20KAJIMA202506外交官補としてドイツに駐在 1917(大正6)年,守之助は東京帝国大学法学部政治学科に進学した。在学中の1919年,高等文官試験行政科に合格,翌年大学を卒業し,高等文官試験外交科に合格した。そして,外務省に入省すると,通商局に配属され,ドイツ大使館から送られてくる公文書の翻訳を命じられた。 1922(大正11)年5月,守之助は外交官補としてドイツ国勤務を命じられ,在ベルリン日本大使館へ赴任することになった。赴任先へは米国サンフランシスコ,ワシントンを経由し,ニューヨークから大西洋航路のベレンガリア号で英国に渡った。そのとき乗船していた日本人は,鹿島組組長・鹿島精一,同理事の永淵清介と守之助の3人だけだったこともあり,お互い非常に親しくなった。後に精一らがベルリンを訪れた際,守之助を訪ね,市内を案内してもらっている。 第一次世界大戦で敗北したドイツの日本大使館に着任した守之助は,書籍を買い集め,資料を収集し,研究に没頭した。この頃から外交に関する論文を発表しはじめる。1924(大正13)年,本多熊太郎大使がウィーンから着任。守之助は毎朝ドイツの新聞を読み,内容を報告した。政情報告の起草なども任せられ,無修正のまま本省へ送られることもあった。 そうしたなか,クーデンホーフ・カレルギー伯爵の著書『パン・ヨーロッパ』を読み,感銘を受けた守之助は,本多大使の引き合わせでクーデンホーフ伯爵と出会い,親交外交官時代の守之助(1924年)タイトルバック:ベレンガリア号守之助は東京帝国大学を卒業し,高等文官試験外交科に合格。外務省に入り,その後外交官としてドイツ,イタリアに駐在した。第一次世界大戦終結から間もないヨーロッパでの6年の駐在を含む約10年間の外交官生活で,守之助は運命的な出会いや経験を重ね,やがて自らの理想を実現するために政治家を志す。第2回守之助の外交官時代ローマ日本大使館に赴任する。 ローマは美しい街だった。ふたりはイタリア語とフランス語を習い,フランスの文人外交官モーリス・パレオローグの著書『Rome※』を手引きに,一章訳してはそこに書かれている場所を訪ねた。後に卯女は「両親も親戚も使用人もいないところで,ふたりだけでなんでもしなければなりません。このときから夫との二人三脚が始まったのです」と,着いて間もないローマでの生活を述懐している。 1929(昭和4)年,守之助はジュネーブで開かれた第10回国際連盟総会に日本代表随員として出席。イギリスのマクドナルド,フランスのブリアン,ドイツのストレーゼマン,チェコスロバキアのベネシュという世界を動かす錚そう々そうたる政治家たちを目の当たりにした。彼らのパン・ヨーロッパについての演説を聞いて感動し,自分もパン・アジアの理想に邁進したい,そのためには政治家にならなければならないと強く決意した。 やがて守之助は,政治家になるため,1930(昭和5)年,帰国して外務省を退官,衆議院選挙に立候補する。 [第3回(8月号)に続く]鹿島組組長・鹿島精一(1923年)東京帝国大学時代の守之助(1918年頃)守之助,卯女,生まれたばかりの長女・伊都子とローマにて(1928年頃)鹿島守之助没後50年特別連載(全5回)ローマ駐在時代の守之助と卯女(1927年夏)※『Rome;NotesD’histoireetD’art』は,1966年その全訳が『永遠の都ローマ―歴史と芸術をたずねて─』(鹿島守之助・鹿島卯女編)として,鹿島研究所出版会(現・鹿島出版会)から出版されたを深めていった。パン・ヨーロッパは,EUの基礎となった思想である。守之助はアジアにも適用できると考え,パン・アジアの構想に大きな理想を見いだした。 ドイツの首相グスタフ・ストレーゼマンも守之助に大きな影響を与えたひとりだった。守之助は後に「私はドイツの日本大使館に勤務できたことを非常に幸いだと思っている。クーデンホーフ・カレルギー伯爵の政治理想・哲学やストレーゼマンの経済・政治に対する深い認識と強力な国民への指導ぶりは今でも感嘆措く能わざるものがある。私はドイツではじめて思想上の自己分裂を解消し,信念ができたように思う」と語っている。結婚とイタリア赴任 1925(大正14)年,守之助は突然の帰朝命令により帰国。本省欧米局勤務を命じられ,日英,日米外交史の調査・研究にあたる。ある日,鹿島精一の長女・卯女との縁談が持ち込まれる。大西洋航路での出会いで,精一が守之助を目に留めていたのである。「決して鹿島家と鹿島組をつぶすようなことがあってはならない」という母・とよからの戒めを胸に鹿島家の養嗣子となることを決意した守之助は,1927(昭和2)年2月に結婚,鹿島姓となった。守之助31歳,卯女23歳のときのことである。3等書記官としてイタリア国勤務を命じられていた守之助は,翌3月,卯女とともに在