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土木が創った文化「伝承」~次世代の幸せづくり~

写真:滔々と流れる水に逆らって建つ萬代橋。2004年に国の重要文化財の指定を受けた。市民に愛され続ける名橋である

滔々と流れる水に逆らって建つ萬代橋。2004年に国の重要文化財の指定を受けた。市民に愛され続ける名橋である

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信濃川河口に開けた新潟の街のシンボル「萬(万)代橋」。1929年に架け替えられた現在の橋は3代目である。当時,鉄筋コンクリートアーチ橋としては,日本一の支間(スパン)長を誇った。基礎工事には,隅田川の永代橋で試されたニューマチック・ケーソン(空気潜函)工法が使われた。欧米の技術を,日本人技術者だけで施工した最初の例でもあった。

「橋の側面や高欄の御影石が,滔々と流れる水に逆らって建つ橋の力強さ,頼もしさを倍加させ,ふとこの橋を築造した技術の力に思いを馳せたりするのです」というのは,産経新聞社新潟支局長の三浦恒郎さん。中でも朝の光を受けて重厚な輝きを見せているときが好きだという。赴任して1年半が過ぎた。

1964年6月16日午後。石川県加賀市の新堀川河口の導水路工事で,突堤先端部の杭打ち作業をしていた長田衛さんは,突然上昇した海面に仰天した。「海面から1m以上もある突堤上面を,波が洗ったのです」。事務所から退避指示がきたのはその直後だった。粟島沖を震源とする新潟地震(M7.5)である。

長田さんは新潟復興支援に駆り出される。そこで見た光景は惨憺たるものだった。県営アパートは根元から崩れ,水道管の破裂や液状化現象で街は水浸し。道路は寸断していた。しかし,萬代橋は取付け部分や高欄に損傷を受けただけで,6連のアーチ橋に被害はほとんどなかった。

「萬代橋が無事だったことで,市民はどんなに元気付けられたことか」と長田さんはいう。「人の往来や物資の搬入が継続され,この橋が市民の生命と生活とを一手に支えてくれたのです」。長田さんは萬代橋高欄の現況測量などの修復作業にも加わった。「復旧に当たる私たちを,市民は現場まで車に便乗させてくれるなど,協力を惜しまなかった」と振り返る。

なぜ萬代橋は落ちなかったのか。「最新鋭の工法の採用と,深く穿たれた基礎部。それに関東大震災の教訓を生かして導き出された鉄筋コンクリートの6連アーチ構造。それらが大地震に負けない強さを発揮したのではないか」と長田さんは推測する。同時にその事実が,この橋の名を一躍高めることになった。

橋長307m,橋幅22m。萬代橋はいまも東西を繋ぐ新潟の大動脈として,堅固に人々の暮らしを支え続けている。長田さんは北陸地方の河川,港湾工事を中心に活躍。2008年に退社して,石川県野々市町に住む。

写真:長田衛さん

長田衛さん

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萬代橋の50kmほど上流に大河津分水路が建造されたのは,1922年のことである。信濃川は度重なる水害で,越後平野に壊滅的な被害を与える暴れ川だった。この被害をなくすには,増水した水が越後平野に入る前に,一部を日本海へ流す必要があった。そのために計画されたのが大河津分水路である。信濃川という大河を相手に,人工水路を築くという困難な大工事であり,完成まで20年以上の歳月が費やされた。

分水路の完成により,下流域に洪水の心配が減少するとともに,新潟市内などの川幅は3分の1に縮小された。それに伴い,萬代橋の橋長は2代目と比べ475mも短くなった。

当社常務執行役員の土屋進さんは,建設省北陸地方建設局(当時)に勤務したことがある。大河津分水路を訪れた時に見た,可動堰近くの堤防に建つ信濃川補修工事竣工記念碑の碑文が心に残っているという。「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」。パナマ運河や大河津分水路建設に貢献した土木技術者の青山士(あきら)が残した言葉である。

「自然への畏敬と土木技術者の大いなる心意気が込められている」と土屋さん。世界でも稀な災害多発国であるわが国にとって,土木工事は人と自然との協調とせめぎあいの中で行われてきた。「その折合いが『自然の論理を知り』『人の安全な生活のため』だった。それを高度で多彩な技術力が支えたのです」というのである。

写真:土屋進常務

土屋進常務

写真:信濃川補修工事竣工記念碑

信濃川補修工事竣工記念碑

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萬代橋も大河津分水路も当社の施工ではないが,いつの時代でも,技術者たちは先人の技術を受け継ぎ,新しい技術を注入して,困難な工事を成就させ,国や地域社会に貢献してきた。支えたのは,技術者の飽くなき熱意と努力である。

