特集:阪神・淡路大震災から10年

大震災から10年,賑わいを見せる神戸の表情。赤い橋は神戸大橋,中央の建物は神戸交通センタービル

1995年1月に発生した阪神・淡路大震災から丸10年。
この節目の年に,大地震への備えを問い直す動きが活発化している。
多くの教訓をもたらした阪神・淡路大震災。
図らずも昨年10月に発生した新潟県中越地震では,その教訓は活かされたのか。
大地震による被害を最小限に食い止めるための最優先の課題とは何か。
そして当社の果たすべき役割は何かを探る。
 1995年1月17日未明,兵庫県淡路島の北部を震源としたマグニチュード7.3の直下型地震,阪神・淡路大震災が発生してから10年が経った。この大地震は多くの尊い人命を奪い,都市機能を麻痺させ,未曾有の被害をもたらした一方で,その後の地震動研究や制震・免震技術などの先端技術の開発にも大きな弾みをつけた。
 昨年10月23日に突如として新潟県を襲った直下型の新潟県中越地震は,発生が予想されていなかった「空白地域」での防災体制や復旧活動のあり方に大きな課題を残した。東海地方,南関東地方で直下型の地震が発生する確率が高いと言われていたため,豪雪地帯での予期せぬ大地震の発生に,行政も多くの被災者もただ戸惑うばかりだった。
 人口密集地での地震ではなく,豪雪地帯の頑丈な造りの住宅が地震にも強かったことがせめてもの救いだった。
 「地震は必ず来る」。私達はこの命題を忘れることなく,常に謙虚に自然災害に向き合わなければならない。この10年を振り返り,日本列島のどこでも起こり得る大地震を想定し,取り組むべき最優先の課題は何かを問い直してみたい。

阪神・淡路大震災を振り返る
阪神・淡路大震災から10年。
神戸を中心にした被災地は見事に復興を果たした。
復旧作業の陣頭指揮をとった鹿島の社員5人が集まり,当時を振り返った。
interview
出席者
(括弧内は当時の役職)
住吉正信(すみよし まさのぶ)  
取締役 関西支店副支店長(大阪支店土木部工務第一課長)
勝部安之(かつべ やすゆき) 
関西支店副支店長(大阪支店神戸営業所副所長)
山本啓幸(やまもと よしゆき)  
関西支店大阪営業所狭山処理場JV工事事務所長
(大阪支店柴島浄水場JV工事事務所次長,後の神戸営業所神戸大橋工事事務所長)
高田巧也(たかだ たくや)  
関西支店建築部建築工事管理部長(大阪支店建築部建築工事管理部工事課長)
畑尾敏夫(はたお としお) 
関西支店建築部建築工事部長
(大阪支店神戸営業所神戸建築統括出張所さんちか工事事務所長)
インタビュアー:KAJIMA編集部
大地震直後の行動について

