第47回 東京市街線 -明治期に作られた煉瓦造の高架橋

日本の鉄道の8割は明治時代に完成したといわれる。しかし現在、明治期の鉄道の面影が残っている場所はあまり多くない。その理由は、幹線や都市部での高架化、電化、路線改良などによる。今回紹介する「東京市街線」(新永間市街線高架橋)は、日本初の鉄道高架橋である。都心にありながら明治44(1911)年竣工当時の煉瓦アーチ式高架橋を目にすることができる。2010年土木学会選奨土木遺産に選ばれている。

新橋・有楽町間の煉瓦アーチ式高架橋 新橋・有楽町間の煉瓦アーチ式高架橋クリックすると拡大します

鉄道のはじまり

日本初の鉄道である新橋・横浜間の工事は、明治3(1870)年3月の東京・汐留方向からの測量と、4月の横浜・野毛浦付近からの測量に始まる。北ボルネオで鉄道建設に従事していたイギリス人のお雇い外国人(*1)エドモンド・モレル(*2)が鉄道兼電信建築師長として日本に呼び寄せられ、彼の指導の下、イギリス人技師たちの主導で測量が行われた。その指導を受ける鉄道掛の役人たちの服装は陣笠、羽織袴に大小の刀を差し、足元は雪駄や草鞋だった。この状態での測量作業は動作が不自由で、刀が業務の滞りを招いたため、測量員に限り廃刀が許可された。廃刀令が発布されたのは明治9(1876)年のことである。

新橋から品川までの区間には兵部省(ひょうぶしょう。のちの陸海軍)の敷地が含まれていた。兵部省は鉄道敷設に反対しており、敷地内に鉄道を敷くことができなかったため、線路は遠浅の海を埋め立てた築堤の上に敷かれた。その際外国人の指導者や職人たちは「測量のとき、水のなかへ平気で入れる長靴」(*3)を履いて作業をしていた。足袋や草鞋を脱いで海水や泥水の中に入らねばならない日本人技師たちには彼らの長靴がうらやましかったという。

この日本初の鉄道工事は、旧幕時代の作事方(*4)の方法に倣い、工事の材料はすべて官給、工事は職種別に切り投げ方式(*5)で発注された。鹿島は鹿島岩吉名義で線路に撒布する砂利を1,000立坪(1,800㎥)納入している。距離にして数百m程度の撒布量でしかないが、ほかに砂利納入に関しての記載はなく、業者としての比較はできない。当時鹿島は「洋館の鹿島」と言われており、横浜に本店を置き、外国商館などの建築を請け負っていた。土木工事である鉄道とは縁のなかった時代である。なぜ砂利の納入をしたのであろうか。鹿島岩吉の息子・鹿島岩蔵は鼈甲商であったが、その商人としての才覚、あるいは交流があった高島嘉右衛門(*6)とのつながりが砂利の納入へと導かれたのかもしれない。どういう形にしろ「鉄道の鹿島」を自負する鹿島にとって、日本初の鉄道工事にかかわっていたことは事実である。

明治5(1872)年9月(旧暦。新暦では10月)、新橋・横浜間の鉄道開通後、明治7(1874)年5月に大阪・神戸間、明治10(1877)年2月に京都・大阪間、明治13(1880)年7月に京都・大津間と線路は敷かれていく。明治13(1880)年に着工した日本で5番目の営業路線である長浜・敦賀間(明治17・1884年4月開通)の工事では、鹿島組が初めて鉄道請負として参画している。それ以降鹿島は、日本全国の鉄道工事を請け負うようになっていった。

*1 幕末から明治にかけて、欧米の技術、学問、制度を移入するために幕府、諸藩、政府、府県が雇用した外国人の総称。明治30(1897)年頃までにイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オランダなどから1万人以上の外国人が来日し、開国後の日本の近代化に尽力した。その多くは帰国したが、病死や自分の意志で日本に骨をうずめた人も多い
*2 Edmond Morel 1840-1871 イギリスの鉄道技術者。日本政府に招かれて工務省鉄道寮建設技師となる。鉄道開通前に結核で死去。英国製枕木でなく日本の木材使用を提案、「国内で技術者を養成せよ」と伊藤博文に進言
*3 山田直匡(1968年)「お雇い外国人 4 交通」P107
*4 さくじかた 江戸幕府の時代に建築・修理などの工事を受け持った下役
*5 きりなげほうしき 工事を部分的に単位数量当たりの単価を定めて請け負わすこと
*6 たかしまかえもん 1832-1914 横浜で材木商・土木建築請負などを行った実業家、易断家。横浜の高島町は彼が埋め立て事業を行った場所。高島易断書を著した

