岩手県陸前高田市,高田松原津波復興祈念公園の「海を望む場」(撮影:大村拓也)震災の津波被災地につくられた祈念公園は,ここにはもう居ない人,そしてここにはまだ居ない人に向けてつくられている。他者と共存する場所が公園の条件であるとすれば,祈念公園はとても公園的だと言えるだろう。この連載の最終回のテーマは追悼の公園にしようと以前から決めていた。新年を迎え,執筆に取り掛かった矢先に能登半島地震が発生し,地震と津波のニュースが飛び込んできた。一刻も早い復興をお祈りするとともに,被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。15(最終回)追悼の風景,他者のための公園[文]石川初公園の可能性PARKStudiesStudy16KAJIMA202403

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追悼・慰霊する公園最近,東日本大震災の被災地をあらためてる機会があった。所属している学会の企画のために,復興プロジェクトの現在の風景,主に公園を視察することが目的だった。岩手県や宮城県,福島県の太平洋沿岸部,特に津波の被害が大きかった地域では,復興事業としての防災工事とともに,いくつもの公園がつくられた。日本でこれほど短期間に広範囲に,そして象徴的に公園がつくられたことは今までなかったのではないだろうか。被災地につくられた公園の多くには災害を記録する意図が込められ,犠牲となった方々を追悼する記念碑や慰霊碑が設けられている。訪れたほとんどの公園は震災から13年を経てなお,施設は新しく植栽はまだ小さく,どれも建設されて間もない様子を見せていた。それは,大規模なプロジェクトは体制の整備や合意形成に時間がかかること,そして公園が成熟した景観を呈するには長い時間が必要であることを示す風景でもあった。死者を追悼しその生涯を称える碑を建てることは古代から行われてきた。しかし,現代の意味での慰霊碑が公共の施設として多くの国でつくられるようになったのは19世紀から20世紀にかけてのことである。二度の世界大戦による膨大な犠牲者を追悼し記憶に留め,また平和の重要性を訴えるシンボルとして世界中で慰霊碑がつくられた。日本では,広島平和記念公園や長崎の平和公園などがそれである。公共空間における慰霊碑のあり方として大きな議論を巻き起こした事例に,アメリカのワシントンD.C.につくられた「ベトナム戦争戦没者慰霊碑(VietnamVeteransMemorial)」がある。1981年の公開コンペで選出された,当時21歳の学生だったアーティストのマヤ・リンの設計によるもので,地面に埋没した黒い石の壁に,戦死あるいは行方不明の兵士の名前が時系列に彫られたデザインは,戦没者への敬意を欠いているといった批判を浴びつつも,具象的な戦士の銅像や屹立するモニュメントとは異なる,静かな祈りの空間をつくった事例として現在でも高く評価されている。行為としての追悼公園を設計する側から考えると,特定の宗教の儀式や作法に基づくものでない限ベトナム戦争戦没者慰霊碑(ワシントンD.C.。撮影:西井彩)高田松原津波復興祈念公園。「海を望む場」へのアプローチ(撮影:大村拓也)同公園の献花台18KAJIMA202403

デザイン:中野デザイン事務所15公園の可能性PARKStudiesStudy̶いしかわ・はじめランドスケープアーキテクト/慶應義塾大学総合政策学部・環境情報学部教授。1964年生,鹿島建設建築設計本部,米国HOKプランニンググループ,ランドスケープデザイン設計部を経て,2015年より現職。登録ランドスケープアーキテクト(RLA)。著書に『ランドスケール・ブック̶地上へのまなざし』(LIXIL出版,2012年),『思考としてのランドスケープ地上学への誘い』(LIXIL出版,2018年)ほか。石巻南浜津波復興祈念公園。「祈りの場」の水盤と献花台り,慰霊や祈念には自明な空間の形式や機能があるわけではないため,形を決めるための設計条件にしにくい。しかし,祈りの空間という点で,東北の慰霊の公園には共通した特徴が見られた。公園に設けられた追悼のための空間が海を向いていることだ。ほとんどの被災地には震災後に建設された防潮堤があり,低地から海を直接見ることはできない。だが,多くの追悼空間は高台や盛土造形された丘の上に設けられ,防潮堤越しに海を眺められるようになっていた。その様子は,防災工事によって断ち切った海と陸とのつながりを,高台の視点場から視覚的に取り戻そうとしているかのように見えた。沿岸の土地に大きな災いをもたらしたのは海から来た津波である。一方で,海は生業の場であり,ここに生きる人々に長く恵みをもたらしてきた。このような海と陸との割り切れない関係が慰霊の公園の構成にあらわれているようにも思える。最も象徴的なのは陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園だろう。ここでは「海を望む場」と名付けられた献花の空間が防潮堤の上に設けられている。陸を守るべく海との連続を断った防潮堤の形状が,海を眺望する台となっているのだ。道の駅と一体となった東日本大震災津波伝承館からは,真っ直ぐな歩道と石巻市震災遺構門脇小学校(宮城県石巻市)から海を望む階段が海を望む場へ続いていて,まるで防潮堤そのものが慰霊碑に見立てられたように見える。多くの追悼空間には献花台が設けられている。訪れた人々は階段やスロープで歩いて登ってゆく。登り切ると防潮堤の向こうに海への眺望が開ける。この,歩いて登るという行為の経験に追悼・慰霊という意味が託されているように思える。空間の形状に翻訳しにくい追悼・慰霊を,坂を登って海を望むという行為に託したのだ。他者に向けられた公園公園は本来,誰が来て何をしても咎められることがない解放区である。それは,私のための場所となる一方で,私の知らない他者のための場所でもあるということだ。親密な人やものだけで埋まった空間は「庭」であって「公園」とは言えない。慰霊碑に向かうとき,私たちはそこに記録された人々の名前を通して多くの人生に思いを馳せ,祈りを捧げる。慰霊碑や祈念公園が留めているのは13年前の出来事であり,そこにはもう居ない人々の記録である。また,その記録はこれからの未来へ語り継ぐものであり,まだここには居ない人々に向けられたメッセージでもある。つまり,慰霊碑のデザインは,そこで祈る私の場所をつくるとともに「ここではない時間・空間」という「他者」に向けられているのだ。慰霊や祈念の公園は他者と共存する公園としての究極の形なのかもしれない。4月より新連載「風景のなかの建築」が始まります。ご期待ください。19KAJIMA202403