みなさんは、﹁弱いロボット﹂という言葉をご存じでしょうか?﹁えっ、弱いロボット!?﹂﹁どうしてロボットが弱いの?﹂﹁暮らしに役立ってくれるのだから、弱くちゃダメなんじゃないの?﹂と、いろいろな感想を抱かれることでしょう。 この︿弱いロボット﹀の代表例は、自らではゴミを拾えないものの、まわりの手助けによってちゃっかりゴミを拾い集めるという︿ゴミ箱ロボット﹀です。二十年前に開催された愛・地球博に合わせたプロトタイプロボット展に向けたアイディアでしたが、あえなく書類審査でボツに!﹁人の手を借りないとゴミを拾い集められないロボットなんて、ロボットとは言えないのでは?﹂﹁それって技術者として、手抜きなんじゃないの?﹂﹁もっと未来志向の技術を提案してよ!﹂と当時の評価は散々でした。 でも、気になっていたのは、人の手助けを引き出してゴミを集めることができるロボットの﹁社会的スキル﹂です。こんなスキルを備えたロボットは、まだ世の中にないのではないか。あるとき、子どもたちの遊んでいる広場に運んでみると、いくつもの発見がありました。ヨタヨタと動きまわる︿ゴミ箱ロボット﹀を取り囲むようにして、子どもたちはなぜか嬉々としているのです。ロボットの気持ちを悟ったのか、あたりからゴミを拾い集めてきてくれる子どもたちも現れました。そうして、︿ゴミ箱ロボット﹀はゴミで一杯に!まわりの手助けを上手に引き出しながら、ゴミを拾い集めてしまう、そんな︿ゴミ箱ロボット﹀が生まれた瞬間でした。 よくよく考えれば、﹁あなたのために!﹂との強い思いは、むしろ相手の主体性や創造性を奪ってしまう側面もあるようです。これはサービスロボットや最近の生成AIにも当てはまることでしょう。﹁もっと便利なモノを!﹂との思いで、完全無欠な︿強いロボット﹀を目指してきたのですが、﹁便利すぎる生活もなんだか生き生きとした感じがしない﹂というわけです。その利便性は、私たちの主体性や創造性、あるいは﹁人らしさ﹂までも奪っていたのかもしれません。その一方で、ちょっと弱いところや苦手なところのある︿弱いロボット﹀はどうでしょう。﹁手伝ってあげるの、まんざら悪い気はしない!﹂というわけで、そのロボットの﹁凹み﹂は、私たちの強みや﹁人らしさ﹂を呼び起こしてくれるようなのです。 人とロボットとの間でも、お互いの主体性や創造性を奪うことなく、ゆるく依存しあう、そんなコンヴィヴィアルな︵=自立共生的かつ共愉的な︶かかわりはどうか。それは人とロボットに限らず、親子関係や教師と学生とのかかわりにも当てはまるように思えるのです。26KAJIMA202505おかだ・みちお 筑紫女学園大学副学長・現代社会学部教授1960年生まれ。1987年東北大学大学院博士後期課程修了。NTT基礎研究所、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)、豊橋技術科学大学教授などを経て、2025年4月より現職。専門分野は、コミュニケーションの認知科学、社会的ロボティクス、ヒューマン・ロボットインタラクション。主な著書に『〈弱いロボット〉から考える人・社会・生きること』(岩波ジュニア新書)、『〈弱いロボット〉の思考わたし・身体・コミュニケーション』(講談社現代新書)、『弱いロボット』(医学書院)など。vol.245