都心にできた鉄道空白地帯

その後、鉄道の路線は日本各地に伸びていく。東海道線は新橋駅を始点とし、東北線(明治16・1883年開業)は上野駅を始点としていた。鉄道は遠方へ人や物を運ぶ道具である。東京中心部は江戸年間に都市として発達し、それなりの交通手段・運搬手段が網羅されており、鉄道の発達とは無縁だった。そのため銀座、京橋、日本橋といった東京の中心地には明治15(1882)年に開通した馬車鉄道(*7)程度の簡易な路線しかなかった。新橋・上野間わずか6kmに、乗合馬車で45分、徒歩で1時間以上かかっていた。

明治18(1885)年3月に東京市の西側に品川線(品川・赤羽間)が開通する。このあたりは当時のどかな農村地帯だったため、市街地と違って鉄道を通しやすかった。今の山手線の品川・池袋間と埼京線の池袋・赤羽間にあたる。横浜港に陸揚げされた鉄道建設資材を東北方面へ、群馬県などの産地から生糸を横浜港へ輸送することが主目的で、施工は当時「老舗」と言われた鹿島組と「新進」と言われた杉井組が請け負った。

この品川線は、旅客列車と貨物列車が混在し、運行速度が遅く、単線のために列車の待ち合わせもあった。そのため市民感覚からは遅くて遠回りに感じられ、新橋・上野間を徒歩、馬車鉄道または人力車でつなぐ人がほとんどだった。

*7 軌道上を走る乗合馬車。最盛期には2,000頭以上の馬が300台以上の馬車をひいた。基本3路線があり始発終点以外は合図して自由に乗り降りできた。明治末年には路面電車に移行していく

明治18(1885)年鉄道路線図 明治18(1885)年鉄道路線図クリックすると拡大します

「ただし線路は高架線とする」

明治17(1884)年11月、東京府市区改正意見書が発表された。東京にとって初の都市計画にあたる。これを発議した東京府知事芳川顕正(*8)は、明治3(1870)年に伊藤博文に同行してアメリカのナショナルバンクについて学び、帰国後は大蔵省紙幣頭などを務めたのち、東京府知事に就任した人物である。彼は、東京をロンドンやパリのような近代国家の首都にふさわしい都市に改造しようとしていた。

意見書には、東京に経済と人口が集中したことによって起きるさまざまな問題と、それらを整備していくための事業計画、近代国家の首都として必要な設備が盛り込まれていた。その中には鉄道の敷設や道路の整備があった。鉄道については「新橋・上野両停車場間を線路で結び、鍛冶橋内および万世橋の北に停車場を設置すべきものとする」(*9)と書かれていた。そしてその理由として「昔から東京市区内の貿易商業が一番盛んなのは日本橋とその近辺である。日本橋近辺から現在のように上野や新橋まで運搬する労力は相当なものである。また、品海築港(東京港計画)が実現すればなおさら陸揚げ貨物の輸送に、今までのように車馬を使っていては足りるものではない。新橋・上野間に線路を通し、最低2か所の停車場を新設し、交通及び貨物運輸の便利を増進させるべきである。」と述べられていた。当時の物流において、新たな輸送手段である鉄道の期待は絶大なものであった。

政府は翌明治18(1885)年、内務省内に東京市区改正審議会を設置し、この意見書の審議を始める。各省の代表者と渋沢栄一、益田孝が委員となった。最終案が決議されたのは明治21(1888)年3月のことである。5月に公布された。これを細かく詰めていく改正審査会中、一人の委員から意見が出た。「巨額の費用をかけて道路の幅員を広げ、路線を改正しても、その端から鉄道線を敷設して、改正した道路を横断して汽車の運転を始めれば、人馬の通行を途絶することになる。」もっともな話である。