勝部|当時は神戸営業所副所長として営業と事務全体の統括にあたり,まず他支店からの応援社員の宿泊や食料調達,交通手段の確保,特に自転車とバイクの調達と管理を担当しました。地震直後はなかなか営業対応はできず,社員を必要な場所へ派遣する指示を下すことに忙しかった。
 次に安否確認です。本社からも得意先の安否確認や知人の安否確認の依頼が多かった。人が不足し,交通手段がないので,本当に重要なものだけを選択しないと対応できない。現地にいる者としては対応に苦慮しました。
住吉|私は支店の土木部工務課長の職にありました。地震当日は鉄道はストップしており,昼過ぎにやっと支店に着くことができました。出社後は社員の安否確認と得意先の被災状況確認を始め,社員を現地へ向かわせましたが,一旦向かうと交通渋滞などで夜半まで帰れず,なかなか連絡がとれませんでした。結局社員全員の安否確認に3日かかりました。復旧対応としては,連日深夜に至るまで,まず壊れたものを撤去し,それ以上壊れないように安定させる仕事に着手しました。
山本|私は自分自身が被災者です。地震当日は兵庫県東部宝塚市の自宅で5時45分に起き,ベッドの上に立った途端強い揺れが来た。家が揺れて,上からバックホウで押さえつけられたという感じでした。家は半壊で済みましたが・・・。夕方,ようやく現場と支店と連絡が取れ,大阪より神戸の被害が大きいという情報を知りました。支店の土木部工事部長の指示でバイクで走り回りながら情報収集を行う一方,大きな被害を受けた阪急電鉄の復旧工事のために事務所の用地探しをした記憶があります。
高田|私は支店の工事管理部工事課長の職にありました。自宅は大阪市の北の豊中市にある新築マンションだったので,被害は大きくありませんでしたが,かなりの揺れを感じました。出社しようとしましたが,阪急電鉄が動いていない。やっと電話で連絡が取れた上司から神戸へ行くようにとの指示があり,着替えなどを積んで車で出発しました。道路が各所で寸断され,神戸に到着するまでは苦労しました。比較的被害の少ない六甲山の裏側から神戸トンネルに入り,トンネルを抜けた途端に大きなビルが倒壊している光景を見た時は愕然としました。
畑尾|私は神戸の中心にある三宮地下街(通称:さんちか)改修工事の初代所長でした。震災当日,兵庫県中央部の加西市の自宅から出勤しようとしましたが,電車の開通の目途は全く立っていない。そこで車で東へ向かいました。明石市では屋根瓦が落ちている。須磨区では塀が倒れている。長田区では火災が発生している。三宮へ到着すると道路がうねっている。やっと自分の現場へ着くと,現場の真上の神戸交通センタービルの途中が破壊されていた。途方に暮れる思いで現場を所管する神戸建築統括出張所へ行きました。
住吉正信
当社社員の初動対応について

住吉|社内の体制ですが,本社の震災対策本部や支店の対策本部は震災当日の1月17日に設立されています。社長と担当重役は翌18日に現地に入りました。迅速に全社的な支援体制ができ,関西支店に全国から200人以上の応援部隊が派遣された。様々なセクションの応援社員が来てくれてありがたかった。初動対応は非常にうまくいったという印象があります。
 昼夜問わずに復旧作業にあたり,夜の12時頃から翌日の打合わせをします。1時頃に打合わせが終わり,帰宅するという毎日が続きました。厳寒期にもかかわらず社員は風邪もひかずにへばらなかった。過酷な状況下での勤務の割には気合いと緊張感でパワーが出るものだということを実感しました。
高田|「気合い」という言葉が出ましたが,全員が「やらなければ」という使命感に燃えていました。私は震災翌日から,神戸商工貿易センタービルの前にあった神戸建築統括出張所の仮設ハウスを拠点に復旧活動にあたりました。老朽化したハウスでしたが,集まってきた社員の熱気が充満している事務所でした。また,他支店からの応援社員が非常に頑張ってくれた。派遣元の支店の方々も強力にバックアップしてくれました。
勝部|そのとおりですね。現地対策本部を神戸建築統括出張所の仮設ハウスに設置し,敷地を資材置場として活用できたことはラッキーでした。ここをひとつの拠点にして復旧活動を機動的に展開することができましたから。社員の頑張りに報いるために,健康管理にも配慮しました。本社健康管理センターのスタッフも派遣され,非常に心強かった。
畑尾|私は主に客先対応を行い,建物の被害状況や,困っていることはないかヒアリングしました。この客先対応は当社が非常に早かった。ある建物の高架水槽に水が全くない。そこでポリタンクを大量に購入して,水を入れて人力で3階建ての屋上へ行って水を汲むようなこともやりました。震災直後は,地図に過去の当社施工の建物をマーキングし,社員を順番にマーキングした建物にチェックに向かわせました。
 私の工事事務所のあったビルからは次々にテナントが出ていきました。そこに仮眠室や風呂等を設置し,三宮近辺における対策本部の出先の拠点にしました。復旧作業は粉塵の中での昼夜作業ですから,社員の健康管理には相当気を使いました。

