鹿島紀行
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第13回 超高層のあけぼの

〜霞が関ビルはいかに造られたか/産業芸術映画の新分野を開拓〜
超高層のあけぼの 《いや味のない,どちらかといえば記録映画ふうのまとめ方だが,・・・話のポイントは,どうやって三十六階の骨組みを完成したか―というところ。話が進むにつれ,なるほどこれはたいへんなことだぞ―ということがだんだんわかってくる。・・・その点,この映画は,ビルが主役というより,科学が主役といった感じがする》
 1969年(昭和44年)5月15日付け大分合同新聞に載った映画評(抜粋)である。

 わが国初の超高層ビル「霞が関ビル」が完成したのは1968年4月のことだった。映画『超高層のあけぼの』は,その翌年5月に東映の配給ルートで,全国158の劇場で封切られた。監督は関川秀雄さん。池部良,木村功,新珠三千代,佐久間良子さんら当時の人気スター多数が出演した。
 製作に当たったのは,1963年に鹿島守之助会長が創設した「日本技術映画社」である。当時すでに映画はテレビに押されて斜陽産業化しつつあったが,守之助会長は映画の持つ力を確信していた。
 「霞が関ビルがいかにして造られたか,いかに多くの知恵と努力と技術がこのビルに結集されたか,それを多くの人に知ってもらいたかった」。そう映画製作の動機を説明しているが,東映社長の大川博さんにもこんな話をしている。  
 「万巻の書を積み,口数多く説明するより,ものを具体的に理解させるには映画が一番早い。鹿島はこういう建設工事をしていますよと説明するには,映画を見せるのがいい」
 守之助会長の映画への思いは,ドイツ大使館勤務時代に触れた革命家レオン・トロッキーの「20世紀には成人は全て映画によって決定的な教育を受けるであろう」という言葉に影響を受けた,と後に自著に記している。
 映画製作への萌芽はもうひとつある。それは戦後間もない頃,米国の大手建設会社モリソン・クヌードセン(MK)が作った2本の記録映画だった。アフガニスタンのダム建設と砂漠を沃野に変える大規模開発事業,そしてスリランカ(セイロン)の総合開発の記録で,「これを何回見たかしれない」というほどに,守之助会長の心を捉えたのである。
 こうして『超高層のあけぼの』は撮影された。記録映画の中に劇映画の色彩を盛り込んだ新しい分野の映画,守之助会長言うところの「産業芸術映画」の第1作でもあった。
霞が関ビルは大東京をパノラマ化した
ブロンズ色に輝く霞が関ビル。超高層ビルの進展と技術革新を見守る
04年12月7日,秋葉原UDXビルの上棟式に臨む角田さん。これが最後の超高層ビルになる
 地上36階,高さ147m。霞が関ビルは1965年3月の着工から33ヵ月という短工期で完成した。しかし映画製作の発表は1968年7月だから,建設の舞台を霞が関ビルで,というわけにはいかない。それで撮影の多くは,前年7月に着工していた東京・浜松町の世界貿易センタービルの建設現場で行われた。
 「超高層こそ次世代のビル」と喝破して霞が関ビル建設を推進した守之助会長は佐野周二さんが演じた。その意図を受け止め,建設を決断した施主の江戸英雄・三井不動産社長は松本幸四郎さん。そして地震国日本で超高層ビル建設を技術的に立証した耐震構造の世界的権威である武藤清・東大教授には中村伸郎さんが務めた。卯女副会長役は三宅邦子さんである。
 建設工事事務所長として建設現場の指揮を執った二階盛さんは当時49歳。ニューヨークで摩天楼を見て「地震に勝ち,マンハッタンに負けない都市づくり」に意欲を燃やしていた頃だった。二階さん役は池部さんが演じ,高子夫人役を新珠さんが務めた。
 鹿島婦人会誌『流れ』7号の座談会にこんなやりとりが載っている。
 守之助会長 「二階所長の役が池部さんに決まり(所長は)喜んでいます」
 二階所長 「私の役が池部さんとは,光栄です。でも私は頭の毛が薄くなってしまったので,池部さんとはまるで世代が違うみたいですね」
 卯女副会長 「二階さんはコンクリートが相手で,池部さんは女優さんが相手。相手が違いますものね」