そこで11月21日の会議で「鉄道は新橋、上野両停車場の線路を接続して、鍛冶橋および万世橋の北に停車場を設置すべきものとする。ただし、線路は高架線とする」と条件づけられた。同時に「市街鉄道線路線調査委員」が設けられた。

*8 よしかわ あきまさ 1842-1920 徳島県出身。長崎で医学・英学を学ぶ中、伊藤博文と知り合い明治3(1870)年大蔵省に出仕、翌年伊藤に随行して渡米、帰国後紙幣頭、工部大書記官、外務少輔を経て明治15(1882)年7月東京府知事、明治23(1890)年文部大臣、在任中教育勅語の発布に尽力。33(1900)年貴族院議員、43(1910)年枢密顧問、45(1912)年枢密院副議長。伯爵
*9 日本国有鉄道百年史編纂委員会(1972年)『日本国有鉄道百年史 4』P69

東京駅を挟んで官営と民営で施工へ

明治23(1890)年9月17日、内務大臣から鉄道庁長官に東京市の中央に一大停車場を設置し、その南側から新橋までを鉄道庁に、その北側から上野までを日本鉄道会社(*10)に託すことが告げられた。新橋から中央停車場(現・東京駅)までは東海道線の延伸であるから官営、上野駅までは日本鉄道会社が資金調達して鉄道庁に工事を委託するか、自社で建設するという暗黙の了解ができた。

鉄道庁では帝大出で欧米視察から帰国したばかりの技師・仙石貢(*11)が、日本鉄道会社では九州鉄道で顧問を務めていたドイツ人のお雇い外国人ルムシュッテル(*12)がそれぞれ調査を行った。ルムシュッテルは、複線一組を長距離用、もう一組を市街線用とした4本の線路を、ベルリンの高架鉄道をモデルとした煉瓦造のアーチ式高架橋に走らせることを提案する。街路と外濠に鉄橋を架すほかはすべて径間8~10mの煉瓦造連続拱橋(きょうきょう。アーチ橋のこと)であった。鉄道庁側(*13)もこれを参考に煉瓦造拱橋の設計を行った。
明治26(1893)年8月、すべての敷設免許が出願される。

しかし明治27(1894)年7月、日清戦争がはじまったことにより諸事業は中止され、高架線の計画は棚上げされてしまった。その上、原案を作ったルムシュッテルは、王室プロシア建築技師に任ぜられたこともあり、ドイツへ帰国してしまう。

*10 日本鉄道会社 日本初の民間鉄道会社 明治14(1881)年創設。現在の東北本線、常磐線、高崎線、山手線の一部などを経営した。明治39(1906)年鉄道国有法により国有化
*11 せんごくみつぐ 1857-1931 高知県出身 工学博士。明治11(1878)年東京帝国大学土木工学科卒業、東京府土木掛、明治29(1896)年逓信省鉄道技官、明治31(1898)年九州鉄道社長、大正3(1914)年鉄道院総裁、大正13(1924)年鉄道大臣、昭和4(1929)年から昭和6(1931)年南満州鉄道総裁
*12 Hermann Rumschottel 1844-1918 ドイツの鉄道技術者。ドイツ鉄道建設会社で実践を積み、イギリス、アメリカにも留学。1874年からベルリン市街鉄道の建設と営業に従事。1887年11月九州鉄道顧問技師として来日。1890年技師長。1892年5年の任期を終える。ドイツ公使館技術顧問、日本鉄道顧問を歴任、1894年帰国。日本の鉄道発展に大きな影響を与えた
*13 内務省外局の鉄道庁は、明治25(1892)年逓信省外局へ、明治26(1893)年逓信省鉄道局へと名称・所属が変わる。

いよいよ着手、煉瓦造?鋼鉄造?

