡地。

高輪に落ち着くまで

維新後、毛利家は明治新政府に掛け合い、明治2(1869)年1月、姫路藩酒井家上屋敷あとの大手町邸(神田橋邸とも言われた。現・東京都千代田区大手町1丁目)に移るが、付近に新しい官庁街を整備することとなり、政府から立ち退きを迫られる。

交渉の末手に入れたのが高輪の筑後久留米藩22万石、有馬中務大輔頼成の下屋敷1万6,461坪(5万4,420㎡)の土地だった。毛利家文書『東京市芝区高輪南町貮拾七番地 公爵毛利邸起源略史』は明治4(1871)年7月24日付で従三位毛利元徳が東京府に提出した陳情書に始まる。

当時毛利元徳は神田橋邸と共に政府から下付された深川の屋敷に住んでおり、「これまで上京の際には藩邸に滞在していたが、廃藩置県により知事職となったため、現在は深川の私邸に移住している。旧藩邸は民部省が使用することになり、ご改革のためと思い差しさわりはないと移転したものの、深川の私邸は土地が低く窪地にあり永住は困難である。代わりに今のところ特に御用もない様子に見える高輪の元久留米藩の土地を拝領できないか。拝領いただければさっそく私邸を普請の上転居いたします」と訴えている。明治4(1871)年に大名華族の東京居住が義務付けられていたため東京から離れることはできなかったのである。

幸い書面願いのとおり高輪元久留米藩1万6,461坪(5万4,420㎡)下賜候事という返事が来て、8月13日には東京府の住宅掛より「14日8時に引き渡すので請け取りの者を寄越すように」との沙汰があり、14日付で代理人が受け取っている。

日本鉄道の父・井上勝鉄道頭

高輪の新しい土地に移転し、そこに屋敷を建設することになった毛利家は元長州藩士井上勝に洋館工事の工事監督を依頼する。江戸から明治に時代は変わったとはいえ、旧藩主と旧藩士の関係は急に変わるものではない。依頼というよりは、命令であろう。

井上勝は、文久3(1863)年5月、21歳の時に伊藤博文らと共に英国に密航した長州五傑(*9)のひとりである。ロンドン大学で理化学、鉱山、鉄道の実学を学んだ。特に鉄道は、鉄道建設の現場で測量をし、自らシャベルを使って労働し、現業の体験を積んでいる。明治元(1868)年9月卒業、11月に日本に帰国、明治4(1871)年8月、鉱山頭と鉄道頭を兼務、翌明治5(1872)年3月より鉄道頭専任となる。高輪毛利邸の工事が始まったのはちょうどそのころである。同年9月12日、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通して天皇陛下御臨席の下、盛大な開業式が行われた。

高輪毛利邸の工事が行われていた明治5(1872)年3月から明治6(1873)年10月までの1年7か月の間、井上は新橋・横浜間(明治3年3月~5年9月)、大阪・神戸間(明治3年9月~7年5月)の鉄道工事や京都・大阪間(明治6年12月~10年2月)の鉄道工事の準備など鉄道頭としての業務は多忙を極めていた。明治6(1873)年7月、井上は上司の山尾庸三とぶつかり、22日付で依願免官となる。『日本国有鉄道百年史』でも井上の依願免官について「この不測の事態」(1巻P215)と述べている。

井上の後任となった鉄道頭は「威信も真剣みも欠け、実情にも疎かった」(*10)。大阪・神戸間の工事では請負業者を使わない直轄施工という方針が取られて混乱し、それほど難工事ではなかったものが東京・横浜間に比べ、大幅に開通が遅れている。鉄道寮を離れたとはいえ井上はこの事態を憂慮し、鉄道工事には優秀な請負業者が欠かせないことを痛感したのである。明治7(1874)年1月、井上は伊藤博文に懇願されて鉄道頭に復帰する。

