鹿島紀行
鹿島紀行
第2回 敦賀線

〜「鉄道の鹿島」の礎築く/廃線跡に見る開拓者魂〜
昭和28年 柳ヶ瀬付近を走る下り貨物列車。鉄道写真家 高橋 弘氏の作品
 琵琶湖北東部に位置する滋賀県木之本町は,北国街道の宿場町である。西に賤ヶ岳を望み,中心部に木之本地蔵尊(浄信寺)を擁する門前町でもある。町を歩くと,道の縦横に配された水路から鮮烈な水音が飛び込んでくる。

 賤ヶ岳から流れる水で 糸をひきます琴糸の 音に名高い琴糸なれば 賤ヶ岳からなりひびく (『大音糸ひき唄』より)

 木之本は明治期から製糸業の盛んな町だった。繭を煮る良質の水に恵まれたことが強い糸を生み,手作業の製糸(糸とり)を可能にした。それが琴や三味線など邦楽器用の絹糸弦生産への道を開いた。水上勉さんの悲恋小説『湖の琴』の主人公・栂尾さくも,糸ひきの季節労働者の一人だった。いま木之本で絹糸弦を製造するのは一軒だけになっている。
 「鉄道の鹿島」の試金石となった工事が,1879年(明治13年)4月着工の鉄道省敦賀線(のち柳ヶ瀬線)だった。長浜から木之本を経て敦賀に至る路線である。創業者の鹿島岩吉を継いだ岩蔵は,着工の前月に「鹿島組」を創設。鉄道の将来性を見抜いて,建築業から鉄道工北国街道の宿場町・木之本事請負業への転身を図ったのである。
 建設ルートは,木之本から中之郷を経て北国街道沿いに北上,柳ヶ瀬トンネル(1,352m)で滋賀・福井県境を抜けて刀根に達し,さらに疋田を通って敦賀までの全長42km。山越えの大工事だった。建設工事は4区に分けられ,最大の難所である柳ヶ瀬トンネルは実績のある藤田組が担当。鹿島組が受注したのは,鉄道工事では新顔ということもあって,中之郷−柳ヶ瀬間と刀根−疋田間の比較的簡単な土木工事だった。
 岩蔵は幹部の多くを現場に派遣,全力投球で鉄道建設に邁進し,1881年3月に両区間を完成させた。この丁寧な仕事ぶりが認められて,鹿島組が引き続いて各地で鉄道工事の特命を受けるきっかけになった。その意味でこの工事は「鉄道の鹿島」の記念碑的な工事だったのである。
 敦賀線は同年6月,柳ヶ瀬トンネルを残して完成し営業を開始。84年に全線開通した。日本海側の敦賀と琵琶湖を結ぶ物流の大動脈となった敦賀線だったが,その後急速に輸送量が増え,最大25度という急勾配をD51の重連が喘ぎ喘ぎ上る「柳ヶ瀬越え」がネックになった。
 1957年(昭和32年),敦賀線の電化とともに深坂トンネル(5,170m)経由の新線が開通してスピード化が図られた。木之本から柳ヶ瀬,刀根を経由して疋田までの“山線”は柳ヶ瀬線として残されたが,1964年(昭和39年)の疋田−敦賀間の複線化に伴い廃線となった。
 新線は木之本の北3kmほどで西にカーブして余呉湖の北を通り,近江塩津で湖西線と合流,深坂トンネルを経て新疋田に向かっている。
敦賀線
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 いま廃線跡はどうなっているのだろう。車で辿ってみることにした。
 木之本の街を貫く北国街道は,すぐに国道365号線に合流する。旧線は拡幅された国道に呑み込まれ,その跡を見ることはほとんどできない。かつては桑畑が多かったという沿線も畑地などに変わっていた。新線と分かれる辺りから国道はほぼ一直線に北上する。
 最初の集落が中之郷。余呉町役場前にある小さな公園が,かつては急行も停車した中之郷駅のプラットホーム跡だった。中央に立つ駅名標がその存在を主張している。
 中之郷から先は両側に山が迫り,やや勾配が急になる。右手に見え隠れしていた北陸自動車道が,押し被さるように密着してきた。約5kmで柳ヶ瀬だ。駅舎跡はバス停になっており,ホーム跡は定かではなかった。
 柳ヶ瀬からは国道と分かれて県道に入る。急勾配が続き,長浜−敦賀間の最高地点(246m)を過ぎると,当時日本最長だった柳ヶ瀬トンネルの入口が見えてくる。
 その脇に石碑があり,「萬世永頼」と書かかれている。「この鉄道が世の為に働いてくれることを永く頼りにする」という意味だという。宰相伊藤博文の筆と記されているが,実はこの石碑はレプリカで,本物は長浜市の長浜鉄道スクエアに保存されていた。