地震の被害を目の当たりにした感想は

住吉|震災翌日に神戸港に行き,被害状況を見て回りました。これまで破壊試験などで構造物が壊れることの大体のイメージはありましたが,現場を目の当たりにしての第一印象は想像を絶するものでした。構造物に途方もない力を加えないと不可能な,およそ考えられない壊れ方をしていました。一人の技術屋として本当に悲しい思いがしました。
山本|私も同感でした。当時私は大阪市水道局の柴島浄水場工事を担当していたので,復旧のため神戸へ乗り込んだのは4月になってからですが,我々が土木技術者として理解しているイメージを遥かに超えている。特に阪神高速道路の高架橋が倒壊した姿がセンセーショナルに報道されましたが,あの倒れ方は信じられず,ただ驚愕するばかりでした。
勝部安之
物資の調達や情報の収集について

勝部|食料の調達については,本社と他支店の多大な協力もありましたが,一番助かったのは,船を確保できたことです。大阪からの海路があったから食料等物資の調達が可能になりました。そのおかげで,速やかに体制を整え,今度は営業対応に切り替えていくことが出来ました。
住吉|ご指摘の通り当時は船が大活躍しました。物資調達は最初はスムーズに行きますが,2回目の調達がなかなかできない。最初に余分に調達しておけば,後で困らないという教訓を得ました。当初は大型の観光バスを搬入し,宿泊所代わりに使いました。また,飲料水は確保できますが,風呂水等の生活用水が不足し非常に困りました。
 情報の伝達手段としては,公衆電話と無線のネットワークを活用しました。これからも無線と衛星電話は是非とも必要です。情報収集の面では,最初の半月は被害状況の全体像を把握できず,当社がいち早く調査報告書「兵庫県南部地震被害調査報告書・速報」を刊行したことは,得意先からも高い評価を得ましたし,我々もありがたかったですね。
高田|私は統括出張所の中で仕事の割り振りや支店と情報交換をする立場にいました。応援社員がフル稼動できる環境を早く整えようと,最初に取り組んだのは風呂の調達でした。3日目頃にやっと小さな風呂が一つだけ確保できましたが,トイレが十分に手配できずに苦労しました。既に指摘されましたが,拠点となる事務所と物資,バイクなどを集積できる敷地があったことは復旧活動を進める上で大きなメリットとなりました。こうした拠点となる場所を設定しておくことは不可欠です。但し,集積した物資を効率良く捌くシステムが不備で,必要なところにどう分配するかという情報が得られなかった。ひとつの反省点でした。

神戸市の神戸大橋復旧工事と神戸交通センタービルの復旧工事について

山本|神戸大橋は貿易センタービルの真正面にある人工島・ポートアイランドに通じる橋ですが,橋の前後の高架橋復旧工事を4月から約2年間,24時間体制で担当しました。日頃体験できない工法・技術に接することが出来ました。 
 工事場所が狭隘なことが一番厳しかった。神戸港に突き出た幅の狭い突堤の上で,破壊されたRCの橋脚の解体撤去を行うのですが,大型重機が現場に入れないため,昭和20〜30年代に人力でやっていたような技術が役に立ちました。今は大型のクレーン車を使用することが当たり前ですが,それが使えない状況はいくらでもあります。この工事ではジャッキを利用するK-HABB(KAJIMA-HANG and BREAK BOTTOM)工法を開発しました。圧壊した橋脚の撤去用の架台・ジャッキ設備を構築し,センターホールジャッキで橋脚を吊り上げ,橋脚底部から橋脚ブロックを切断・撤去(所謂「だるま落とし」)し,橋脚をジャッキダウンし,再び底部から切断・撤去を繰り返すという工法です。大型のクレーンでは橋脚を撤去できないことの逆転の発想でした。
住吉|この橋は当社の元施工ではありませんが,技術研究所や土木設計本部等のスタッフの協力もあり,客先である神戸市港湾整備局の信頼を全面的に得て,全線を調査し,全長2,400mの復旧対策工事を設計・施工で担当させてもらいました。謙虚かつ積極的な姿勢で技術的な調査や復旧方法の検討を行ったことが設計・施工につながりました。
山本|ポートアイランドは神戸市の心臓部です。そこへのアクセスは神戸大橋だけなので,我々にも大きなプレッシャーがありました。1日違いで経済的効果が100億円ぐらい違うのですから1日も早く復旧したかった。メンバーの士気も高く,担当した者として技術者冥利に尽きる思いでした。
畑尾|神戸交通センタービルの復旧工事には私も計画の一部に参画しました。元の建物はSRC造で,内部にはアングル材で組み立てた鉄骨が入っています。その建物の1階部分を残して破壊された既存の建物を解体し,その上に新たにS造の建物を建てることになりました。隣接してJR神戸線が走っており,東西南北には一般道路がありますし,直下は歩行者通路がありました。悪条件下,事故もなく何とか切り抜けました。担当された所長さんは大変苦労されたと思います。
高田|地震で破壊されて不安定なビルを解体するわけで非常に苦労したと思います。建物を建て替える時は,正常に建っている建物を壊すわけですが,交通センタービルは上半分が破壊し,JR側に傾いていました。床に立っていてもJR側に倒れるのかと思うような建物を解体する。担当された所長さんは寿命が縮まる思いをしたと思います。
住吉|当時のメンバーは異常な事態での撤去・復旧工事を身をもって体験しているので,今後の大地震の復旧にはいつでも支援していく覚悟はあります。
山本啓幸 高田巧也
日頃から考えるべき地震への対策は