鉄道頭就任の頃の井上勝 鉄道頭就任の頃の井上勝クリックすると拡大します

*9 長州五傑 文久3(1863)年5月、井上勝(初代鉄道頭。鉱山学、鉄道を学ぶ。日本鉄道の父)、井上聞多(薫。維新外交の始祖。外交の父)、伊藤俊輔(博文。初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法草案作成)、山尾庸三(工学の父。グラスゴーで造船を学ぶ。工部大学校のちの東京大学工学部設立)、遠藤謹介(造幣の父。大阪造幣局長、桜の通り抜け発案)ら5人は長州藩を脱藩して英国に密航、イギリス人は敬意をこめて長州ファイブと呼んだ。ロンドン大学には彼らの顕彰碑が建てられている。
*10 鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史 明治編』(1967)P16

服装も住まいも洋風に

明治維新後、政府は大礼服などの官服を西洋式に一新した。明治天皇が即位したのちの最も古い写真は、明治5(1872)年の束帯姿である。明治天皇の軍服がフランス式のものに定められて撮影されたのは翌年の明治6(1873)年10月。この6日後に皇后の写真も撮影されたが、この時皇后はまだ和装だった。皇后が初めて洋服を着用したのは明治19(1886)年、華族女学校行啓の時である。服装は明治政府の欧化政策(*11)以降、皇族・貴族・実業家といった人々が牽引して華美になっていく。それに連動するように洋館も増えていった。

洋館は江戸後期から、横浜や神戸などの開港場、あるいは江戸時代から外国に開かれていた長崎などには多く作られていたが、明治の初め、東京にある洋館は築地ホテル館(*12)、第一国立銀行(*13)、蓬莱社(*14)といった公の建物で、これらは観光名所となっていたものの外国人居留地以外の場所で洋風建築物を見ることはほとんどなかった。毛利邸洋館工事が始まったのは明治5(1872)年である。この時代、記録に残る中では日本人の個人の洋館、あるいは和洋設置型(和館と洋館をあわせもつ)邸宅の建物はまだないため、毛利邸洋館は一番古い日本人私邸の洋館ではないかと思われる。

貴族の館が洋風になるのは欧化政策が取られる1880年代に入ってからである。その中心的存在として知られる貴族の社交場・鹿鳴館が明治16(1883)年に竣工し、公共建築物に洋館が増える。また、貴族や実業家の私邸を中心に洋館が数多く建設されるようになっていく。鹿島岩蔵も明治23(1890)年に広尾に洋館を建てている。彼は家の中では靴を履き、ベッドで眠り、コックを雇って朝から洋食という生活を送っていた。食堂にはビリヤード台、庭にはイチゴ温室があったという。

江戸時代、幕府や大名は貴人を迎える際には特別の御殿を用意して手厚くもてなした。毛利邸洋館は毛利家の人々の住まいであり、天皇陛下の行啓のための建物、あるいは外国からの賓客をもてなすための建物だったと考えられる。元戸板学園理事長で生活文化史、建設産業史の研究家・小野一成は「当時外賓応接所であった浜離宮(現在は公園)の延遼館の向こうを張って、毛利家が外国のVIPを接待する意図があったのではないか」(*15)と書いている。

築地ホテル館(清水建設蔵) 築地ホテル館(清水建設蔵)クリックすると拡大します

第一国立銀行(清水建設蔵) 第一国立銀行(清水建設蔵)クリックすると拡大します

蓬莱社 蓬莱社クリックすると拡大します

*11 欧化政策 井上薫らが進めた政策。欧米の制度や風俗、習慣、生活様式を取り入れて近代化日本をアピールし、不平等条約の改正を目指した。
*12 築地の外国人居留地にあった。半官半民の経営で貿易所を兼ねていた。明治元(1868)年竣工。客室数102、設計:ブリッジェンスBridgans、施工:清水喜助。清水も経営に携わるが、明治5(1872)年2月の銀座の大火で焼失する。
*13 明治5(1872)年竣工。設計施工:清水喜助。擬洋風建築の典型。
*14 後藤象二郎が中心となって設立した土佐出身者で固められた貿易商社。設計:ブリッジェンスBridgans、施工:鹿島方(鹿島の前身) 明治6(1873)年竣工
*15 小野一成『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989)P47。延遼館(えんりょうかん)は江戸末期に海軍伝習所の生徒控室として着工した石室に西洋風の営繕を加えて明治2(1869)年5月に竣工した建物で、鹿鳴館が完成するまで迎賓館として活用された。建築面積1,381㎡。明治23(1890)年に老朽化のため解体されている。