 トンネル入口に信号機があり,交互通行で車が通れる。6分ほど待ってトンネルに進入した。単線用にしても口径が狭い。急勾配のうえにカーブもある。かびの匂いが車内に入り込み,内部はかなりの湿度のようだ。3分ほどで通り抜ける。
 しばらくすると刀根の集落があるはずだが,淡々とした道を行くうちに集落への分岐を見過ごした。スイッチバック駅の刀根駅跡はすぐ上を北陸自動車道が走り,駅舎やホームはパーキングと化している,と後で疋田集落の住人から聞いた。
 刀根からも県道が旧線の多くを浸食しているが,所々に線路の面影を残しているのが見て取れる。敦賀市の指定文化財になっている小刀根トンネルは,少し道からはずれたところにあった。長さは56m。煉瓦と石積みがいい雰囲気の小さなトンネルである。その上には「明治14年」と刻まれた石額があった。日本最古のトンネルの証明だ。小刀根トンネルを出てすぐの笙の川にも橋台らしきものが残っていた。
「萬世永頼」の石碑
明治十四年と書かれた石額
 疋田の集落に入る手前で新線が見えてくる。集落の中心は新疋田駅から800mほど離れた場所にあった。お年寄りに旧駅舎の在りかを尋ねると「あの保育園の場所にプラットホームがあった」という。そこには石積みがはっきりとホームの跡を示していた。その上に建つ愛発(あらち)児童館で園児たちがリズムにあわせて踊っている。旧駅舎は魚屋さんに変わっていた。敦賀方向に目をやると,細い旧線跡が伸びているのがわずかに見える。
 「愛発伝説散歩の会」のメンバーが「疋田の歴史」を編纂していると聞いて,公民館を訪ねた。会長の高橋雅弘さんからは,1898年(明治32年)に敦賀港が政府の特別輸出港として開港したこと,1908年には敦賀−ウラジオストック間に定期航路が開かれたこと,そして1911年,新橋−敦賀間に直通の国際連絡特急列車が走って,シベリア鉄道経由でヨーロッパへの最短コースを導いたこと・・・など,近代化の主役を担い,華やかな脚光を浴びた敦賀線時代もふんだんに盛り込むと聞いた。完成したら送っていただく約束をして公民館を後にする。
 草深い廃線跡を辿り,沿線の人たちと会い・・・。ほんの少しではあったけれど,鉄道草創期の日本で文明開化と経済発展に貢献した先人たちの姿を偲ぶことができた。初の鉄道工事に挑んだ鹿島組の気概と苦労と奮闘ぶりにも触れることができた旅でもあった。
「丸三ハシモト」橋本圭祐さん
 柳ヶ瀬線で60分余りを要した疋田−木之本間も,新線ではわずか16分で帰り着く。帰り道,木之本でただ一軒「琴糸の里」を守る絹糸弦製造元「丸三ハシモト」を訪ねた。
 「丸三ハシモト」は昭和初期に創業され,橋本圭祐さんが3代目を務める。工場は2階建て,延べ450m2ほどの広さである。生糸の選別から製品化までの工程を10数人の職人が仕上げていた。
 「琴糸の命は弾力性。撚ることで弾力がつく。糸の太さの微妙なばらつきが味のある音を醸し出す」と橋本さんはいった。今はナイロンなど合成繊維が主流だが,柔らかな音色は生糸でしか表せないということだ。難題の技術継承も,すでに長男の英宗さんが習得していて安心である。 
 「敦賀へは子供の頃,よく海水浴に行った。トンネルを越えるのが難関で,機関車の煤で顔も着物も真っ黒になったものです。でも鉄道のお蔭で海へも行けた」。橋本さんの柳ヶ瀬線への記憶である。

 鉄道技師として大正期の鹿島組に入社し,鉄道工事の入手に手腕を発揮した経営者に菅野忠五郎がいる。鹿島組が株式会社に組織変更した際に取締役に就き,経営の合理化に尽力したが,その晩年に膨大な『鹿島資料』を執筆した。それには敦賀線工事についてこう記されている。
日本芸能を影から支える匠の技
《鹿島岩蔵氏は,宿望の鉄道請負に参加を許されたので,勇躍現地に乗り込んで,懸命に奮闘したが何分始めての仕事であり,土地には馴れず,結局少なからぬ損失を被った。しかし損益を度外視して誠実に仕事をしたことを認められ,政府から2万円の補助金を下付された。当時の物価は米1石5円22銭,酒1石12円80銭というのであるから,補助金2万円は相当の大金であった》鹿
昭和28年 柳ヶ瀬付近を走るD51
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