シリーズ100年をつくる会社(6): 1945(昭和20)年8月15日の敗戦の日を起点として、鹿島組は進駐軍関連工事と国土復興工事という新たな舞台に登場することになった。そして、時代の要請と共に近代的建設会社へと飛躍していった。
1945(昭和20)年8月30日、マッカーサー連合軍最高司令官の厚木基地着任を皮切りに、進駐軍は日本各地の施設建設に着手した。当社は渉外工事推進本部を設け積極的に受注を獲得し、進駐軍関連工事は当社を支える主柱となったのである。主な工事は、厚木基地工事、三沢基地工事、座間基地工事、そしてワシントンハイツ建設工事等であった。
また、これと並行して、戦災復興工事も着々と出件していった。そのなかで当社が真っ先に受注したのが東京汽電発電所復旧工事であった。その後は、最高裁判所改修工事、東京駅・仙台駅復興工事など次々と受注していった。この他に当社は,カスリーン台風による利根川決壊緊急復旧工事といった大規模災害復旧工事の施工も担当した。
1948(昭和23)年、建設業の地位と実力の向上が政策的に重要な課題とされ、建設省が誕生した。当社はこれに先立ち前年の12月、株式会社鹿島組から鹿島建設株式会社へと社名変更した。名実共に近代的建設会社としての地位確立を目指す鹿島守之助社長は、建設会社も独自の技術研究能力が必要な時代が到来したとの判断から、1949(昭和24)年4月、鹿島建設技術研究所を発足させた。先ず、建設技術の基礎となる「土」に関して総力を挙げて取り組んだ。その結果当社は、製鉄会社等から地盤に強い会社との評価を受けることになり、軟弱地盤の基礎工事を中心に受注を拡大していった。
更に,建設会社一社の資金力・技術力では対応できない大規模な工事が増える傾向にあった当時、鹿島守之助社長は米国で誕生したジョイント・ベンチャー方式(以下JV)に着目した。そして、1949(昭和24)年秋,進駐軍が沖縄基地工事への入札を日本の業者にも認めると決定したことを機ととらえ、日米両国にまたがるJV結成の音頭をとったのである。これにより、1950(昭和25)年2月、わが国初のJVが沖縄で誕生した。 そして、同年6月の朝鮮戦争の勃発を機に、日本の経済界はにわかに活況を呈しはじめていった。
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