特集:創業170年記念 鹿島紀行特集
第4話 鹿島精一記念展望台 〜岩山から見た故郷の景色〜
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風土計
 冒頭の囲み記事は,2008年2月10日付「岩手日報」のコラム「風土計」に掲載された。筆者は宮沢徳雄論説委員長。盛岡生まれ,常務取締役を兼ねる在籍40年のコラムニストである。
 宮沢さんの自宅は盛岡の景勝地岩山の麓にある。その頂に建つ鹿島精一記念展望台にスポットライトを当ててくださった。「市民の記憶から忘れられかけている故郷の実業家を,改めて紹介したいという気持ちがあった」という。
 この展望台は,精一の長女卯女と結婚した鹿島守之助会長(当時)が,精一の愛した故郷に記念になるものをと発案。1962年に当社が建設し,盛岡市に寄贈した。
鹿島精一記念展望台からの眺め。盛岡市街と岩手山が一望できる。岩手山は別名岩鷲山。春先の雪形が山頂で鷲が翼を広げた形になるからという(岩手日報社提供)
展望台階段の踊場にある精一の胸像 宮沢さんはコラムを執筆するに当たって,岩手日報社が1987年に出版した『岩手の先人100人』記載の鹿島精一の項を読んだ。「その中で気になる言葉がありました」。それは『用なき者に用あり』。当社広報室に問い合わせ,送られてきた『鹿島精一追懐録』のコピーで確認した。
 《いまは直接関係の薄い人かもしれないが,身内や知人に重要な人がいないとも限らない。いつか巡りめぐって自分や仕事に関わる人になるかもしれない。丁寧に接していれば,それが思わぬ方向に広がることもある》
 精一は,岩蔵から受け継いだこの言葉を信条とし,折りに触れ従業員らに説いたという。「どの時代にも適用でき,教訓になる言葉だと実感しました」と宮沢さん。「いつかコラムで取り上げてみたい」とも話してくれた。
鹿島精一記念展望台

 鹿島組2代目組長を務めた鹿島精一と盛岡との縁,そしてその後の活躍は「風土計」に記述された通りである。
 多忙な日々を送る精一だったが,常に故郷盛岡の風土を愛し続けた。在京の岩手県人会を支援し,向学心に燃える故郷の若者に奨学金を支給した。雑誌『新岩手人』のスポンサーとなって,刊行を支えたりもしている。
 精一は「情に厚い人」といわれる。当社東北支店副支店長を務めた昆清介さん(現・鹿島道路東北支店技師長)によると,「それは,気丈だが世話好きな母と,出淵家の温かな環境の中で培われた」という。盛岡は人情味豊かで,子弟の教育に熱心な土地柄でもある。精一の故郷への思いもそうした中で育まれたのでは,と昆さんは推測してみるのだ。

 盛岡駅の西にある「盛岡市先人記念館」にも精一は顕彰されている。盛岡ゆかりの先人130人の遺品や資料を展示して,その業績を紹介している。新渡戸稲造,米内光政,金田一京助,宮沢賢治らが精一の故郷の仲間だ。2階展示室の中央に130人の肖像のレリーフがピラミッド状に立つ。出淵家で精一とともに育った出淵勝次(元駐米大使)の名もあった。
 記念館は1987年に,盛岡市制100周年を記念して開館した。当社施工で,RC造2階建て延べ3,590m2。開館3周年には「鹿島精一展」を開催している。

 宮沢さんのコラムに誘われて,岩山の展望台を訪ねた。円盤のような形をした展望台の上からは,盛岡市街地や岩手山,姫神山・早池峰山の北上山系まで一望できる。精一の見た故郷の景色は,時代とともに変貌を遂げながらも,穏やかな風土は変わっていない。鹿

盛岡市先人記念館 盛岡市先人記念館2階にある130人のレリーフ
帝大時代の精一(前列右から2人目)

 第1話 恵比島駅
 第2話 登呂遺跡

 第3話 明善と岩蔵
 第4話 鹿島精一記念展望台
 第5話 赤穂と吉良