明治中期を過ぎると旅客も貨物もどんどん増えていった。貨物の輸送は品川線を作ることで回避できたが、もともと新橋駅も上野駅もそれほど規模が大きいものではなく、飽和状態になることは目に見えていた。幹線のターミナル駅を結ぶことは急務であった。

しかし、東京市内の土地・建物の価格は年々値上がりしていた。最初の計画から既に10年が経過している。鉄道建設のための土地買収はますます難しくなってきていた。そこで政府は戦勝気分で沸き立つ明治28(1895)年に、当初計画の新橋・上野間の連絡線のうち、新銭座(現・港区浜松町2丁目)から永楽町(現千代田区丸の内2丁目)までの区間と、中央停車場(東京駅)の建設を政府主導で進める計画を立てる。12月5日の第7回鉄道会議で「官制規制鐡道改良の件」は信越線、東海道線などの改良工事と共に明治29年度から35年度までの7か年継続事業として可決された。

鉄道局では明治29(1896)年4月、この計画を再開するため新永間建築事務所を新橋駅構内に開設。いよいよ着手することとなる。工事は線路の実測から始まった。

明治31(1898)年2月、ルムシュッテルの推薦を受けたドイツ人技師バルツェル(*14)が来日し、逓信省工務顧問となる。彼はこの高架鉄道の全体構成から、個々の図面作成、監督業務を政府から委託される。彼は路線を見直し、現在の浜松町駅付近からほぼ直線で東京駅に至る案(*15)を提案する。この路線案は曲線の急な個所もなく、距離も300フィート(91.4m)短縮できるので、建設費の減少と竣工後の線路の保守及び運転費を節約できるというものだったが、経過地点の土地の価格が高く、家屋が周密で堅牢な構造も多いため、移転費が著しく高くなると思われた(*16)。ドイツ人のバルツェルにとっては「取り壊しの容易な小さな木造の日本家屋ばかりの市街地」(*17)かもしれないが、明治の時代、既に新橋から上野までの都市部は商業地、住宅地が密集しており、新しい路線を通すための用地買収は難しいと考えられた。

また、バルツェルは地震国日本では煉瓦造ではなく鋼鉄製の高架橋の方がいいのではないかという提案をした。そこで建設費、ランニングコスト、耐久性、耐震性について二者を検討した結果、耐久性耐震性以外は煉瓦造に軍配が上がった。また、鉄道局は震災予防調査会の意見も求めている。東京では明治27(1894)年6月に明治東京地震と呼ばれる大きな地震があり翌年1月にも大きな地震があった。これらの地震は特に煉瓦造の建造物に多数の被害を出した。しかし既存の煉瓦造鉄道トンネルなどに被害は見られず、煉瓦造でもかなりの強震に耐えられるものと判断された。ただ、連続アーチ橋は一か所崩れると連動する恐れがあるため、3~4径間ごとに大橋脚を作り、街路には鉄橋を作るなど、より強固な構造にすることとした。

明治32(1899)年、用地買収が始まる。買収を最小限に止めるため、ルートは芝区新銭座町(現・港区東新橋2丁目5付近)から汐留町(現・東新橋1丁目9付近)を通り、源助町(東新橋1丁目3付近)、烏森町(現・新橋2丁目新橋駅付近)、内幸町(現・千代田区内幸町1丁目東京電力本社ビル付近)、内山下町(現・千代田区有楽町1丁目帝国ホテル付近)、有楽町(現・丸の内3丁目東京国際フォーラム付近)、中央停車場(永楽町2丁目、現・丸の内1丁目東京駅)というものだった。烏森から中央停車場までのほとんどが外濠築堤の内側にある官有地で用地買収の必要はなく、既存建物の移転だけで済むという利点があった。

*14 Franz Baltzer 1857-1927 ドイツ帝国鉄道庁シュッテン管理局土木技師。明治31(1898)年2月、逓信省工務顧問として雇用、新永間高架橋建設に従事、明治36(1903)年2月に満期免職。帰国後の1903年にドイツ技術者協会会誌に論文を発表した。バルツァー、バルツェなどとも書かれる。
*15 新橋駅構内から新橋・蓬莱橋の間に出て、南金六町で銀座通りを斜断、数寄屋橋の東に出て有楽町に至る
*16 日本国有鉄道百年史編纂委員会(1972年)『日本国有鉄道百年史 4』P91
*17 島秀雄(1990年)『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文発見』P19 (鹿島出版会)