住吉|家が壊れてしまったら別ですが,当社の社員でも家の中では間一髪の方が多かった。箪笥を固定し,食器棚の扉を引き戸にするとか,10年という節目の機会に防災グッズや食料品等の備えと併せて,家の中で身近にできる補強をしたらどうでしょう。
高田|震災直後は,皆さん声高に語っていましたが,今では忘れてしまっているようですね。
住吉|それから大震災ではボランティアの支援がすごかった。日本のボランティア活動が本格化したのはこれからではないでしょうか。最近の水害や新潟県中越地震でも,ボランティアによる支援が不可欠なものとなっています。
 実は,震災後に生活基盤を復旧することは建設会社の得意分野です。ダム現場のような辺鄙な所で仮設事務所を建て,水・電気を供給する。日頃からそれを俊敏にできるような習性ができているから,このサイクルを早くし,備えを厚くすれば,より的確な復旧活動ができると思います。
山本|ご指摘のとおり,建設会社は自給自足の訓練ができているから,体制を早く立ち上げて復旧に取りかかれました。当社では震災対策本部の立ち上げが早く,社員から集まった情報を適切にコントロールして組織がうまく機能したといえます。昨年の中越地震では人的な被害は比較的少なかったわけですが,復旧のためには,情報管理や指揮命令系統をしっかりと確立し,二次災害への対応,被災者の心のケアにも取り組む必要があると思います。
高田|今,指揮命令系統の確立についてのご指摘がありましたが,当時は本社と支店からの権限委譲が速やかに行われました。そのため現地スタッフは自分の判断に基づいて迅速に行動できました。対応の早さの原動力にはエンジニアとしての誇りもありましたが,むしろ鹿島の社員としての誇りがあったと思いますね。
勝部|縁の下で復旧活動にあたったのは我々ゼネコンでした。もう少しゼネコンの活動を世間に認識してもらいたいという想いはありますね。また,建設会社としての観点から考えるべきことは,貿易センタービルなど被害が少ない建物があるわけです。なぜ壊れなかったかという研究をする必要があると思います。あのビルは当時でも築25年程の旧耐震基準に基づく建物ですから。
鹿島の社員5人が集まり,当時を振り返った。
住吉|大震災以来,全国で耐震補強工事に取り組んでいます。土木では大震災の被害を教訓に,基本的には構造物が多少変形し傾くことがあっても,その構造物に要求されている機能を損なうことのないように耐震補強工事を行っています。今あのクラスの地震が起きても,当時ほど構造物が壊れ,機能が損なわれる可能性は相当減ったと思います。
山本|過去の災害経験者の声を語り継ぐことは是非必要です。今後大地震が起きた場合に,過去の経験が活かされるような検証のシステムをしっかりと構築しなければなりません。
 最近,地震発生時の具体的な被害状況を示したハザードマップ(災害予測図)が話題を集めていますが,これは非常に役に立つと思います。技術研究所等では独自にハザードマップを作成する能力がありますから,これをツールとして広報的な活動をすることは当社として良いピーアールになると思います。水害の際に降雨によって堤防の水位がどう変化し,どこへ水が流れていくか予測するのは土木技術の範疇ですから。技術研究所ではコンピュータを駆使した河川のハザードマップを作成出来ますが,学会や国土交通省等と連携を取り,大都市のハザードマップを作成しておくことはひとつの警鐘になると思います。
住吉|災害への心構えは,発生時にとにかく自分の命を守ることを普段から心掛けること,そして周りの設備に配慮することが一番です。復旧はそれからのことです。
山本|月並みですが「備えあれば憂いなし」。自分の身は自分で守るということです。命を落としてしまったら何にもなりません。
畑尾|中越地震後,耐震診断が増えたような気がしますが,建物を災害から守ることは人命を守ることであり,もっと診断して耐震化が進むよう考えてほしいと思います。
畑尾敏夫
神戸市
新潟県中越地震に活きた鹿島の先端技術
 昨年10月23日の夕刻発生した新潟県中越地震はマグニチュード6.8,震度7を記録した典型的な内陸直下型地震である。
 しかし,地震の規模に対して建物被害が少なかった。新聞報道では,全半壊戸数は1%にも満たず,阪神・淡路大震災の3割程度と比較すると,ケタ違いに低い。
 地震波の周期は阪神・淡路大震災の1.5〜2秒に比べ,建物への被害が比較的小さいとされる1秒以下の地域が多かった。地震波の周期が短かったことが幸いした。さらに豪雪地帯の家屋は屋根が軽く,基礎・柱等が比較的頑丈な造りのため,被害が最小限に抑えられたとも指摘されている。「積雪に強い建物は地震にも強い」。
 一方で,当社施工の制震・免震の建物は今回の地震に対して大きな効果があったことが実証された。
北陸学園総合本館
 阪神・淡路大震災の教訓を受け,長岡市内に1997年に竣工したこの学校には,学校施設としては全国で初めて当社の免震構造が採用された。建物の各柱下と基礎との間に免震装置「高減衰積層ゴム」を取り付け,地震時の建物の横揺れを3分の1から5分の1程度に抑えることができる。地上37.5m,RC造8階,塔屋1階の建物は,内部の教育研究機器の損傷も皆無で,優れた免震の効果が発揮された。
 北陸学園の加藤聰介理事長は「震度6の直下型地震でも,学園内の精密機器,大型機器の転倒・落下もなく,業務に支障を来たすことなく速やかに復旧することが出来た。免震装置の効果は想像以上だった。200名の寮生を総合本館に緊急避難させ,3日間宿泊させたが,ここなら安心であり,余震の時もほとんど揺れを感じなかった」と語る。
北陸学園総合本館
積層ゴム
免震装置の効果を語る北陸学園の加藤理事長
積層ゴムの模式図
北陸学園総合本館最大加速度分布
万代島ビル
 今回の地震で震度5を記録した新潟市には,北陸初の制震構造を採用した朱鷺メッセの万代島ビルが2003年3月に竣工している。SRC造,地上31階,地下1階,最高高さ140.5mの日本海側最高を誇る高層ビルは,ホテル,オフィス,美術館並びに展望施設で構成する5万3,000m2の複合施設である。当社が開発したパッシブオイルダンパHiDAMとこれに制御弁やセンサーを組み込んだセミアクティブオイルダンパHiDAXが設置された。
 短辺方向に設置された72台のHiDAXと長辺方向に設置された40台のHiDAMが大きな振動低減効果を発揮した。
 ビル上層部のホテル日航新潟関係者から「強い揺れは感じられず,お客様に安心して宿泊していただくことができた」との声が当社に寄せられた。