本邸と30mの渡り廊下でつながる洋館

明治5(1872)年3月23日、毛利邸の普請が始まる。「高輪邸普請手斧始」と『公爵毛利邸起源略史』には書かれている。4月29日地固め、6月11日柱立とあり、手斧始と同じように職人に御酒をふるまっている。7月25日には棟上げが行われ、11月10日には御普請成就と記されている。御殿(和館、本邸)あるいは洋館という表記はこれらの項の中にはない。『毛利家用達所奉伺録』には和館柱立時に洋館の職人も祝い酒を頂いたという記載があるため、要所要所の儀式は本邸と共に行ったのであろう。

本邸は、日本造の御殿で栂檜無節造・建坪(建築面積)は342坪5合5勺(1,132㎡)、建方、建具、畳、その他一式の費用が1万923円46銭5厘3毛であった。洋館は、木造2階建て下見板張りペンキ仕上げ、桁上までの高さ8.7m、建坪(建築面積)は87.5坪(289㎡)、本邸との渡り廊下17坪5合(57.8㎡)とある。7坪7合4勺 (24.4㎡)のキッチンがこれに付属していた。これら一式の費用は9,979円68銭6厘4毛であった。

「キッチン」と「洋館」を分けて書いているが、これは洋館がただの貴人をお呼びして休息していただくための場だけではなく、迎賓館としての機能を備えていた施設であることを証明している。また、本邸からつながる渡り廊下の面積は、標準的な渡り廊下の幅である1.8m幅だとすると、その長さは100尺、30mにもなる。本邸付属の洋館とはいえかなりの規模であることがこのわずかに残された記録からわかる。本格的な洋式の住宅は、明治10年代後半から日本各地に多く出現するようになるが、それでもこの毛利邸洋館のような広さのものはなかなかなかった。残念なことに、毛利邸洋館がどのような間取りでどういう部屋があったのか、併設されるキッチン、渡り廊下、表の馬車道などの記載以外は記録がなく、詳細はわからない。

毛利邸の洋館の下見板張りペンキ仕上げという外観は、明治29(1869)年に三菱の創始者・岩崎弥太郎の長男・久彌が建てた岩崎家本邸(東京都台東区上野)とよく似た感じのものだったのではないか(*16)と言われている。岩崎邸の洋館は木造2階建て建築面積531.5㎡で、毛利邸洋館のほぼ倍の大きさであった。

毛利家の記録のひとつである『用達所日記』にも洋館に関する記録は少なく、明治6(1873)年にわずか10件あるだけである。明治5(1872)年3月に始まった工事は同年11月に「御普請成就」であるからもう建物の大半は完成していた頃である。内装に時間がかかったのだろうか。毛利家の執事たちにとって、工事の進捗は殿様から井上勝に依頼されているものであり、鹿島にとっては残念なことだが施工中の様子は特に記載する必要を感じなかったのではないだろうか。いよいよ最終的な内装や什器の設置段階になり、それらの記載が出てくる。そこには井上が築造費を三井組へ支払う(*17)記述が出てくるが、この場合の三井組は、為換座三井組、つまり銀行である。

5月7日洋館内の諸道具20箱が送られてくる。6月1日には御殿(本邸)との間の渡り廊下が使えるようになり、16日には洋館内の諸道具が英国から届き、井上鉄道頭が7月16,24,27日に高輪毛利邸に来て設置の采配を振るっている。井上は、明治6(1873)年7月22日付で鉄道寮を依願免官となっているから、7月にこのように毛利邸を何度も訪れているのは、もしかするともう「やってられない」と鉄道寮の仕事を見限っていたのかもしれない。毛利邸洋館に注力したこともうなずける。

この文書にはほかに唐紙、建具、ランプなどの文字も見える。11月1日に当主である毛利元徳夫妻が洋館に移った。毛利家文庫にある「東京高輪邸指図」は、本邸の間取りを描いた図面だが、この東側に「洋館渡り廊下」と書かれており、本邸の東側に洋館があったようだ。本邸の玄関は西側に、洋館の玄関は東側に作られ、それぞれ毛利家の、あるいは明治政府の迎賓館的な使われ方をしていた。