市街線平面図 市街線平面図クリックすると拡大しますNew Tab

工学士の請負者に限る

高架線の工事は下記の5工区に分けられた。
第一工区・・・芝区新浜町金杉橋梁の起点から芝区汐留町通まで。高架へつなぐために土を盛り上げていくもの。
第二工区・・・芝区汐留町通から芝区二葉町河岸通(=烏森。現在の新橋駅)の基礎工事と煉瓦造アーチ橋工事。
第三工区・・・芝区二葉町河岸通から麹町区有楽町3丁目1番地市区改正設計道路(有楽町駅)の基礎工事と煉瓦造アーチ橋工事、瀝青版(路面舗装のアスファルトなど)敷設
第四工区・・・有楽町から麹町区鍛冶橋通の基礎工事と鋼鉄製橋梁、煉瓦造アーチ橋工事
第五工区・・・鍛冶橋通から中央停車場構内(麹町区銭瓶町)の基礎工事と煉瓦造アーチ橋工事
『東京市街高架鉄道建築概要』では、ほとんどが「直営」とあるが、実際には「金杉橋付近より新橋間は杉井和一郎、新橋より鍛冶橋間は鹿島組が特命された」(*18)。直営施工は「工学士の請負者に限るという条件」(*19)だったのである。この工区割で見ると、1,2工区が杉井組、3-5工区が鹿島組ということのようである。初めての試みである「アーチ式高架橋」ということで、失敗できない。確実な施工者、それに加えて実践だけではない学問の知識がある者という選択であったと思われる。当時は大学を出た「学士さん」が請負業に入ることなどほとんどない時代であったから、この条件にあてはまるのは東京帝国大学工学部土木工学科を明治32(1899)年に卒業した鹿島精一(鹿島組)と明治31(1898)年卒業の杉井和一郎(杉井組)しかいなかった。鹿島精一は後にこのことについて「元来杉井さんがやるところだったんですよ。ところが私、学校を出たばかりで、大屋権平という工務部長があった。それを学生時代に知っておったものですから、お前も学校を出たから少しやらせてやろうというようなわけで高架線をやったわけです」(*18)と謙遜して語っている。このコメントの真偽は定かではないが、偉ぶらない性格だった鹿島精一の人となりの一端を見ることができる発言である。

ちなみに、第四工区の第三第四有楽町橋上部工事は大倉組(現・大成建設)が、中央停車場(東京駅)は基礎工事を杉井組が、上屋工事を大林組が、烏森停車場(新橋駅)は清水組がそれぞれ請け負っている。杉井組は大正時代に解散しているが、ほかは現在も活躍する建設会社である。

*18 日本鉄道建設業協会(1967年)『日本鉄道請負業史明治編』P555
*19 島田藤(1932年)『日本の土木建築を語る』P181(山水社)

工事開始、中断、再開、中断・・・

明治33(1900)年9月20日、工事が開始される。
まず、第三工区、外壕沿いの高い石垣で囲んだ土手の取り壊しから始められた。しかし、わずか7か月後の明治34(1901)年4月、政府の都合により一般建設及び改良事業は繰り延べされてしまう。日清戦争後の不景気が原因だった。そのため烏森から北の工事(3,4,5工区)は中止。明治35(1902)年に再着手するが、明治37(1904)年3月、日露戦争のため再び中止される。

鹿島組と杉井組による本格的な工事が再興されたのは、日露戦争が終わった明治39(1906)年4月のことだった。その前月には鉄道国有法が公布されていた。日本全国を走る鉄道のうち、幹線部を走る17の鉄道会社の鉄路、2,814.06マイル(=4,529km)を総額約4億8,000万円で国が買収した。国がそれまで所有していた鉄路1,531.58マイル(=2,465km)と合わせ、約7,000kmが国有となる。日本鉄道会社もこの17社のうちのひとつだった。

実は中央停車場以北の日本鉄道会社分の高架鉄道の計画は、経営陣の入れ替わりなどもあり、まったく進んでいなかった。バルツェルは帰国後の明治36(1903)年にドイツで発表した論文の中でそのことをとても憂えていた。全くめどの立たない北の区間と数年後に完成する南の区間ができ、鉄道が上野駅までつながらなければ、全体計画が中途半端になってしまう。後に工事を再開しようとしてもそのための予算は膨大に膨れ上がるであろう。(*20)しかし彼の心配は杞憂に終わる。鉄道国有法によって中央停車場北側から上野駅までの工事も鉄道局の手によって実施されることになったのである。