村上市庁舎
 新潟県の東北部に位置する村上市の市庁舎は,1999年から2001年にかけて移転・引越を伴わない「居ながら」免震改修が当社施工で行われた。免震装置には北陸学園と同様の「高減衰積層ゴム」と「すべり支承」を併用した。
 今回の地震では村上市の震度は3。震度7の地震にも耐える市庁舎の免震装置の効果が試されることはなかったが,余震が長期化する中で市庁舎職員の安心感の醸成には一定の役割を果たした。
万代島ビル
パッシブオイルダンパ HiDAM
セミアクティブオイルダンパ HiDAX
避難所となる施設の改修
 地震の発生時には学校,体育館,市庁舎,病院等が住民の避難所や防災拠点として使用されることが多い。しかし,こうした公共施設の耐震性に問題があると繰り返し指摘されている。
 2004年4月に文部科学省がまとめた公立の小・中学校の耐震化改修状況調査によると,現行の耐震基準を満たしている施設は全国で13万1,819棟のうち6万4,751棟(49.1%)と5割に満たず,耐震診断すら実施していない施設は4万6,366棟にのぼる。新潟県の公立小中学校のうち現行の耐震基準を満たしている施設は,42.0%と全国平均を下回る状況だった。
 学校施設の耐震化を妨げている要因は第1に財政状況の悪化の中で,施設整備計画が延期されていること,第2に少子化や過疎化の影響で施設の統廃合計画があることとされている。
 予算の制約はあるが,必要な施設に必要な耐震補強工事を効率良く実施することは急務だ。当社としては,新規施工の建物への免震・制震工法の採用を積極的にアピールし,避難所ともなる既存の公共施設の耐震診断・改修工事にこれまで以上に協力していくことが必要である。
村上市庁舎
1階柱頭部に設置された積層ゴム
防災から減災へ
「揺れずに壊れない建物を」つくること
 阪神・淡路大震災では住宅の倒壊による圧死・窒息は死因のトップだった。しかし,たとえ住宅が倒壊しなくても所謂「インテリア災害」と呼ばれる家具や電化製品の転倒・落下による被害は免れない。阪神・淡路大震災では負傷者の約半数がインテリア災害によるものだったと言われている。
 地震のトータル・エンジニアリングを提唱する当社が提供できる技術は幅広い。その中でも広く普及することが急がれるのは,建物の揺れを抑える「制震・免震」関連の技術ではないか。
 災害対策の現場で最近「減災」という言葉を耳にするようになった。地震の被害を100%防ぐことは不可能である。限りある資源をいかにして効率的に配分すれば被害を最小限に減らすことが可能か,という現実的な認識に立った発想である。
 減災のための最優先の課題は何か。それは単純ではあるが「頑丈で壊れない建物」さらに「揺れずに壊れない建物」をつくることである。

