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KAJIMAダイジェスト

鉄道

写真:朝鮮・京仁線漢江橋梁(明治33年)

朝鮮・京仁線漢江橋梁(明治33年)

その1 鉄道工事請負業への転進とその歩み

最初の鉄道工事

岩蔵の鉄道への関わりは,1870(明治3)年の京浜線(新橋-横浜)線路用砂利の納入請負が最初とされるが,本格的な工事は1880 (明治13)年着工の鉄道省敦賀線(柳ヶ瀬線)だった。長浜から木ノ本を経て敦賀に至る路線である。鉄道の将来性を見抜いて,建築業から鉄道工事請負業への転進を計ったのである。

「鹿島組」を創設した岩蔵は,幹部を率いて現場に乗り込んだ。担当したのは,中ノ郷-柳ヶ瀬間と刀根-疋田間の土木工事だった。1881(明治14)年3月に両区間を完成させた。この仕事ぶりが認められ,鹿島組が各地で鉄道工事の特命を受けるきっかけになった。岩蔵38歳,気鋭の働き盛りだった。

請負金額は20万円。不馴れな仕事のために赤字を出したが,誠実な仕事振りが認められて,政府から2万円の補助金を下付されて収支を償うことができた。米1升5銭の時代である。

峠越えの鉄道建設

敦賀線工事のあと岩蔵は1882(明治15)年,新設された日本鉄道会社の東京-前橋間を特命受注。引続いて山手線赤羽-板橋間をはじめ,官営鉄道の中山道線(信越線)高崎-横川間,直江津線(信越線)直江津-軽井沢間,東海道線沼津-天竜川間などの工事を受けた。

1888(明治21)年には日本鉄道会社の東北線仙台-盛岡間,盛岡-青森間の工事を請け負った。岩蔵は東北線工事を重視し,盛岡に出先事務所を設け,頻繁に訪れては幹部らを督励した。交通の不便,冬季の積雪といったハンデを克服して1891(明治24)年,盛岡-青森間が完成。東北線は全通した。

東北線の開通を控えた同じ年,信越線で最後まで残った横川-軽井沢間(碓氷線)の工事に着手した。海抜950mの碓氷峠を越える鉄道建設は,26のトンネルと18の橋梁とを縫って登る難工事だった。鹿島岩蔵率いる鹿島組はこのうち10本のトンネルを施工している。

1,000分の66.7という急勾配を克服するため,世界でも珍しいアプト式を採用したこともあって,日本国中の評判を呼んだ。

こうして鹿島組は,東海道線,東北線,常磐線,関西線,高崎・信越線,北陸線,山陽線,山陰線,函館線,奥羽線,鹿児島線をはじめ,全国各地の鉄道建設に従事した。業容は急速に拡大を遂げ,岩蔵は「鉄道の鹿島」の名を確固たるものにした。

写真:鹿児島線矢嶽トンネル(明治41年)

鹿児島線矢嶽トンネル(明治42年)

海外での鉄道工事

鉄道建設は,朝鮮,満州,台湾にも及んだ。1898(明治31)年に渋沢栄一らによって朝鮮に京仁鉄道会社が設立されると,鹿島組は特命を受けて半島に進出。京仁線京城-仁川間の全区域を施工した。漢江橋梁など難しい工事が多く,日本人が手掛けた最初の広軌鉄道工事でもあった。以来,朝鮮で京釜線,京義線など多くの鉄道を施工することになる。

また,日露戦争後の満州では大連に出張所を設け,南満州鉄道会社の安奉線など各種施設を建設するなど,活躍の場は拡大した。

1899(明治32)年には,台湾での官営鉄道起工に伴い,岩蔵は台南に出張所を設置。台湾縦貫鉄道南部線・中部線,阿里山鉄道などの鉄道だけでなく上下水道,治水,道路,橋梁,水利工事などを台湾全土で施工した。

写真:台湾・阿里山鉄道(明治44年)

台湾・阿里山鉄道(明治44年)

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取材記・敦賀線と岩蔵 ~鹿島組の気概に触れる旅

当社の最初の鉄道工事となった敦賀線の中ノ郷-柳ヶ瀬間と刀根-疋田間は,その後,敦賀線の電化とともに深坂トンネル経由の新線が開通。1964 (昭和39) 年に廃線となった。その廃線跡を辿ったのは,2003年の秋だった。

木ノ本を出発して最初の集落の中ノ郷では,余呉町役場前の小さな公園に,駅名標が残る中ノ郷駅のプラットホーム跡を見つけた。中ノ郷から先は両側に山が迫り,勾配が急になる。この線路を喘ぎ喘ぎ上ったD51の重連の姿がオーバーラップする。約5kmで柳ヶ瀬。駅舎跡はバス停になっていた。