明治34(1901)年生まれで新幹線の生みの親として知られる島秀雄は、明治末期から大正中ごろまで、芝の新浜町(現・港区芝浦1丁目東芝ビル南側付近)に住んでいた。「新浜町あたりの土手は急に土盛りを増す工事が始まった。東京港口の付近から烏森辺の市内高架の高さにまでアプローチをとるためである。それまでは線路の向こう側に行くときは土手を斜めに上がって、軌道の間に木の板を敷いたところを俥でガタガタと苦労して横切らなくてはならなかった。それがガードという新しい橋の下をくぐることになって、俥に載っていても快適に地平のまま横切れるようになった。」(*21)。

新橋付近の地盤は良好で、ほとんど湧水もなかったが、内幸町角の元政友会本部建物(現・東京電力本社ビル)から帝国ホテル前を経て土橋に至る間の地盤はあまりよくなかった。そこで、地表から約7m掘り込んで、17m余の杭を入れたという。杭木は当初千葉県産の松を納入したが、根本が太く上に行くほど細く、曲がっていて、地盤強化のためには不向きだった。そこで丸太のようにまっすぐで太さが均一の山形県産の松材にすべて取り換えたという。

また、明治頃はまだ外濠には皇居の石垣と同じくらいの高さの石垣があり、その上に老松がそびえていた。それを切り倒し、石垣を崩して掘り下げ、杭打ちを行う。杭打ちは高さ14mほどのやぐらを作って「よいとまけ」で打ち込んだ。1日1本打つ予定だったが、ある時、予定より早く進んだため1本半打ってみたら、翌日には浮き上がってしまった。それ以来無理をしてでも1日2本打ったという。作業員は1日1本65銭の賃金が、2倍になるので皆喜んで作業したという。

高架線の上部工事は主に煉瓦工ととび職の仕事だった。この当時、作業員の募集に苦労はなく、特に神田の鳶がこぞって工事に参加したという。また、煉瓦工も芝区金杉の吉田親分がほとんど仕切った。「煉瓦石は埼玉県の深谷から、鼻黒煉瓦石(色の黒い煉瓦)は利根川付近の製品を使用した。」(*22)しかし高架線のすべての工区の工事がほぼ同時進行したために、煉瓦石が不足してしまう。これを補うために取り壊した外濠の石垣の石を割って中詰めにしてモルタルをかけた個所もあるらしい。

鹿島が担当した区間では、企業者から丁寧な施工、具体的には煉瓦石積みは一人一日370本までと指示された。これではいかにゆっくり作業をしても時間が余ってしまい、作業もいくらも進まない。また、煉瓦石はすべてブラシできれいに洗浄するように厳命された。そのため鹿島組の現場監督が上司を通じて直訴して、ようやく通常施工に戻ったという。それもこれも、初めての煉瓦造アーチ橋の工事で、失敗しないようにしようという気負いによるものだった。

明治43(1910)年9月、浜松町、烏森(現・新橋)、有楽町を経て呉服橋仮停車場まで開通、大正3(1914)年12月には中央停車場(東京駅)が開業する。中央停車場の完成によって、停車場を駅と改称し、中央停車場は東京駅となった。全線の架道橋15か所、延長1,125フィート(343m)、アーチ橋12か所延長5,585フィート(1,702m)であった。

*20 島秀雄(1990年)『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文発見』P21 (鹿島出版会)
*21 島秀雄(1990年)『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文発見』P12 (鹿島出版会)
*22 日本鉄道建設業協会(1967年)『日本鉄道請負業史明治編』P556

下記写真2点は工事中の様子である。左の写真のキャプションには「内山下町橋一部拱脚煉瓦積みを地盤面より起こし、拱線まで積み上りたるの景。遙かに拱積みを終えたるは内幸橋なり」とある。右側に見えるのは帝国ホテルである。明治23年(1890)年に開業した渡辺譲設計の煉瓦造3階建60室の建物だった。右の写真では、煉瓦が積み上げられる様子が見て取れる。この左端に見えるのは帝国ホテルである。

工事中の様子工事中の様子クリックすると拡大します

工事中の様子工事中の様子クリックすると拡大します

下の2点は有楽町駅を山手線の内側から見た開業当事と現在の写真である。左は明治43(1910)年開業当時の有楽町駅。花電車がホームに止まっている。報知新聞の看板がある。同社は明治5(1872)年創業の郵便報知新聞が前身の有力紙で東京五大新聞のひとつ。ここに本社があった。現在はビックカメラのビルが建つ。右は現在の有楽町駅。開業当時よりホームが長くなっている。山手線は11両編成である。第二有楽橋架道橋は開業当時と変わらないように見える。駅まわりは耐震補強工事中であるが100年の時を経て、高架橋と架道橋と駅前の道を重ねて見ることができる。