当社代表取締役副社長の田代民治さんによると,「土木は常に一品生産だから,マニュアルだけで技術の伝承はできない」という。ダムにせよ橋梁にせよ,造る場所も違えば地盤も気象条件も違う。経験に基づいた技術や工法の伝授はもちろん重要だが,「第一線のエンジニアは常に新たな挑戦を続け,またそれを受け継いだ技術者は改良に注力する。一品生産だからこそ,余計最前線で挑み続けることが必要なのです」。このようにして技術が発展を続ける。

しかし,ものづくり技術の伝承は,いま数多の問題を抱えている。継承のための人材確保が困難になる一方で,国内での大型プロジェクトは減少した。

写真:田代民治副社長

田代民治副社長

戦後,先行する海外の技術を採り入れて成長した日本の土木技術だが,今度は海外へ技術展開することで,各国のインフラ整備に貢献できるかもしれない。技術伝承の貴重な現場にもなる。「真面目で誠実というものづくりの精神に加え,知識・知恵・知能といった知の部分の伝承がある。日本の技術は世界に十分アピールできる」と田代さんはいう。

技術伝承のため,当社は全社版新教育という制度を2008年度にスタートさせた。優秀な技術を持つ社員を研修講師として公募し,後輩への技術伝承を通じて,自らも知識・能力の向上に繋げるのがねらいだ。

土木構造物は,時代の要請で,その役目を終えるものもある。その一方で,先人たちの築いた多くのものがいまなお完璧に機能し,今日の生活を支えている。「私たちも,後世に残ることを期待して土木技術を伝承していく」と田代さんはいうのである。

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写真:牛伏川のフランス式階段流路工。高低差が23mある141mの区間に19の石段が積まれている(撮影・米岡威/社団法人建設コンサルタンツ協会提供)

牛伏川のフランス式階段流路工。高低差が23mある141mの区間に19の石段が積まれている(撮影・米岡威/社団法人建設コンサルタンツ協会提供)

信濃川筋に,土木が創った文化の伝承を見てきたが,三浦さんが「先日の新聞に掲載されましたが」といって,海外からの技術伝承の例を教えてくれた。それは,萬代橋から約300km上流の牛伏川(千曲川支流)に,明治から大正期に造られた「フランス式階段流路工」。国の登録有形文化財にもなっている。急傾斜の川を階段状にして流れを緩くする砂防工事により,度重なる水害を防いだ。

フランス・デュランス川の渓谷にある階段工がモデルで,留学した内務省技師がこの技術を持ち帰った。地元住民は「いま安全に暮らせるのも,先人の英知と苦労のおかげ」と感謝しているという。

信濃川や阿賀野川に施工している「粗朶沈床(そだちんしょう)」の技術も,外国人技術者が伝えたといわれるが,土屋さんによると「江戸時代からの日本の技法ではないか」という。小枝を束ねて枠を組み,その中に石を入れて沈ませ,護岸の根固めとする。川床の変化に順応でき,氾濫を防ぐ効果がある。里山を育んできた伝統からすると,土屋説の方がしっくりもする。「小動物の棲みかにもなり,多様な水際環境の創出にも効果的ですね」。

当社が施工した鳥屋野潟排水機場(新潟市)や信濃川妙見堰(長岡市)にも,「粗朶沈床」が護床工に用いられた。

このように,土木の技術は連綿と受け継がれ,新しい技術を創出して,私たちの安全を守ってきた。それでも自然の力とのせめぎ合いに,終わりはない。

「干天にダム貯水量の低下を嘆いた数日後の大豪雨で,治水対策の不備を衝く。そんな報道はいまも頻繁にある。私たちには,次世代のために,いまやらなければならない仕事がたくさんある」と話す三浦さん。信濃川の流れに目をやりながら,「土木とは,人々の幸せづくりに尽くすことなのかもしれませんね」というのである。

写真:三浦恒郎さん

三浦恒郎さん

写真:粗朶沈床は,鳥屋野潟排水機場建設の際にも用いられた

粗朶沈床は,鳥屋野潟排水機場建設の際にも用いられた

写真:地図

写真:地図

写真:当社が近年建設した土木構造物。次世代への贈り物である (1.吾妻線第二吾妻川橋りょう   2.首都高速中央環状線大橋JCT 3.東北新幹線新青森駅 4、5.東名阪自動車道高針工事)

当社が近年建設した土木構造物。次世代への贈り物である (1.吾妻線第二吾妻川橋りょう 2.首都高速中央環状線大橋JCT 3.東北新幹線新青森駅 4、5.東名阪自動車道高針工事)

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