柳ヶ瀬トンネルを過ぎると刀根の集落がある。スイッチバック駅の刀根駅跡は北陸自動車道のパーキングとなっている。長さ56mの小刀根トンネルは,煉瓦と石積みがいい雰囲気。その上に「明治14年」と刻まれた石額がある。トンネルを出てすぐの笙の川にも橋台が残る。

疋田に入る手前で新線が見えてくる。お年寄りに旧駅舎の在りかを尋ねると,「保育園の場所にプラットホームがあった」という。確かに石積みがはっきりとホームの跡を示していた。敦賀方向に目をやると,細い旧線跡が伸びているのが見える。

「疋田の歴史」を編纂している人たちに会う。「日本海と琵琶湖を結ぶ物流の大動脈となった敦賀線」「近代化の主役を担った敦賀線時代」の話を聞く。そして当時の「柳ヶ瀬越え」の工事に挑んだ岩蔵ら建設業者の尽力を称えてくれた。

草深い廃線跡を辿り,沿線の人たちと会い…。鉄道草創期の日本で,文明開化と経済発展に貢献した先人たちの姿を偲ぶことができた。初の鉄道工事に挑んだ岩蔵率いる鹿島組の気概と苦労と奮闘ぶりにも触れることができた小さな旅だった。
(2004年2月号月報取材ノートより)

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その2 「鉄道の鹿島」を確立した東北線

東北の鉄道工事とその足跡

全国各地に鉄道網を拡げた鹿島組が「鉄道の鹿島」の名を確立したのは,1888(明治21)年に始まった東北線工事だった。岩蔵自身が,盛岡に設けた出先事務所に頻繁に出向いて指揮を執ったことでも,その意気込みがわかる。

担当したのは,第4区(仙台-青森)の松島-一関間と衣川・黒沢尻・花巻・石鳥谷付近,第5区(盛岡-青森)の沼宮内-小繁間と小鳥谷・三戸・尻内・高舘付近など,工事は多岐に及んだ。東北線は1891(明治24)年に上野-青森間が全線開通。当社にとって由緒ある路線となった。

東北線工事を完成させた後も,鹿島組は盛岡を拠点に,東北地方の鉄道網を広げていく。1893(明治26)年から約10年間に,奥羽北線青森-弘前間(一部)▽八戸支線馬淵川橋梁▽常磐線阿武隈川橋梁▽奥羽南線上ノ山-天童間と新町-湯沢間などを施工。岩蔵逝去後の大正・昭和初期にも,大湊線野辺地-陸奥横浜間▽橋場線雫石-橋場間▽山田線盛岡-上米内間,宮古-内野間▽久慈線八戸-種差間,八木-久慈間など,軌道は延伸し続けた。

岩蔵が基礎を築いた東北の鉄道の歴史は,昭和40年代からの東北新幹線建設へ継承されていく。長大スパンの第2阿武隈川橋梁,日本一硬い岩質を克服した一関トンネルなどの難工区,重要区間の工事を完成させ,昨年12月に開通した八戸-新青森間でも,2万6,455mの長大山岳トンネルの八甲田トンネルや新青森駅を施工した。

北海道新幹線(新青森-新函館)工事も,着々進行しており,当社は津軽蓬田トンネルなどを施工中である。

Column 「鉄道の鹿島」の歴史引き継いで

当営業所の起源は,1888(明治21)年に鹿島組の岩蔵組長が東北線工事対応の出先機関として,盛岡に事務所を開設したことに遡ります。ここから当社の東北における鉄道工事の歴史はスタートし,岩蔵の後継者となる葛西精一との運命的な出会いの場にもなりました。

いまの時代もなお,岩蔵に見出された鹿島(葛西)精一は,近代的な総合建設会社を築いた人物として,岩手日報社が1987年に出版した『岩手の先人100人』にも記載されています。

こうした県民から寄せられる当社への期待を裏切ることのないよう,そして,岩蔵組長が築いた「鉄道の鹿島」の歴史に恥じることのないよう,営業所社員一同,お客様へ対しては誠意あるサービスを,現場では毅然とした態度で品質管理を常に心掛けております。

昨年は,東北新幹線全線開業,盛岡駅開業120周年と,当営業所にとって記念すべき鉄道の1年になりました。123年前,ここ盛岡を基盤に出発した軌道は,いまなお北へ延伸し続けています。

岩蔵組長百回忌となるこの年,改めて日本の鉄道を築き続けてきた当社の歴史の重さを感じるとともに,当社の技術力や企画開発力を地域社会の発展に役立て,ともに繁栄していくようさらに努力する所存です。

