私がドラマーとして活動していたバンドは、高校を卒業したばかりの女の子たちがオーディションで集まって、お互いに見ず知らずの、演奏もなんにもできない状態から始まった。一般にバンドは、めざす音楽があって、それをやりたい人たちが集まるものだけれど、私たちは好きな音楽もバラバラ。はじめのうちは用意された曲をおとなしく演奏していたが、これがまったく売れなかった。 このまま終わるのが悔しくて、皆で話し合った。﹁やっぱりオリジナルをつくらなきゃバンドじゃないよね﹂となって、それぞれに自分たちで曲作りを始めた。日中に仕事をこなしてから、夜は事務所に内緒でこっそりスタジオに入った。 転機となったのは、バンド名を﹁プリンセスプリンセス﹂に改名したデビュー1作目。メインのA面の曲よりも、メンバーが作曲し、私が歌詞をつけたB面の曲がいいという声が多く聞こえてきた。自分たちだけでつくったものが、初めて世の中に認められた瞬間だった。﹁やったーーー!﹂とまさに弾け飛んだ。 それから、私たちの音楽は、今までになかった面白いものになると自信をもってつくりつづけた。が、バンドは楽しいことばかりではなく、キツイ言葉も飛び交うし、喧嘩をしたら出ていきたくもなる。でも同時に助けられもした。ヒット曲として今も多くの方に歌っていただいている﹁M﹂の歌詞は、恋愛の結末を迎えた私が、家に帰りたくなくて、ボーカルの岸谷香さんの家で、彼女に﹁絶対いい曲にしてみせるから﹂と励まされ、泣きながら書いたものだ。 バンドは、皆で一緒の舟に乗っているようなものだと思う。ひとり漕ぐのをやめたら、バランスを欠き、全員が沈むという緊張感がある。青春を懸けて、皆で必死に漕いだ。13年間の活動を経て、バンドは解散した。 その後、2011年の東日本大震災をきっかけに16年ぶりにバンドを再結成したときに、ライブで目の当たりにしたのは﹁M﹂の曲の変化だった。 ﹁いつも一緒にいたかった﹂という恋愛の歌だったはずの歌詞のはじまりが、被災を経験された方々に向かって届いていた。曲が受け取り手の存在によって変わり、育てられるのを実感した。一度作品を送り出したら、作者は″詠み人知らず″の存在でいるのがいい。 やはり作詞も、ドラムも、私にとっての﹁つくる﹂はチームプレーだ。ライブでは、当日までにそれぞれが練習を重ね、磨き上げたものが化学反応を起こし、思いもよらないものが生まれる。そしてドラマーは、メンバー全員の背中越しにお客さんを観られる絶景のポジションで、それをまざまざと感じられる。ライブがうまくいった日も、思うように届かなかったなという日も、﹁今日も楽しかったね﹂と言って皆でビールを飲む。そのつくる苦労が楽しいのだ。26KAJIMA202506とみた・きょうこ(元プリンセスプリンセス) ドラマー、作詞家。ラジオパーソナリティ1965年生まれ、横浜市出身。1984年、バンド「赤坂小町」のドラマーとしてデビュー。1986年、バンド「プリンセスプリンセス」のドラマーとして再デビュー。1996年の「プリンセスプリンセス」解散後、2001年に結婚し、2人の男子をもうける。2011年、東日本大震災の復興支援の為、一年間限定で「プリンセスプリンセス」を再結成する。2017年、歌手の麻倉未稀と「ピンクリボンふじさわ」を設立。2020年、がん患者を支援する団体、NPO法人「あいおぷらす」を設立。ラジオパーソナリティ番組として、レディオ湘南「湘南ビートランド」、FMやまと「フロムキッチンサタデー」、TokyoStarRadio「富田京子の勝ち抜き!生歌オーディション!」が放送中。vol.246JASRAC出2502822-501