花火屋の長男として生まれた私は、幼い頃から火薬に囲まれて育った。花火を分解しては中の火薬を取り出し、遊び半分で燃やしてみる。時には大怪我をして、親や祖父にこっぴどく叱られたこともあった。それでも、花火にはどことなく魅力を感じていた。 ただ、子どもの頃から﹁お前は三代目だ﹂と言われ続けることには、反発心しかなかった。敷かれたレールに素直に乗るのはどうしても嫌だった。だから、高校を卒業すると迷わず県外へ出て、サラリーマンとして働いた。けれど、どこかで違和感があった。決められた時間に働き、決められた給料をもらう。幼い頃から職人である親の背中を見ていたせいか、そうした働き方にはどうしても馴染めなかった。自分の中にある﹁ものをつくる﹂ことへの渇望が、少しずつ形を成していった。 ﹁石の上にも三年﹂と、ある先輩と交わした約束を果たし、私は実家に戻る決意をした。家業を継ぐために、ではなく、﹁つくる﹂ことと向き合うために。今思えば、私は運命に導かれていたのかもしれない。国内で唯一、伝統的な線香花火を製造していた叔父の会社が廃業の危機であるという。迷わず手伝い始めたが、振り返れば、それがそのまま修行になっていた。そして、叔父の廃業と同時に、職人や道具などすべてを引き継ぐことになった。この出来事こそが、まさに自分の運命だったのだと思う。 線香花火は、単なる﹁火遊びの道具﹂ではなかった。わずか数十秒の間に、火の玉は成長し、花開き、そして静かに散る。その姿には、生きることの喜びも、儚さも、すべてが詰まっている。つくればつくるほど、その奥深さに惹かれ、自分自身がどんどん魅了されていった。 私は、線香花火の本当の美しさを、もっと多くの人に伝えたいと思った。線香花火には二種類あり、持ち手が紙縒りのタイプと藁スボ︵稲藁の芯︶のタイプ。後者は、米作りが盛んだった関西で、江戸時代、藁スボの先に火薬を付け、それを香炉に立てて火をつけて遊んだのが線香のようだったことがこの名の由来。その線香花火の原型である﹁スボ手牡丹﹂を守り続けるために力を注ぎ、入手困難な原料は自分たちでつくりだすことにした。持ち手となる稲藁を確保するために、農業も始めた。副産物の米を﹁花火米﹂として届けることで、火と命が巡るストーリーも形にした。気づけば、私は三代目として家業を継ぎ、線香花火の職人になっていた。でも、それは誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道だった。いや、むしろ線香花火のほうが私を選び、この人生へと導いてくれたのだと思っている。 火薬を弄んで怒られていた幼い自分が、この道を歩むことになるなんて、当時は想像もしていなかった。ただ、今ならはっきり言える。線香花火をつくることは、私にとって単なる仕事ではなく、生きる意味そのものだと。30KAJIMA202507つつい・りょうた 花火職人玩具用花火の製造販売所「筒井時正玩具花火製造所」(福岡県みやま市)社長。1973年生まれ、福岡県出身。高校卒業後、愛知県の自動車製造会社に就職。3年後、叔父が営む花火製造会社「隈本火工」に入社。その後、線香花火を受け継ぎ、2011年に三代目筒井時正を襲名。日本で唯一の国産線香花火を中心に、40種類以上の玩具花火を製造する。2021年TBS「情熱大陸」、2023年テレビ東京「世界!ニッポン行きたい人応援団」などに登場。vol.247