鹿島紀行
鹿島紀行
第11回 久慈線

〜発見!セピア色の写真帳/「鉄道の鹿島」の絶頂期を見る〜
【A】
【B】 【C】
【D】
【E】 【F】
【G】
【H】 【I】
【J】
【K】 【L】
【M】 【N】
【O】
【P】 【Q】
 社史資料室(現本社資料センター)の書庫から古い写真帳が見つかった。最初のページに《今回久慈線が開通いたしましたので,記念のため写真帳を作ってみました》で始まる前書が付いている。そしてセピア色した写真が33葉。作成者は《1930年(昭和5年)3月,鹿島組・難波多津二》とあった。難波は当時鹿島組の東北地方を束ねる責任者であり,久慈線建設に当たっては現場代理人として活躍した人である。

 難波の前書はこう続いている(要約)。
《本線は1893年(明治26年)に尻内から八戸湊までの工事を当組で請負いました。1922年(大正11年)には八戸−種差間を,1928年(昭和3年)以来八木−久慈間を請負い,各位の種々なる立場から御指導御援助を賜りました。御蔭様で終始一貫大過なく開通の喜びを迎えることができました》
 尻内は現在の東北本線八戸,八戸はいまの本八戸である(1971年4月改称)。現在の八戸線は八戸から本八戸を経て久慈に至る全長64.9kmだが,前書にある通りこのうちの当時の尻内−八戸(八戸湊)間は,鹿島組施工で日本鉄道が開業,その後国鉄が買収した。従って久慈線として建設されたのは,八戸(現在の本八戸)から久慈までの延長約60kmの区間である。
 久慈線建設に当たっては八戸側より工区を6つに分け,1922年11月,第1工区から順次着工した。請負業者は第1,4,5,6の4工区を鹿島精一名義で鹿島組が担当。請負金額は合わせて177万円だった。だが難波としては一括して全部やりたかったらしい。こんなくだりもある。
 《種差−八木間(第2,3工区)が稲葉常松,白井留吉両氏の手に渡りましたのは,いささか物足らぬ感に打たれるのであります》

 第1工区は八戸−種差間の13km余。八戸市内の小中野−陸奥湊間には,本線中で最長の新井田(にいだ)川橋梁(153m)が架けられた。径間12mの鈑桁11連と,4.5mの工桁1連の橋梁である。写真に2葉の新井田川橋梁工事現場が残されている。橋脚に手延式で架橋する様子がわかる。番傘をさして見物する女性の姿もある【写真A,B】。
 鮫駅からは太平洋岸沿いに南下する。種差近くには海岸丘のあちこちに花崗岩の巨石が突出。切取作業が困難なためカーリットによる大爆破で工事の効率化が図られた【F】。
 種差から先は他業者の施工だが,写真帳には第2工区の川尻川橋梁工事も入っている。資材運搬用の蒸気機関車の懐かしい姿が見える。明治後期にイギリスから輸入された「B型テンダ式蒸気機関車」と思われる【G】。
 第4〜6工区は陸中八木−久慈間の約21kmの工事だった。陸中中野までの第4工区は1927年の着工である。丘陵の多い海岸線を縫うため,大規模な切取と築堤が続いた。この工区には4橋梁を施工したが,最長は有家(うげ)川橋梁(108m)。高さ21mにも及ぶ鉄筋コンクリート構造の高橋脚である【H】。
 第5工区は侍浜(さむらいはま)まで。海岸を離れ,高家(こうげ)川沿いに山地に入る。3つの隧道(第1〜3粒来(つぶらい))と3つの橋梁(第1〜3高家川)など構造物が多い工区だった。3隧道はいずれも底設導坑式【J】,橋梁は重連式を採用した。
 久慈に至る最終の第6工区は1928年3月に着工している。九戸街道に並行して山脚を縫って南下し,後半は久慈川の氾濫区域を横断する約10kmの区間である。夏井川【M】,久慈川【O】の2橋梁のほか,小径間の3橋梁と延長118mの鳥谷隧道の構造物があった。