 実際の撮影では,地上60〜70mの高所での演技を強いられ,池部さんも高所ではコンクリート相手の二階さんのようにはいかず,出演者たちは恐怖との戦いだったという。

 映画完成から32年を経た2001年5月,NHK『プロジェクトX』で霞が関ビル建設に従事した人間のドラマが放映された。その中で18歳で建設チームに加わった若手として登場したのが角田勝馬さんだった。新入社員がいきなり“世紀の大仕事”に巡りあう幸運に恵まれたのだ。
霞が関ビルの上棟式。吊り上げられていく鉄骨を見上げる
東映東京撮影所のセットで記念撮影(前列左が守之助会長と卯女副会長,後列左から2人目の二階さんを挟んで新珠さん,佐久間さん,池部さん)
映画館前では入場を待つ人の列が続いた
映画『超高層のあけぼの』のポスター
鉄骨が組み上がった霞が関ビルを背景にポーズをとる角田さん 霞が関ビルの上棟式の日,最後の鉄骨が引き上げられていく,あの感激を忘れない,と『プロジェクトX』で角田さんは話した。「あれが私の建築人生の原点になったのですから」
 所長の二階さんは遠い存在だったが,慎重にして大胆,チャレンジ精神旺盛で気配り上手。そんな二階さんの人間性に惚れた。「その全てがその後の私の仕事を実践する上で教本になりました」と角田さんはいう。
 『超高層のあけぼの』が放映された年に,角田さんは霞が関ビル工事事務所のマドンナだった和代さんと結婚した。角田さんの建築屋人生にも私生活の面でも,霞が関ビルは特別な存在になった。
 『プロジェクトX』放映のひとつの柱は,霞が関ビル工事仲間の米田圭一郎さんの夫人と角田さんの夫人が姉妹だった,というエピソードにあった。しかし収録の時,角田さんは和代さんの命がそう長くないことを知っていた。画面でちらっと見せた角田さんの涙には,様々な思いが交錯していたのだ。
 放送が終わるのを待ちかねたように,自宅の電話が鳴った。中学の恩師からの手紙も届いた。それから間もなく和代さんは亡くなった。前後して2人の娘は嫁いでいく。
 角田さんは昨年60歳になった。いまは秋葉原クロスフィールドの「秋葉原UDXビル」新築工事事務所長として超高層ビルを建設中だ。池袋サンシャイン60や赤坂プリンスホテルなど超高層ビル建設一筋に,これが15棟目。最後の現場になるという。
 「秋葉原ダイビル」とともに,秋葉原クロスフィールドの中核となるUDXビルは昨年12月,上棟式を迎えた。角田さんは万感の思いで天空に上っていく最後の鉄骨を見上げた。竣工は2006年春。建築屋人生に有終の美を飾る。
 「現場ごとに様々な人との出会いがあった。その積み重ねが私の大きな財産になりました。幸せな建築屋人生だったと思います」と角田さんはいった。
霞が関ビルの上棟式。H型鋼の梁が上がっていく
映画のシーンから
霞が関ビルの模型を前に着工への決意を新たにする
所長宅で現場スタッフと構造設計部員の顔合わせ
工事事務所での打ち合わせ
安全指導をする所長
最上階のデッキプレートに立つ会長ら
上棟式の会場。H型鋼の梁が上がっていく
 冒頭の映画評を書いたのは永松秀敏さんである。執筆当時,大分合同新聞社文化部の映画担当記者だった。「もともと建築に関心はあったのですが,たまたま試写会をみる機会がありましてね。柔構造設計やH型鋼の導入などの話が特に印象に残っている。東映らしくないといったら叱られるかもしれませんが,ドキュメントタッチのいい映画でした」と当時を振り返る。同社文化部長などを歴任して,現在も大分市内に住む。
 武藤さんは60階建ての「サンシャイン60」など数多くの超高層ビルを完成させ「次は100階建て。準備はできている」と,飽くなき情熱を燃やしていたが,1989年亡くなった。
 二階さんは93歳になった。当社副社長や系列会社の社長などを歴任した後,顧問として時折顧問室に出向いていたが,昨年夏の暑さに体調を崩し,しばらくご無沙汰だ。
 守之助会長は1975年12月,79歳で亡くなった。その14日前に当社はドイツ民主共和国(東ドイツ・DDR)で,超高層ビル「DDR国際貿易センタービル」を設計・施工で一括受注した。ドイツは守之助会長がかつて外交官として3年間を過ごし,自らの哲学や思想面でも大きな影響を受けた場所。その建設を熱望したのが守之助会長だった。
 霞が関ビル竣工から10年後の1978年9月,二階さんは「DDR国際貿易センタービル」建設の責任者として開館式の席にいた。
 「日本の超高層ビルの建設技術を駆使して造り上げたビルでした。超高層の日本の曙は日の出を迎え,日盛りになった。立派に世界に通用することをあの時示したのです」と,いま二階さんはいう。

 日本技術映画社はその後「鹿島映画」と名を変え,現在は「カジマビジョン」となった。当社の工事記録のほか,産業や技術の紹介作品,官公庁・民間のPR映画などを製作。さらには日本文化の保存と振興,文化交流に貢献したいとの願いから,数々の文化映画も作った。
 最近ではイベントや展示の企画・制作・運営,クラシック音楽のDVDやCDの制作リリースなども手掛けるほか,WEBサービスなどデジタルメディア分野にも参入し,新しいサービス提供にも挑戦している。
 200万人を動員した映画『超高層のあけぼの』製作の快挙から35年余。カジマビジョンは鹿島出版会とともに鹿島の文化事業推進の中核を担い続ける。鹿島のステータスを高める一つの顔であり,その存在を鹿島の「良心」と評価する声は強い。
 折りしもカジマビジョンは2005年1月,守之助会長が精魂込めて建設した霞が関ビルに居を移す。
 常務取締役の横尾優さんは「原点に立ち返って社業を見つめ直す良い時期。時代の変化と価値観の変遷を見極めつつ,培った映像技術を活用して,新しいメディアへ挑戦するなど,柔軟で鋭敏な対応が必要」と社員の意識改革を求めている。
カジマビジョンの映像編集風景
 超高層ビルはその後飛躍的に数を増し,高さを伸ばした。全国で422棟(昨年度まで)を数え,50階を超えるオフィスビルやマンションは珍しくなくなった。
 霞が関ビルからの眺望は,周りを超高層ビルに囲まれて,37年前とは様変わりした。超高層ビルの著しい進化が実感できる。超高層ビルは日本の都市の風景に溶け込んだ。鹿
超高層ビルは日本の都市の風景に溶け込んだ(新宿副都心の超高層ビル群)