戸建免震(シンドCUT)
  当社が開発し,関連会社のテクノウェーブが商品化した戸建免震装置・シンドCUTはボールベアリング支承とオイルダンパが組み合わされたシンプルな免震装置。今年度は既に約150棟分が販売済みとなっているが,中越地震以来,ホームページ上で300件を超える問合せが寄せられている。震度7クラスの地震の揺れを震度4程度まで低減出来る。
シンドCUT・ボールベアリング部の模型
鹿島の戸建免震システムのURL
https://www.kajima.co.jp/tech/kodate_menshin/index-j.html
制震技術
 当社は数多くの制震技術を開発・実用化した。建物の上に乗せた「おもり」を駆動して揺れを抑えるDUOXなどのアクティブ制震装置。建物に組み込まれたハニカムダンパ等の装置が揺れを吸収するHDS,HiDAMなどのパッシブ制震装置。アクティブとパッシブの双方の長所を兼ね備えた超高層ビル向けの次世代型制震装置 HiDAXが代表例である。HiDAXには更に低コストタイプが加わり,充実したラインナップが揃っている。

耐震診断・耐震補強
 既存の建物の耐震性を診断することは減災の第一歩と言っていい。診断の結果によって,当社は一般的な耐震補強,制震補強,さらには免震補強まで,建物の規模,構造,用途別に地震に備えた最適な技術のメニューを提供できる。
耐震補強にも使用されるハニカムダンパ
 阪神・淡路大震災の発生を機に,「地震に強いまちづくり」は繰り返し叫ばれてきた。「地震に強いまちづくり」の基盤になるのは「頑丈で壊れない建物」「揺れずに壊れない建物」をつくることである。今後の大地震の発生を前に,公共施設と一般市民の住宅を「壊れない・揺れない建物」にする取組みが急がれる。
制震装置の一つDUOX
地震災害の低減を目指して小堀鐸二
小堀鐸二 当社最高技術顧問(京都大学名誉教授)