 また九戸街道沿いの国丹(くにたん)地区では,切取工事中に土中からエビやシャコなど甲殻類の化石が発見されるというハプニングも。東京大学理学部地質学教室の鑑定で約400万年前のものと判明した。工事を中断して発掘調査に当たる人々の姿も記録されている【L】。
 写真帳には陸中中野【T】,侍浜【K】,陸中夏井【N】,久慈【P】などの駅舎のほか,新井田川口【C】,ウミネコの繁殖地として知られる蕪島【D】や風光明媚な深久保海岸【E】などの沿線風景も捉えている。
 こうして久慈線は1930年(昭和5年)3月に竣工,開通。久慈駅でも盛大な開通式が行われた。難波写真帳の最後には,日の丸や万国旗を掲げた祝櫓を囲む大勢の人の姿が収載されている。櫓に掛けられた「祝全通 株式会社鹿島組」の垂れ幕の文字が読み取れる【Q】。
 鹿島組は1カ月前の2月22日に株式会社に組織変更したばかりだった。またその前年には,鹿島組創立と鉄道請負転向50周年祝賀,それに新社屋竣工披露を兼ねた記念式典が開催された。永年勤続者の表彰も行われ,難波多津二の名前もある。第2次大戦前における鹿島組の一つの頂点を極めた時期だったのである。
 2004年秋。写真帳の75年後はどんな姿を示しているのだろう。検証の旅にでた。
 東北新幹線の延伸で近代的な駅舎に生まれ変わった八戸駅で,久慈行きの八戸線へ乗り換える。赤い2両編成の古いジーゼルカーと新駅の取り合わせが面白い。観光客がそれを写真に撮っていく。
 八戸市街を過ぎ,15分くらいで陸奥湊駅に着いた。戦後,八戸港に水揚げされた魚の小売市場が開設された港町で,駅前を中心に個人商店が並んでいる。そこから路地を一つ入ったところに懐古調の旅館がひっそりと建っていた。最後に残った遊廓跡と聞いた。
八戸駅では,新幹線からエスカレータで八戸線へ。赤いジーゼルカーが待っていた
陸奥湊駅近くにある懐古調の旅館
新井田川橋梁【B】
 八戸港に近い新井田川橋梁付近は,川幅がやや狭くなったようだ。【B】の写真で傘をさす人のいる辺りは,交通量の多い道路になっている。橋の傍らで衣類の店を営む老女に写真を見せると「ここに間違いない」と目を細め,番傘の和装の女性がこの周辺が華やかな街だったことを示している,と説明してくれた。
 橋から河口方向を望む。【C】に見える橋のたもとの白壁の建物は今も健在だった。嬉しくなって見にいくと,煉瓦塀と漆喰壁を備えた「男山酒造」の蔵と判った。
 ここからはタクシーを使う。運転手の黒澤保文さんは,自衛隊員だった父の赴任以来八戸に住んでいるという。立派な八戸弁である。
 世界有数のイカ,ヒラメ,サバ漁の基地八戸港には,早朝に漁を終えたイカ釣り船が停泊していた。その数の多さに驚いていると黒澤さんに「これでも昔の1/4ですよ」と笑われた。
 八戸港をぐるりと回り込む。鮫駅の先に蕪島が見えてくる。島がウミネコや海鵜のコロニーであるのは昔と変わらない。だが8月中旬に巣立った後で,姿を見ることはできなかった。久慈線の線路から蕪島を望むと,ちょうど【D】と同アングルになる。島は橋で結ばれていたが,1942年頃に埋め立てられて陸続きになった。
新井田川河口【C】
酒蔵はいまも健在だった
八戸港。漁を終えたイカ釣り船が並ぶ
“75年前の捜索”に協力してくれた黒澤さん
陸続きの蕪島。中央に蕪島神社がある【D】
 【E】の深久保海岸は大きな花崗岩が点在する景勝地だが,松が増えて景色は一変している。同じ眺めを見つけるには,かなり松林を歩かなければならなかった。
