ホーム > KAJIMAダイジェスト > March 2011:特集「鹿島岩蔵 激動の明治を生きた実業家」 > 交友

KAJIMAダイジェスト

交友

写真:深川鹿島邸鳥瞰図

深川鹿島邸鳥瞰図

生来の交際家

岩蔵は生来の交際家だったといわれる。知識欲が旺盛で,他人に対しては丁寧に応接したから,上下を問わずその交友範囲は自ずと広がった。まず岩蔵の進路を変える大きな存在になったのは,工部省鉄道局長の井上勝。建築請負から鉄道請負へ転進するきっかけを作った。そして鉄道工事では長谷川謹介をはじめ多くの技師たちに,鹿島は誠実な工事をするという信用を得た。

その転進の後ろ盾となったのは大阪船場の富豪平瀬亀之輔(露香)である。露香は西郷隆盛と親しかったため謀反人の疑いをかけられ,身のあかしを立てるため政府の仕事をする必要に迫られていた。パートナーを必要とする岩蔵と,薩摩と対立する支援者となる必要に迫られた平瀬露香が幸運にも結びついて路線の切替えに成功したのである。

飛躍への道拓く

洋館建築から鉄道請負への路線転換は,岩蔵に大きな勇気と決断を迫ったはずである。莫大な初期投資も必要だった。岩蔵の生来の交際家としての資質,そして旺盛な知識欲。それが幅広い鉄道人脈を築き上げ,岩蔵の時代を見る目を見抜いた後援者との出会いを導いて,飛躍への道を拓くことになった。

金原明善との接点も,鉄道建設工事の過程にある。東海道線横浜-名古屋間の建設工事が1886(明治19)年に起工。鹿島組はその多くの区間を施工していた。天竜川橋梁は国直営だったが,工事を担当していた鹿島組は,天竜川の治水に打ち込む明善の意欲に打たれ,後援者となった。

東海道線の建設工事は1889(明治22)年に終了するが,それ以後も,岩蔵は明善の事業を応援し,地域開発のために明善が設立した天竜川木材や天竜運輸会社の経営に加わるなど,長い付合いをすることになる。

多彩な人脈を構築

岩蔵が多方面の人と親交をもったのは,その義侠心にもあった。頼まれればいやといえない性格で,親戚や知人,その子弟の世話もよくした。1899(明治32)年,全国の土木請負業者が日本土木組合を結成した時,岩蔵が頭取に推されたのも,鹿島組の業界での地位とともに,日頃のこうした人徳が大きかった。

そのほか,知遇を得て親交のあった政財界人には,渋沢栄一,井上馨,原敬,伊東巳代治,金子堅太郎,陸奥宗光,古河市兵衛,安田善次郎,浅野総一郎,團琢磨,藤山雷太など実に幅広い。

取材記・明善と岩蔵 ~意気投合した二人の侠気

浜松市東部,天竜川に近い東区安間町に残る金原明善(1832-1923)の生家と記念館を訪ねたのは,2008年11月のことだった。明善は,明治期,頻繁に氾濫を繰り返す「暴れ天竜」の治水に立ち向かい,全財産を投じて,堤防の構築と改修に一生を捧げた社会事業家である。

金原明善記念館には,その幅広い人脈を示す膨大な書簡も保管されており,陳列ケースの中に「鹿島精一書簡集」とメモ書きされた古い手紙の束を見つけた。「文面を見たいのですが」と記念館の責任者にお願いしたら,ケース内部に入って,束を取り出しても結構ですという。

貴重な資料を踏まぬよう,傷つけないように慎重に取り出して,机の上でそっと開いた。手紙や葉書は,いずれも明善宛のもので,差出人は鹿島岩蔵のほかに,鹿島組,鹿島精一の名があった。その交流は鹿島組二代の組長にも及んでいたのだ。岩蔵の筆致は,明治人の気骨を感じさせる力強さがあった。

記念館所蔵の『金原明善』(金原治山治水財団刊)の1894年1月4日の項に,こんな記載があった。「鹿島岩蔵邸(東京・深川)に招待され,明善夫妻はかつみ・みよし・きようを同伴,丁重なるもてなしを受く」。金原家系譜を辿ると「みよし」は明善の孫で,「かつみ」は次女。明善と岩蔵が,家族ぐるみの交際をしていたことがうかがえる。

年齢は明善が一回り上だが,これと見込んだら採算を度外視してでも打ち込むという,共通する侠気が二人を意気投合させたのだろう。
(2009年1月号月報取材ノートより)

写真:保管された書簡束から見つかった岩蔵の手紙

保管された書簡束から見つかった岩蔵の手紙

写真:深川の鹿島本邸庭園

深川の鹿島本邸庭園

改ページ

【露香と岩蔵】 岩蔵の鉄道進出支えた大阪の大富豪

写真:小野一成 さん

露香を語る
小野一成 さん

小野一成氏は,鹿島岩蔵の曾孫。東京都立教育研究所主任研究員,戸板女子短期大学学長などを歴任し,現在日本生活文化史学会・日本風俗史学会理事。『日本建設業成立史考』『鹿島建設の歩み・人が事業であった頃』など多くの著作がある。鹿島岩蔵組長没後百年記念誌『鹿島岩蔵 小傳』を執筆した》

鹿島岩蔵と平瀬露香の結びつきくらい不思議なものはありません。片方は東京の請負師,もう片方は大阪船場の大旦那という,普通では出会う筈のない二人が出会って,共同事業を始めたのですから,明治というのは実に面白い時代です。

平瀬露香は船場「千草屋」の七代目当主で,同時に大阪を代表する趣味人・学者として聞こえた人でした。「千草屋」は伊予の大洲藩・薩摩藩など多くの大名を相手に大名貸を行ってきましたが,維新直後,薩摩藩とトラブルを起して巨額の貸付金が回収不能になりかけたことがありました。それを西郷隆盛の尽力によって何とか解決できたので,露香は西郷を大いに徳としていました。

そこへ起ったのが西南戦争です。戦争そのものは9ヵ月で終わりましたが,露香は西郷のシンパだとにらまれて身辺が危なくなってきました。それを防ぐには政府の仕事をするのが一番良い。中でも鉄道は,工部卿に伊藤博文や山尾庸三,鉄道頭に井上勝と,首脳を薩摩と仲の悪い長州人が独占していたから,この仕事をしていればまず疑いは避けられる。一方,鹿島岩蔵の方は請負額が建築の十倍にもなる,したがって利益も大きい土木―鉄道工事に進出したかったが,資金の面倒を見てくれるスポンサーを欲しかったが見つからない。

この二人の結びつきは,どちらにとっても極めて好都合だったわけです。二人を引き合わせたのは,渋沢栄一の子分で,二人と以前から付合いがあり,渋沢の秘書のような仕事をしていた紀州人の山東直砥ではないかと思われます。これにより,二人は固く結びつき,「鉄道の鹿島」への路線が敷かれました。

露香は単に資金を援助するだけでなく,千草屋の店員二人を交替で現場に派遣して事務を管理させたのです。明治初年の鉄道請負業者がほとんど失敗して生き残れなかった中で,鹿島組のみが現在も続いているのは,その初期から経営がしっかりしていたからでしょう。

ホーム > KAJIMAダイジェスト > March 2011:特集「鹿島岩蔵 激動の明治を生きた実業家」 > 交友

ページのトップへ戻る

ページの先頭へ