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都市をよむ:第5回 オリンピック都市をよむ

前回までの「都市をはかる」では,街路を中心とした都市のあらゆる量をはかり,デザインや計画のもととなる新たな視点を提案してきました。
後編となる第5回からは「都市をよむ」と題して,都市を可視化するプロジェクトを紹介します。現代都市をグローバルに俯瞰し,その背景や未来を読み解くおもしろさを数々のグラフィックとともに伝えていきます。

2013年9月7日,国際オリンピック委員会(IOC)会長ジャック・ロゲ(当時)が「トーキョー」と2020年の開催地決定を告げて以来,日本の首都・東京の再編が加速している。オリンピック・パラリンピックはスポーツの祭典であると同時に都市の祭典でもあるのだ。ではオリンピックと都市はこれまで,どのような関係をもって発展してきたのだろうか? そして,2020年の東京大会は歴史上どのような意義をもつのだろうか? 今回は世界最大のスポーツイベントとなったオリンピックと都市の密接な関わりを,歴史的な視点から振り返り読み解いてみたい。

集中か分散か?

オリンピックの開催都市において,競技施設の配置を都市のなかで集中させるか,あるいは分散させるかという問いかけは,オリンピック後も含めた都市戦略を考える上で,非常に大きな課題である。近年の夏季大会の施設配置を見ていくと,集中型が多く,逆に分散型は少ないことに気づく(図1)。実際,多くの都市で集中型,とくに一極集中型が採用されている。なぜだろうか?

まず,IOCが好むのは集中型である。短期間に数十万人の観客が移動するオリンピックでは,セキュリティの問題,交通の問題を1ヵ所にまとめたほうが管理しやすいからだ。また,荒廃した地区を一気に再開発したい都市にとっては,スポーツ施設を集約させ,そこをオリンピックパークとして再生できる機会となる。これは特定の場所への政治的・経済的集約を可能とする,オリンピックならではの開発手法といえるだろう。とくに2000年以降のシドニー,北京,ロンドンは一極集中型の施設配置を取っているが,これは各々の都市が抱える地理的な経済アンバランスを一気に変えることが意図されていた。

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分散型の未来を背負う東京2020

2020年の東京大会では代々木,神宮外苑を含む内陸部の「ヘリテッジゾーン」と湾岸の「東京ベイゾーン」の2つのエリアに,必要とされる施設を「コンパクト」に配置すると招致時から一貫して強調されてきた。しかし,歴史的に見て他の開催地と比べると,必ずしも「コンパクト」とはいえない節がある。さらには招致後の見直しによって,この「コンパクト」というコンセプトは大きく変容していることを踏まえると,東京の場合,競技施設や選手村などのほとんどが単独の敷地に建つ「分散型」の計画であると捉えるべきであろう。

そして歴史上,「分散型」はその対極にある「集中型」と比べてあまり歓迎されてこなかった計画手法なのである。しかしながら,すでに多くのスポーツ施設をもち,新たな施設をつくるにもその場所が限定される都市では,否応なしに分散型とならざるを得ない。今後オリンピックが大々的な都市再開発を必要としない成熟都市で開かれるとしたら,「集中型」よりも「分散型」のほうが主流となる可能性は大いにある。その意味で東京の空間戦略の行く末は,今後のオリンピック都市にとっても大きな意義をもっているといえるだろう。

図版:図1 1960年以降の競技施設配置のバリエーション

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図1 1960年以降の競技施設配置のバリエーション
大方の都市ではスポーツ施設は都市内に散在しているため,既存の施設を多用しようとする場合は,どうしても分散型になっていくのだが,下図を見ると,これまでに分散型を取ってきたのはメキシコシティ(1968)とロサンゼルス(1984),アトランタ(1996)のアメリカの2都市くらいで,それ以外の多くの都市では集中型,とくに一極集中型が多く採用されていることがわかる