ちなみに毛利邸のあった場所の東側には現在は品川駅と、その先には超高層ビルが広がるが、当時は品川駅の先には遠浅の海が広がり、少し高台になる洋館からは海がよく見えた。これは、毛利邸洋館の設計者と推測されているブリジェンスが、「居留地の外国人住宅に見られる洋館と海の眺めとが対となった住まいが取り入れられ」(*18)洋館が海に面する高台に建てられたからだと思われる。

岩崎邸 岩崎邸クリックすると拡大します

明治10(1877)年頃の品川駅。駅東側は海。画面左側のこんもりと茂った木々の左奥が毛利の敷地 明治10(1877)年頃の品川駅。駅東側は海。画面左側のこんもりと茂った木々の左奥が毛利の敷地クリックすると拡大します

明治9(1876)年の地図。品川駅は明治18(1885)年に毛利邸の北東のあたりに移転する。 明治9(1876)年の地図。品川駅は明治18(1885)年に毛利邸の北東のあたりに移転する。クリックすると拡大します

品川プリンスホテル、エプソンアクアパーク品川などのある一帯が毛利邸の跡地。右上の明治時代の地図、「高輪に落ち着くまで」の項の江戸時代の地図と見比べると道はほとんど変わっていないことがわかる。

『公爵毛利邸起源略史』 『公爵毛利邸起源略史』クリックすると拡大します

*16 小野一成『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989)P47
*17 山口県教育委員会『山口県の近代和風建築』(2011)P19
*18 山本昌宏「明治初期における旧長州藩主毛利家東京高輪邸の洋館の建設背景」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(2011)

年頭挨拶、婚礼、送迎の場としての洋館

明治天皇はこの毛利邸洋館ができて間もない明治6(1873)年5月22日にここを訪れている。まだ渡り廊下は完成しておらず、洋館に通じる馬車道もできていない。陛下のために緊急に内か外から特設の道を作ったのだろうか。

『用達所日記』には、前日に「御巡幸につき御昼休として御邸御立寄」の連絡があり、当日天皇陛下は11時過ぎにいらしてお昼御膳を召し上がり、殿様(毛利氏)が御門の外までお送りした。殿様は冷し菓子1箱、ぶどう酒1箱を献上されている。

明治7(1874)年7月には洋館に通じる馬車道が作られている。

洋館は会食の場、儀式の場として使用され、特に年頭の行事は明治8(1875)年から27(1894)年の20年間、毎年洋館で行われていた。江戸時代から続く多くの行事、例えば花見、紀元節、昇進、演劇や競技の観覧は本館(和館)で行われ、明治になってからできた行事、行啓、天長節などは洋館で行われるというのが和洋設置型邸宅の場合のそれぞれの邸宅の使われ方である(*21)が、毛利邸の洋館では江戸時代からの行事である年頭行事や婚礼、送迎といったものと、明治に入ってから新しく生まれた行事の両方が行われていた。長い渡り廊下でつながれた二つの館は、毛利家の人々にとってはどちらも大切で必要な場所だった。

しかし、明治27(1894)年の明治東京地震でこの洋館の屋根が損傷を受けてしまう。

明治27(1894)年6月20日午後14時4分に起きた地震は、東京、川崎、横浜に大きな被害が出た。死者31名、負傷者157名、家屋全壊25棟、半壊68棟、破損は6,000を超えた。煉瓦造の建造物の被害が特に多く、都心の官公庁、邸宅、工場などで数多くの建物の破損が見られた。最大震度6弱。毛利邸のあるあたりは5強だったと思われる。芝区内の被害は全半壊345戸、死傷者8名、『用達所日記』ではこの地震について、「午後2時過ぎに激震があり、およそ5分も揺れて、安政大地震の時のことが頭をよぎった」とある。土蔵と洋館の屋根、壁などが損傷を受けた。合計101回の地震があり、翌年1月18日にも大きな地震があって129回も揺れたという。

その後洋館が使われた記録はない。明治29(1869)年の『用達所日記』に、「元洋館跡」の記載があるのみである。明治27(1894)年6月の地震のあと翌年までの間のどこかで取り壊されたようである。

