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鹿島紀行 女川群像─復興を支える人の絆 女川町震災復興事業

「女川は流れたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ
人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」

宮城県女川町の情報紙「女川ガイド」に載った小学生の詩である。

女川町中心市街地。来年3月21日の「まちびらき」とJR石巻線女川駅の完成に向けて,造成工事が急ピッチで進む。茶色一色が広がる風景の中で,小高い丘の中腹に並ぶパステルカラーの建物群が,遅い三陸の春に彩を添えている。

トレーラーハウスの宿泊村「El faro(エルファロ)」は,2012年12月,東日本大震災で被災した4人の旅館経営者が共同でつくり上げた。「震災後,工事関係者やボランティアは,仙台などから片道2時間近くをかけてまちに通っていました。これでは復興のスピードは上がらない。仮設住宅で暮らす家族や友人を訪ねる人のためにも,宿泊施設が必要だったのです」。そう話す佐々木里子さんが「エルファロ」の女村長,正式には女川町宿泊村協同組合理事長だ。

まちの8割が壊滅し,平地のほとんどに建築制限が掛けられて用地確保が困難だったため,「建設」ではなく「設置」できるパークトレーラーに着目した。外装を色鮮やかなパステルカラーにしたのは,「色が消えたまちに花畑のような華やかさを加えたかった」からだ。

現在,従業員は17名。40棟のトレーラーハウスは週末になると満室になる。「エルファロ」のコンセプトは,第2の我が家と感じてもらえるおもてなし。それが宿泊者には心地よい。「エルファロ」とはスペイン語で「灯台」。復興へ進む道を照らす存在になりたい,との思いがこもる。

写真:トレーラーハウスの宿泊村「エルファロ」

トレーラーハウスの宿泊村「エルファロ」

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写真:女川町の中心市街地

女川町の中心市街地。写真中央は,来年3月21日の「まちびらき」をひかえ,造成工事が急ピッチで進むJR石巻線女川駅周辺部(2014年1月27日撮影)

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「エルファロ」から歩いて3分ほどの距離に,当社の「おながわまちづくりJV工事事務所」が建つ。2012年10月,女川町とパートナーシップ協定を結ぶ都市再生機構(UR)から,コンストラクション・マネジメント(CM)方式でまちづくり事業を受託した。まちのインフラを総合的に整備していく中で,施工・調査・測量・設計などを一体的にマネジメントする。

当社JV職員をはじめ,まちづくりに携わる多くの人が「エルファロ」の利用者になった。2013年4月に入社し,2ヵ月後に赴任した和田英子さんもその1人。寮ができるまでの3ヵ月間お世話になった。埼玉県の出身で,初めての1人暮らしは不慣れだったが,「アットホームな雰囲気で,いつもお帰りなさいと迎えてもらえる場所」と振り返る。両親が訪ねてきた時も「エルファロ」に滞在した。

女川復興の最前線に立つ23歳は,この1年間で逞しくなった。「総務・経理業務を担当し,業務を通じて住民の方と接する機会も増えました。事業への期待がひしひしと伝わってくる。まちの姿は一変したけれど,人の温かさ,強さを感じます」。日本を再建する一端を担いたいと,建設業の道を選んだ和田さん。これからもまちや都市に活力を与える仕事に取り組みたいという。現在は,女川町水産加工団地排水処理施設建設工事も担当。女川のまちと未来を見据える。

「エルファロ」の佐々木さんは,20歳から2年間ほど,当社女川原子力出張所の土木課に勤務したことがある。「これもご縁ですね。新入社員だった和田さんが頑張っている姿を,何年か前の自分に重ね合わせたりするのです」。

写真:佐々木里子さん(右)と和田英子さん

佐々木里子さん(右)と和田英子さん

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写真家の鈴木麻弓さんは,「エルファロ」の佐々木さんとはトレーラーハウスのオープン時からのお付き合い。実家は女川町で3代続いた「佐々木写真館」で,いまは神奈川県逗子市に拠点を構える。両親も写真館も津波で流され,亡き父の代役として,震災後の故郷を撮り続ける。

「がれきの泥の中から,父が愛用していたカメラを見つけて…。それが,次の時代へ向かって歩を進める女川の姿を記憶し,復興の語り部になろうと決意したきっかけでした」。

震災直後の4月には,母校の小学校の入学式を撮影した。変わるまちの様子,人々の生活,強く生きる女性たちの表情,そしてカラフルな外装の「エルファロ」と一生懸命のもてなしをする従業員の姿…。「震災を契機に,多くの人との交流が生まれ,輪が広がりました」。

女川の記憶を次世代に――。鈴木さんの発信は写真だけに止まらない。積極的に講演会や展示会などの活動も展開する。

写真:父との思い出の地に立つ鈴木麻弓さん

父との思い出の地に立つ鈴木麻弓さん。震災から2週間後,がれきの中から父・厚さんのカメラを見つけた(提供:鈴木麻弓「親子の絆」より)

