シリーズ100年をつくる会社(11):
躍進の時代とオイルショック
1971〜1975年

 1950年代から60年代にかけての高度成長でわが国は経済大国にのし上がった。当社は霞が関ビル以降も数々の超高層ビルを手掛け、土木工事の大型化にも拍車がかかり順調に業績を伸ばしていた。しかし、オイルショックを契機に日本経済は停滞し、当社の右肩上がりの業績にも翳りが見え始めた。そんな中、中興の祖・鹿島守之助が79歳で急逝した。1975(昭和50)年12月のことだった。



 1970(昭和45)年3月から9月まで、大阪千里丘陵で開催された日本万国博覧会は昭和39年の東京オリンピックに匹敵する国家的大行事であり、開催地周辺ではオリンピック時の東京に勝るとも劣らぬ工事ラッシュが起こった。当社は敷地造成工事から、日本政府館・住友館・インドネシア館などの諸施設を施工した。



日本万国博覧会 住友館(大阪)
日本万国博覧会 住友館(大阪)


 1968(昭和43)年、霞が関ビル竣工で超高層のパイオニアの地位を築いた当社は、その後も東京・浜松町の世界貿易センタービル、新宿副都心の京王プラザホテル、新宿住友ビルなどを次々と手掛け、「超高層の鹿島」の地位を確固たるものにしていった。



三菱重工業香焼100万tドック(長崎)
三菱重工業香焼100万tドック(長崎)1970(昭和45)年〜1972(昭和47)年
当時国内最大の100万tドック。このあと100万t修繕ドックも建造


 また、引き続く日本経済の驚異的な拡大に伴ってエネルギー需要は急増し、特に電力では量的拡充とあわせて効率的な供給が求められるようになった。火力発電所は更に大型化し、原子力発電所も各地に計画・建設された。
 国内交通ネットワークの整備も着々と進行し、山陽新幹線新大阪―岡山間は1972(昭和47)年に、岡山―博多間は1975(昭和50)年に開通した。



最高裁判所(東京)
最高裁判所(東京)1971(昭和46)年〜1974(昭和49)年
設計コンペで当社設計部・岡田新一グループの作品が最優秀賞に選ばれた


 また、住宅建設が記録的に増大したのもこの時代である。特に1973(昭和48)年に竣工した鹿島建設椎名町社宅は、鉄筋コンクリート造で初めて18階建を実現し、鉄筋コンクリート造による超高層建築の可能性を実証した。
 しかし、1973(昭和48)年10月の第4次中東戦争勃発を契機としていわゆるオイルショックが発生し、その後内外経済の長期にわたる沈滞が続いた。不況の浸透と共に民間設備投資は停滞し、右肩上がりの成長を続けていた当社の受注高もついに減少を余儀なくされたのである。



新宿副都心
新宿副都心では,1971(昭和46)年の京王プラザホテル(左から3番目)に続き,1974(昭和49)年,新宿住友ビル(左端),KDDビル(右端),新宿三井ビル(左から2番目)が相次ぎ完成した