 さらに南下すると,久慈線で最も美しい海岸といわれる種差海岸がある。海と広大な天然芝が波打ち際で接する景観は,なるほど見事。「周辺にやや松が増えたものの,75年前とそう変わらない景色を保っているはず」と,黒澤さんは胸を張った。ただ【F】の場所は,黒澤さんの協力を得ても発見できなかった。

 種差海岸駅から再び久慈線に乗る。久慈線はJR東日本に唯一残るタブレット閉塞の単線である。交換駅ごとに駅員がタブレットを受け渡し,腕木式信号機をテコで手動操作する。陸中八木駅で駅員が手早く操作する姿が見られた。75年前と変わらない,ある意味で歴史的な光景である。
 種市駅の手前で【G】の川尻川橋梁を渡り,無人駅の有家駅で降りる。有家地区会長の南昌一さんに,沿線で一番ダイナミックという有家川橋梁【H】へ案内していただいた。「終戦直前に,近くの造船場を狙った米軍の機銃掃射があった。この橋もついでに攻撃されてね。橋脚の一部が壊されたが,後に補強されてそこだけが太くなっている」という。
巨岩と松がアクセントの深久保海岸
種差海岸は美しい風景を保っていた
陸中八木駅では駅員によるタブレット交換と腕木式信号機の操作を見た
有家駅近くで
高さ20mの有家川橋梁。鬱蒼とした雑木に阻まれて同じアングルからの撮影は困難を極めた【H】
久慈線
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海岸線を電車が走る(有家駅近くで)
 確かにプロポーションの美しい石積みの橋脚のひとつが,一部をモルタルで固められて,ややずんぐりした形になっている。【H】の写真は山側から撮られているが,鬱蒼とした雑木に覆われて,同じアングルからの撮影は難しい。しかし高さ20mの鉄橋の迫力は写真のままだった。
 南さんが他の場所も車で案内してくださるという。それに甘えて【I】の陸中中野駅へ。ここも無人駅で,駅舎は簡便化されてかつての面影はない。ホームの石積みはそのままだった。続いて【J】の粒来トンネルを探す。電車なら10分ほどの距離だが,道路は大きく迂回したりして,かなりの時間がかかった。
 「多分この辺だが,歩いて探した方がいいね」といって,南さんが線路脇まで土手を登りはじめた。今年74歳。線路沿いに歩き出した南さんの健脚に感心しながら,慌ててついていく。「車が普及しないころは,この線路脇が近道だったから,よく歩いたものです」。
 粒来には3本の連続するトンネルがある。線路沿いを歩いて第1トンネルの入り口を見つけた。写真のトンネルは第2だが,もはや写真の場所には近付けない。
 【K】の侍浜駅は,それまでの海沿いのルートから離れ,緩い勾配を登った山間にある。駅名のイメージとは異なるが,政治的な背景から海辺の村中心部を離れた内陸部に設けられたと『久慈市史』に記されていた。駅に写真の面影はない。若い駅員に写真を見せても「本当にここなのですか」と首を傾けるだけだった。
無人駅の陸中中野駅。南さんにポーズをとってもらう【I】
第1粒来トンネルの入り口を見つけた
侍浜駅の佇まいは大きく変わった【K】
 国丹の化石発掘場所【L】は,もう定かではなかった。ただ10kmほど離れた久慈周辺は琥珀の世界的な産地であり,化石発掘もうなずける。
 【M】の夏井川橋梁は,畑が広がるのどかな場所にある。川幅30mほどの川で,橋脚はそのままのようだ。橋の近くで写真を撮っていると,近くに住む老女が話し掛けてきた。南さんと昔話に花を咲かせているうちに,2人が遠戚であることがわかったらしい。
 陸中夏井駅【N】も無人駅となり,かつての大きな駅舎は姿を消していたが,ホームの形状はそのまま。現駅舎は廃車両を転用したもので,夕日に照らされた構内は時間が止まったような静けさだった。