写真:東北支店 盛岡営業所長  後藤道也

東北支店
盛岡営業所長
後藤道也

【盛岡と岩蔵】 東北線建設が奇縁を生んだ

井上勝のこと

鹿島岩蔵は1872(明治5)年,品川御殿山の毛利公爵邸洋館を施工したのを機に,旧毛利藩士で時の工部省鉄道局長,井上勝の知遇を得ました。わが国の「鉄道の父」と尊称された鉄道のエキスパートです。鉄道建設を推進するために,井上は当時,信用と統率力のある請負業者を求めていました。

岩蔵の人物・力量を知った井上は,岩蔵に建築業から鉄道請負業への転向を強く勧めました。常に現場に足を運んで,作業員の職場環境を気遣うなど,二人には共通する点が多く,惹き合うものがあったのだと思います。

岩手ルート

井上はのちに,私が長く関わった小岩井農場創始者の一人になりました。東北線建設の際,一時山形ルートへの変更案が出されたことがあり,それを井上が従来計画の岩手ルートに戻したことで,岩手県知事(石井省一郎)が盛岡近郊の網張温泉に招待したそうです。井上は道すがら見た高原の風景を気に入って大農場の開創を思い立った。永年鉄道敷設で田畑を犠牲にした代償にという志望だったという。県知事の協力を得て,1891(明治24)年に,この地に小岩井農場が誕生しました。

岩蔵は1888(明治21)年4月から,その東北線の工事を請け負うことになり,出先事務所を盛岡の西下台に設けました。これが,岩蔵を継いで鹿島組組長になった鹿島精一誕生の奇縁を生む契機となったのはご存知の通りです。井上の岩手ルート採用が,岩蔵が精一と巡りあう奇縁を作ったわけです。

写真:小岩井農場展示資料館前館長  岡澤敏男 さん

盛岡と岩蔵のかかわりを語る
岡澤敏男 さん

《岡澤敏男氏は,盛岡市の文学研究者で,小岩井農場展示資料館の前館長。第16回宮沢賢治賞奨励賞を受賞した》

化物丁場

鹿島組の盛岡を拠点とした鉄道建設は,その後も久慈線や山田線など深い繋がりを持ちましたが,宮沢賢治の「化物丁場」という短編に登場する橋場線(田沢湖線)もその一つです。

その橋場線のある区間は,しばしば土砂崩れで鉄道が不通になる。それで「化物丁場」と呼ばれていた。そんな話を軽便鉄道(横黒線)の車内で線路工夫から聞いたことからストーリーが始まる。丁場というのは,工事の受持ち区域とか工区の意味です。

その工区を請け負ったのが鹿島組だったのを多分賢治は知っていたのでしょう。軽便鉄道の車内で車の標のついた袢纏(はんてん)で鉄道工夫を見分けたことが下書稿にある。鹿島組は「かねカ」の印袢纏を採用し,盆暮れに請負業者から下請けの職方に与えたと聞きます。これを着られる職人は第一級とされ,質草にしても破格の値がついたという。質屋をしていた宮沢家にも鹿島組の印袢纏が持ち込まれたのかも知れません。

この短編は一見ルポルタージュ風ですが,よく読むとフィクションだと気がつきます。既に各地の鉄道工事を請け負い,技術の集積ある鹿島組が,下請けとはいえ線路基盤に盛った砂利を何度も崩壊させる工事をするのは疑問です。その証拠に鉄道省編『橋場線建設概要』を調べても「化物丁場」と目される第3工区で,てこずったらしい工事記録を察知できないのですから。

取材記・盛岡のルーツを探訪

123年前に,鉄道工事に情熱を燃やした岩蔵が歩いた盛岡,後継者となる葛西精一との出会いの場となった事務所は,どんな場所にあったのだろう。

当社盛岡営業所の資料によると,現在の住所は盛岡市梨木町13番地と推測できる。盛岡駅から北へ約1km。住宅地の中にぽっかりと空き地があり,「鹿島建設」の小さな標識があってすぐに判った。裏手はJR山田線の線路。100mほど西に行くと北上川にぶつかる。

登記簿では,土地は1962(昭和37)年から当社の所有となっている。盛岡事務所は, 営業所として盛岡市中央通の現在地に移転。その後この場所は,社員寮,資材置き場として使用していた。

岩蔵が葛西精一と巡りあった「事務所の隣」の出淵家は,東隣か小路を挟んだ西隣か定かでない。板塀に囲まれた敷地内には畑や果樹があり,奥まった玄関脇の八畳間が精一母子の部屋になっていたらしい。

地図

盛岡事務所跡地周辺地図

写真:北上川

事務所跡地近くを流れる北上川。後方にJR山田線の鉄橋が見える

写真:盛岡事務所跡地

岩蔵が東北線工事の拠点にした盛岡事務所跡地。葛西精一との出会いの場にもなった

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