特集:代官山再開発・インタビュー

代官山アパートの建替え

代官山地区市街地再開発組合理事長 谷口壮一郎さん

谷口壮一郎さん  私がこちらに住み始めたのは昭和40年24歳のときからです。当時は今と違って子供もたくさんいて賑やかでした。中に保育園まであったんです。周りの街は昔からの肉屋・酒屋・米屋さんくらいしかなかった。今みたいにアパレルとかカフェとかがたくさんあるわけではなく,閑静な住宅街という感じでした。

  その頃から樹木の管理は問題でした。町会費を積み立てては業者に間伐をお願いするのですが,どこ切ったかわからないくらいにしかならない。日当たりは悪くなるし風も通らない。たまりかねて高所作業車借りてきて自分で切ったりしました。近所のおばちゃん達が切り落とした枝を束ねたり手伝ってくれましたが大変な労働でした。緑溢れる雰囲気はよかったかもしれません。夏は仕事から帰ってきてこの中に入るとヒヤっとして,それはほっとしましたよ。外来者はこのうっそうとした雰囲気がよくて遊びにきてたんでしょうね。

 住宅は平均10坪くらいで,なかには6畳一間トイレ共同なんてのもありました。狭くて住みにくかったものですから,払い下げをうけた昭和28年直後から増改築が始まっていたようです。暮らしやすいように勝手に建て増ししたんですね。集合住宅という意識はなく,みんな戸建感覚で住んでました。自分の庭先につくるなら問題無いだろうという感じでね。一番の問題はお風呂でしたが,台所を増築する例も多かったですね。

 昭和53年頃から建替えの話が出てました。老朽化が目立ってきたんです。水道代が高くなったので調べたら小さな穴から水が吹き出している。そこを留めるとしばらくしてまたどこからか水が吹き出す。私は電気工事屋なのでそんなのをみつけてはハンダ付けしてたからよく覚えてます。だんだん手がつけられなくなってきました。町会の年末警戒のときに,皆さんが建替えをどう考えているかアンケートをとる話が出たんです。そうしたら70%くらいの回答があり問題意識の高いことがわかりました。結果,町会の役員が中心になって昭和55年に「再開発を考える会」ができました。中には設計事務所の方もおられ尽力されて58年に正式に再開発準備組合ができました。結局町会が母体でしたので居住者が中心に動きました。

 そこから先は素人だけでは進まないので事業協力者としてデベロッパーを募りました。はじめ6社でしたが,どこが牽引するのかが明確でなかった。内々ではああだこうだとやっていた様子ですが,今どうなってるか我々にはさっぱりわからなかった。それから数年はぜんぜん進展しませんでした。そのうちバブルが崩壊してデベが次々に抜け平成4年には鹿島・大成の2社になった。なかばあきらめかけていた時,東京電力の変電所が入ることに決まって動き出したわけです。これでいけると思いました。それにしても途中段階ではやきもきしました。お互い事業パートナーなんだから情報は逐次知らせて欲しいと要望したり,やる気あるのかと問いただしたり...。我々はかけがえのない財産を託すわけですからね。

 今から思うと他のデべがやっていたら,こんな感じの街はつくれなかったでしょう。自分たちの街という実感が持てて近隣にも受け入れられるものなんてね。これは普通のデベロッパーではできないですよ。時間も金もかかる公共事業みたいなものですから。

 私は長年付き合ってきた鹿島の方々にある種の印象をもっています。我々素人にもきちんと話をするというか誠実に丁寧に応対する。それは一貫していましたね。若い社員の方もみんなそうでした。工事現場の五十嵐所長もそうです。社風なんでしょうか。大切にしていただきたいと思います。

   来年夏には工事が完了し新しい街ができます。私は昔あったコミュニティが完全なものとは思っていないんです。いいところもあったけれど,やはり新しい人たちに期待しますね。開かれた感じで誰とでも挨拶ができ,コミュニケーションも活発でいろいろ話ができる,そんな街にしたいと思っています。挨拶ひとつで気持ちいい住みやすい街になるのならこんなにたやすいことはないでしょう。


着工前空撮
1996年着工前の代官山アパート



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