*19 山本昌宏「毛利邸における和館と洋館で行われた行事」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(2006)論文では「和洋館並列型住宅」となっているが、ここでは藤森照信『日本の近代建築』P182に倣い「和洋設置式邸宅」と表記する

「洋館の鹿島」から「鉄道の鹿島」へ

毛利邸の洋館工事を請け負った鹿島岩吉・岩蔵親子は、長州藩とも毛利家とも縁はなかったが、横浜でのウォルシュ兄弟との交流が、この工事受注につながったのではないかと言われる。横浜居留地2番目の商館「亜米一」と呼ばれたウォルシュ・ホール商会の建物の施工で鹿島岩吉は彼らの信用を得、それが息子・岩蔵の代になっても続いていた。

横浜居留地の外国商館を建設して「洋館の鹿島」として名をあげ、ウォルシュ兄弟の覚えめでたく旧長州藩とのつながりができたことによって、毛利邸の洋館工事を任された鹿島は、皮肉なことにそこで知り合った井上勝の勧めによって明治13(1880)年5月、鉄道請負に転じる。

井上は毛利邸洋館の工事監督として何度も現場を訪れ、鹿島岩蔵らの働きに目を留めた。鉄道頭として優秀な請負業者を探していた彼は、岩蔵に鉄道請負への転身を勧める。しかし当時鉄道は、政府内部にさえ狭い日本に鉄道など必要ないと考える人物もいたほどであり、明治5(1872)年に新橋・横浜間が開通したのち、大阪・神戸間の鉄道が敷かれ、大阪・京都間、京都・大津間の鉄道敷設が決まっていた程度で将来性は全く予見できなかった。

当時の建築はまだ規模が小さく、毛利邸洋館でさえ1万円を切る金額で、それでさえ破格と言われた時代である。鉄道は工区割にしてもその10倍以上の請負金額であり、それに見合う保証金も必要だった。さすがの岩蔵も、井上に声をかけられてから数年熟慮に熟慮を重ねたらしい。幸い、大阪の大富豪平瀬露香をスポンサーに得て、鉄道請負へ転身し、日本で5番目の営業路線となる敦賀線(長浜・敦賀間)の工事に携わる。ちなみにその時の鹿島の請負金額は20万円だった。

鹿島は、井上から「二足のわらじをはくな」と言われたことを守り、洋館建築を捨て、「鉄道の鹿島」へとドラスティックな転身を遂げた。毛利邸洋館は、明治期に作られた洋館の中でもひときわ短い命であり、個人の屋敷ということもあり、その写真や絵葉書、錦絵などは今のところ発見されていない。

『用達所日記』には毛利邸の工事終了後、大工、左官、建具、経師などの職人に米や金子の心付けを渡したことが記載され、それぞれの名前が挙げられているが、その中に鹿島岩蔵の名前はない。しかし鹿島にとっては井上勝と出会い、後に鉄道請負へと転身するきっかけとなった、特別な意味を持つ工事である。

<参考図書>

毛利家文書『公爵毛利邸起源略史』(1871-1874)

毛利家文書『用達所日記』(1871-83)

鹿島組『鹿島組五十年小史』(1929)

伝菅野忠五郎『わが鹿島組』(1938)

小野一成『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989)

初田亨『職人たちの西洋建築』(1997)

土木建築工事画報編集部「鉄道の元勲井上勝」『土木建築工事画報』(1928)

藤森照信『日本の近代建築』(1993)

中村鉿子『家庭の模範:名流百家』(1905)

鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史 明治編』(1967)

山本昌宏「毛利邸における和館と洋館の配置」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(2005)

山本昌宏「毛利邸における和館と洋館で行われた行事」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(2006)

山本昌宏「明治初期における旧長州藩主毛利家東京高輪邸の洋館の建設背景」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(2011)

日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史1』(1971)

内田青蔵『日本の近代住宅』(1992)

扶桑社「明治天皇とその時代」『正論平成14年12月臨時増刊号』(2002)

山口県教育委員会『山口県の近代和風建築』(2011)

地図出典:ジャピール

(2015年12月25日公開)

ページTOPへ

ページの先頭へ