 阪神・淡路大震災から10年を迎えたが,折しも何の前触れもなく又しても大地震が新潟県の山間部を急襲した。多くの人命と財産が奪われ,群発地震かと思われる程に相次いで強い余震が発生し,被災者の心情を脅かした。阪神の都市型の災害とは趣を異にした被害の様相に,私たちは右往左往させられた。
 10年前の阪神・淡路大震災が残した最も重い教訓のひとつは,犠牲者の8割もが脆弱で古い建物の瞬時の倒壊が原因だったことである。それと同時に倒壊に至らなくても,建物内の家具や什器,テレビやコンピュータなど生活関連機器の転倒に加えて,火災発生やライフラインの機能停止といった事態を引き起こした。私たちの生活様式が変化したことにもよるが,こうしたすさまじい被害を軽減するには,まず一次災害を防ぐこと,つまりは建物が激しく揺れないようにすることである。
 私が年来無念に思うことは,60年代から暖めていた制震構造の発想をもっと早くからピーアールし,技術開発を推進しておくべきであったということである。阪神・淡路大震災には結果において全く間に合わなかった。建物としては壊れなかった病院でも,病院としての内部機能を失って,直後の救急医療に支障をきたしたという深刻な事態が多くみられたのである。
 阪神・淡路大震災直後の95年12月に施行された「建築物の耐震改修の促進に関する法律」は,既存の建物に耐震改修を奨励・推進することが盛り込まれていたが,罰則のない努力規定にとどまったため,81年以前の耐震基準で建てられた建物(既存不適格建築)の多くは,耐震補強はもとより耐震診断すら受けないままに放置されることになった。
 先頃文部科学省がまとめた全国調査によると,地震発生時に避難施設となる小・中学校の体育館や校舎の耐震比率が49.1%と半数に届かなかった。公民館など公的建造物や医療施設はそれをやや上回る程度である。住宅についても既存不適格建築は国土交通省の推計では1,400万戸に上るという現状が明らかになった。このままでは地震列島日本のどこかで大地震が起これば,阪神・淡路大震災の教訓が活かされず,同じような被害が出てしまう恐れがある。そうした中で中越地震が起きた。
 建築構造の性能設計にかかわる耐震・免震・制震など地震工学の最先端技術の研究は,わが国が世界で最も進んでいる。とりわけ当社の要素技術開発テーマの約6割がこうした耐震・制震関連技術で占められるほどである。オフィスビルや官庁舎,百貨店,集合住宅,民家などを対象にした多彩な耐震補強工法を開発,実用化してきている。
 中越地震でも免震,制震技術を施した学校やビルなどで,その効果は立証された。だが折角の技術も,社会に採用されて広く市民がその恩恵に浴することがなければ,無為に均しいであろう。
 私はこうした現状を打開するひとつの試みとして,国や地方自治体レベルの防災会議に一般市民が参加する「コンセンサス会議」を提唱したことがある。市民の多くが防災や耐震補強を自らの問題として捉えていない現状を鑑みて,敢えて防災会議に市民自らが参加することを求めたことがある。
 地震予知に殆ど期待が持てない以上,専門家や自治体任せではなく,自分の家の周辺は自分達で守るという意識が何よりも必要と考えるからである。提唱はまだ具現化されてはいないが,私はこの会議が不適格な建築の耐震診断・補強の実施はもちろん,地域防災の「備え」を一段と強固なものにすると,いまも確信している。
 地震は実のところいつやって来るか分からない。それは突然やって来て人々を一瞬にして奈落の底に突き落とす。これは非条理の世界そのものである。日本人は大昔からそうした悲劇の繰り返しを甘受してきた。これからはそれを天災と諦めてしまわない強靭な災害観をもつことが求められている。その上で自らが地震災害を防ぐ手立てを構築しなければならない。そのための制震という先進技術に裏打ちされた工学的手法が生み出された。「家自らの仕組みが自らを守る」という制震の思想とそれは合致するのである。