オリンピック都市の変遷

視点を変え,100年以上におよぶ近代オリンピックの歴史を時間軸で追ってみると,図2のような時代の分類が見えてくる。1896年のアテネから最初期の数回は近代オリンピック黎明の時期であり,ここでのオリンピックによる建築や都市への影響はほとんど見当たらない。しかし,1908年のロンドン大会で初めてオリンピックスタジアムが誕生して以来,大会開催のたびに専用のスタジアムが建てられるようになる。オリンピックと建築が結びつきだした時代の始まりである。そして,1932年のロサンゼルス大会で選手村がスタジアムに近接してつくられたことにより,オリンピックが都市に生み出すものは,単体の「建築」から,様々な施設が集中するオリンピック「地区」へと拡大していった。

さらには,このようなオリンピック地区を都市内に複数つくり,それらを結ぶインフラを整備することにより,オリンピック効果は都市全域へと発展していく。そのモデルをつくったのが1960年のローマ大会であり,続いてその4年後に東京が行った都市大再編は,その有効性を世界に示す大きな役割を果たしたといえよう。これ以降,オリンピックと都市の関わりは多様な展開を見せていくこととなる。

図版:図2 近代オリンピック(夏季)都市の変遷

図2 近代オリンピック(夏季)都市の変遷

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「レガシー」重視の時代へ

そして,2000年以降はオリンピックの負の側面への対策に,多くの都市戦略が取られるようになってきた。環境への負荷を少なくするグリーンオリンピックなる概念は,2000年のシドニーが初めて打ち出し,2012年のロンドンはイベント後に重点を置いたオリンピックレガシー(遺産)の活用を計画の中心に据えている。これには2001年にIOC会長が,商業化によるイベントの拡大路線を取ってきたサマランチから,オリンピックの適正規模と持続可能性に重きを置いたロゲに代わったことも大きく影響している。

そしてそのロゲ体制の最後に選ばれたのが,2020年の東京ということになる。「レガシー」というキーワードはその誘致計画においても大々的に語られているのだが,この概念を初志貫徹することが難しいのは,これまでのオリンピック都市が証明している。オリンピックレガシーを重視する時代に,東京がどのような足跡を残すのか,その行方に世界が注目しているのだ。

図版:競技数と参加選手人数の推移

競技数と参加選手人数の推移
近代オリンピックの規模は年々拡大している。ここで注目されるのは2020年の東京大会の競技数・参加選手人数が,前回の1964年のほぼ倍になるであろう点だ。つまり,2度目のオリンピック開催といえども,東京はまったく異なる規模のイベントを開催しようとしているのだ

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図版:開催立候補都市数の推移

開催立候補都市数の推移
オリンピックに立候補する都市の数は,歴史上増減を繰り返してきた。黎明期を過ぎた1936年には13もの都市が名乗りを上げるようになるが,半世紀後の1984年にはロサンゼルスの1都市になってしまった。これは1976年のモントリオール大会が巨額な赤字を計上したため,オリンピックの開催=リスクという印象が強くなったためである。しかしながら,ロサンゼルス大会が商業化による成功をおさめたことで,オリンピックは再びチャンスと捉えられ,以降多くの都市が招致に躍起になる

Profile:白井宏昌(しらい・ひろまさ)

建築家,滋賀県立大学准教授。早稲田大学大学院修了後,Kajima Design勤務。2001年文化庁派遣在外研修員としてオランダに派遣。2001~06年OMA(ロッテルダム・北京)に勤務。中国中央電視台本社ビルなどを担当。ロンドン大学政治経済学院(London School of Economics)都市研究科博士課程より「オリンピックと都市」の研究にて博士号取得。2008年には国際オリンピック委員会(IOC)助成研究員に就任。研究の傍ら2012年ロンドンオリンピックパークの設計チームメンバーとしても活動。現在,H2Rアーキテクツ(東京・台北)共同主宰。また明治大学大学院,国際建築・都市デザインコースなどで兼任講師も務める。

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