夏井川橋梁【M】
陸中夏井駅【N】
 いよいよ久慈市内に入る。久慈川橋梁【O】の辺りは商店や住宅が建ち並び,市街地に吸収されていた。その中で新設の市民体育館が目を引く。安定感のある太い橋脚はそのままだ。
 久慈駅で南さんと別れた。当時の駅舎【P】は1945年の大火で焼失,その後建て替えられて現駅舎は3代目という。「いい取材ができましたか。記事を楽しみにしていますよ」。そういって戻っていく南さんの車に,何度も何度も頭を下げた。
 駅前はイカを焼く匂いが満ちていた。その日は600年余の伝統をもつ久慈秋祭りの前夜祭だった。日が暮れて,屋台の灯りに火が入り,人が集まりはじめる。ここが久慈線開通式の行なわれた【Q】の駅前広場なのだろうか。8台の山車が並び,若者たちが気勢を上げて,祭タウン誌「ダ・なす」編集長の下舘さんり前夜を盛り上げていた。
 久慈のタウン誌『ダ・なす』の編集長をしている下舘洋一さんを訪ねた。そこで見せていただいたのが『九戸郡銘鑑』である。久慈線開通を記念して,下舘さんの祖父に当たる下舘青湖(市太郎)さんが纏め,1978年(昭和53年)に父の哲二郎さんが復刻版を出した。
 ページを繰ると,まず鹿島組幹部として難波多津二を始め5人の名鑑がでてくる。交通手段のない久慈に鉄路を敷いた鹿島組への熱い思いが伝わってくるようだ。銘鑑には当時の町の有力者のほか,鉄道開通時のエピソードなどが盛り込まれていて興味深い。開通時の久慈−尻内(八戸)間の運賃が1円2銭という記載もあった。
 「子どものころは汽車を見るのが楽しみで,みんなで線路まで走っていったものです」。「支局記者だった父が八戸へ記事を送るのに,電車の発車を待ってもらったこともありました」。下舘さんはそんな遠い日の記憶を思い起こしてくれた。
 本祭の日。大通りの人波の中を,山車や神輿が練り歩く。その心地よい熱気と賑わいを背に駅へ向かう。八戸行きの古いジーゼルカーが出発を待っていた。鹿
久慈川橋梁。新しい体育館が目を引く【O】
現久慈駅舎は3代目という【P】
久慈駅ホーム
久慈市内
久慈秋祭り。五穀豊穣を祈る大祭だ【Q】
多津つぁん一代記【難波多津二】
 「多津つぁん一代記」と題したA5判70ページほどの小冊子が残っている。難波多津二が1957年1月,76歳の誕生日を迎えて記した自叙伝である。
 1881年(明治14年),吉備中山(岡山県)の農家に生まれたこと。上京して工手学校(現工学院大学)に入学,縁あって《鹿島という請負師》を紹介され,京橋区木挽町の店で《組員を命じ日給40銭を給す》の辞令を受けたこと。以来朝鮮や台湾のほか全国各地の土木工事現場を回ったこと―などがエッセイ風に記されている。
 難波はその後重役に登用され,終戦の年の1945年に43年間勤務した鹿島を退社した。
【久慈石油備蓄基地と「もぐらんぴあ」】
 陸中夏井駅から約3kmの海岸近くに,当社施工の久慈石油備蓄基地がある。大規模地下発電所建設の経験と技術を生かして築造した水封式地下岩盤タンクである。1986年11月に着工,1993年9月完成した。翌年2月に約167万klの石油備蓄を完了している。
 この作業トンネルの一部を活用したのが,久慈市営水族科学館と石油文化ホールを併設する「もぐらんぴあ」である。当社は構想段階から調査に加わり,魚の飼育管理,展示方法などの運営ソフトを提供。世界初の地下岩盤内水族館を誕生させた。ホールには音響技術を駆使した音場シミュレーション室もあり,地域に密着した人気施設になっている。
もぐらんぴあ