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一方,JV事務所の和田さんは,地域の住民向けに,まちづくりの取組みや工事の進捗状況を伝える「槌音」(おながわまちづくり通信)の編集を担当して,情報発信に努めている。

高台にある宮城県立女川高等学校のグラウンドに建てられた「きぼうのかね商店街」の入口に設置された女川交番の所長は,「槌音」の常連投稿者だ。「仮設住宅の老人宅などを巡回すると,読んだよ,と声を掛けられることも多い。復興の動きを伝える大切な役割を果たしてくれています」という。

女川交番は,震災前までは市街地の中心部にあった。鉄筋コンクリート造2階建ての建物は,いまも津波で横倒しのままになっている。女川町はこの「旧女川交番」を保存し,かさ上げ後に整備される公園に,震災遺構として残すことを計画している。

写真:女川交番所長と勤務員

女川交番所長と勤務員

写真:「槌音」(おながわまちづくり通信)

「槌音」(おながわまちづくり通信)

写真:旧女川交番

旧女川交番。震災遺構として残すことが計画されている

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3月15日,中心市街地の女川浜に「復興まちづくり情報交流館」がオープンした。プレハブ平屋建て,約140m2。女川の歴史や復興事業の最新情報などを伝える情報発信拠点と,地域住民や来訪者の交流スペースとして活用される。

式典で須田善明町長は「復興への取組みは今しか見えない。このプロセスを伝えていくことも私たちの役割」と,設立の意義を強調。情報交流館の管理・運営を行う当社JVを代表して,赤沼聖吾専務執行役員東北支店長が「来訪者に復興の進捗状況を認識していただくと同時に,町民の皆さんには,ここに住み続ける意志と復興への理解を深めてもらえれば嬉しい」と,復興のスムーズな進行を誓った。

同じ日,津波がまちに押し寄せた時刻の午後3時32分に合わせて,「津波伝承・復幸男」の行事が開催された。高台の女川町立女川中学校中庭に建てられた「いのちの石碑」を目指して,128名が一斉に学校の登り口から約350mの坂道を駆け上がる。今年で2回目。震災の教訓を次世代に伝えたい,との思いから始まった。当社からも3名の健脚自慢が参加した。

「いのちの石碑」には「これから生まれてくる人たちに,あの悲しみ,あの苦しみを再びあわせたくない!!」と刻まれている。

写真:「いのちの石碑」を目指して一斉に駆け上がる参加者たち

「いのちの石碑」を目指して一斉に駆け上がる参加者たち

写真:「復興まちづくり情報交流館」のオープニングセレモニー

「復興まちづくり情報交流館」のオープニングセレモニー

写真:いのちの石碑

いのちの石碑

春の訪れとともに,「エルファロ」に観光客の姿が増えた。夕食時,食堂の対面式キッチンには客と会話に花を咲かせる佐々木さんの笑顔がある。「震災で失ったものも多いが,疎遠になった人との縁が戻ったり,新たな人とのつながりも増えました」。宿としての機能だけでなく,食堂を開放し,まちの人に集いの場も提供する。

あの日の津波は,祖父の代から続く老舗旅館「奈々美や」と両親を奪った。共同経営者の3名も,長年経営してきた旅館と親族を失っている。しかし女川再興への強い思いは同じだ。「私たちがずっと大切にしてきたのは,女川をもう一つの故郷のように感じていただける“おもてなしの心”。そしていまは,お客様が変わりゆくまちの復興の目撃者となって欲しい」。

緑あり・海あり・魚あり──。この自然の恵みと伸びやかな風土が女川の人情を育み,まちの伝統や文化を創造してきた。それがまちの基本理念にもなった。

私たちは,新しい女川に生まれ変わるんだ──。復興を支える人の絆に,安らぎと潤いのある,女川の豊かな未来を見る思いがした。鹿

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地図:女川町

【女川町】1926(大正15)年に町制施行。面積65.78km2。全国有数の水揚げを誇るサンマ,ギンジャケ,カキやホタテの養殖など,豊富な水産資源が町経済の基盤を形成していた。東日本大震災による津波で,800名以上の死者・行方不明者を出した。震災から3年を経過した現在も,町民の3割が仮設住宅での生活を続ける。震災前約1万人だった人口は7割近くまで減った。

写真:高橋秀充所長

高橋秀充所長

【女川町震災復興事業】 事業は,中心市街地の高台の宅地整備,漁業関連基盤の整備と離・半島部14地区におよぶ。現場を統括する高橋秀充所長は宮城県出身。「復興まちづくりのモデル地区となる事業。1日も早い復興を完遂したい」。透明性確保のため,工事に関わるコストを全て開示するオープンブック方式が採用されているのも特徴の一つ。「新しい挑戦には知力,体力ともに旺盛な若手の力が必要」と,全国から中堅・若手社員を召集した。現在JV全体の所員は約100名。

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