次に並べる3点の写真は、少し高い位置から撮られた高架線完成後の写真である。左と中の写真は高架線外側(海側)で、新橋から有楽町方向を撮ったほぼ同じアングルの写真である。左は完成した新橋駅付近の市街線高架橋。手前は外濠。正面奥の洋館は帝国ホテル、その左は華族会館(鹿鳴館)である。外濠には船が浮かんでいる。高架線上を2両編成の市街線が走っている。中の写真はそれより少し高いアングルから。キャプションには「麹町区内山下町付近の高架鉄道拱橋を土橋方面より見たるものにして本図中央部に架設せる鉄橋は内幸橋なり」とある。手前の外濠沿いの道には路面電車が見える。高架上に電車が走っているが、画面左にはまだ工事中の雰囲気があり、列車線は完成していないように見える。右の写真は、高架線の内側(皇居側)で有楽町から新橋方向を撮った写真。キャプションに「数寄屋橋外より望みたる高架鉄道線の光景なり。やがて中央停車場の工成ると共に万世橋に進み、ここにて中央線、総武線と連絡しさらに進んで上野に達し、東北線に接続して我交通界に一新面目を開くに至るべし」とある。線路は市街線の2本があり、列車用の3本目は施工中のように見える。画面右奥の洋館は帝国ホテル。手前の民家の屋根が大きく見えるあたりは、現在では日比谷シャンテと高架線の間の飲食街。高架線の奥の外濠から高架橋の下を抜ける橋は手前が山下町架道橋、奥が内幸橋架道橋。その奥に見える塔は、小林時計店本店(八官町9番地、現・銀座8-1)

完成した新橋駅付近の市街線高架橋完成した新橋駅付近の市街線高架橋クリックすると拡大します

土橋から内幸町方向を見る土橋から内幸町方向を見るクリックすると拡大します

数寄屋橋から新橋方向を見る数寄屋橋から新橋方向を見るクリックすると拡大します

「環状線」の完成へ

明治41(1908)年からは鍛冶橋と神田柳原河岸間、鍛冶橋と万世橋間(中央線)の実測に着手するが、第一次世界大戦の影響で工事は遅れる。大正4(1915)年11月から大正8(1919)年1月には東京駅から万世橋に至る高架線工事が行われ、上野駅までが完成したのは大正14(1925)年11月のことだった。鹿島はその後、上野駅の改良工事(鹿島の軌跡第7回「上野駅の歴史」参照)を行い、昭和7(1932)年に完成。現在もなおその姿は竣工時の面影をとどめている。

現在の山手線に乗ると、品川駅、田町駅は道路と同じ高さを線路が走るが、浜松町駅から北はずっと高架である。その礎は明治時代に築かれ、今につながっている。

鼻黒煉瓦がアクセントになっている鼻黒煉瓦がアクセントになっているクリックすると拡大します

内幸町架道橋内幸町架道橋クリックすると拡大します

山下橋架道橋山下橋架道橋クリックすると拡大します

山田直匡(1968年)『お雇い外国人 4交通』

日本交通協会鉄道先人録編集部(1972年)『鉄道先人録』

島秀雄 (1990年)『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文発見』

日本国有鉄道百年史編纂委員会(1972年)『日本国有鉄道百年史』

渋沢青淵記念財団竜門社(1956年)『澁澤栄一伝記資料』第9巻

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小野田滋(2012年)『高架鉄道と東京駅』

日本鉄道建設業協会(1967年)『日本鉄道請負業史 明治編』

日本鉄道建設業協会(1978年)『日本鉄道請負業史大正昭和(前期)篇』

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島田藤(1932年)『日本の土木建築を語る』(山水社)

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日本国有鉄道東京第一工事局(1976年)『東京第一工事局八十年史』

東京市史編纂係編(1907年)『東京案内 上』

日本国有鉄道(1972年)『日本国有鉄道百年写真史』

(2016年10月3日公開)

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