22KAJIMA202508事業の転換期を迎えて 1930(昭和5)年1月,イタリア・ローマ日本大使館在勤を最後に,帰国して外務省を退官した守之助は,衆議院選挙に立候補する。政界の革新と理想選挙を目指し選挙戦に挑んだが,その政綱は高遠過ぎ,準備不足もあって有権者の理解の得られるところが少なく落選。それを機に学究生活に入る。また,同年8月,長男・昭一が生まれる。 守之助は,国際問題や外交史の研究に没頭し,多くの論文・著書を発表,NHKラジオで国際問題の解説をするなどの活動を行った。これらの研究から得た豊富な知識と示唆・教訓が,後に鹿島の経営を行うにあたっての判断の基礎となる。 1934(昭和9)年,丹那トンネル完成後の鹿島組は,経営の堅実さを誇りつつも安定した収入源が見つからず,また同業他社は近代工法と経営管理の合理化により業績を伸ばしており,旧来の経営のままでは他社との競争から取り残されてしまうという深刻な状況にあった。 守之助は,自身が取締役に就任した1936(昭和11)年当時の鹿島組の状況について,『私の履歴書※1』の中で次のように記している。 「私が鹿島に関係したのは昭和11年4月からであるが,当時の鹿島組は明らかに大きな転換期に際会していた。私は,当時の京城支店長が言った次の趣旨の警告を今でもよく覚えている。『現在の鹿島組は大英帝国のようなものである。組長(鹿島精一)は非常に偉い人で,業界の第一人者であるが,鹿島組の実態は決してそれにマッチするものではない。今にして一大改革を行わないならば,その地位を失うおそれがある』。会社の復興を図るについて,私は,新鹿島組はまず緻密な経営と同時に構想は大きく持って世界的視野に立たねばならぬと考えた。そこで土建事業と会社経営に関する書物を日本だけでなく欧米各国からも集め,多くの専門家の意見を聴いた」。 そうしてまとめたものが「事業成功の秘訣二十ヵ条※2」であり,ここに一貫している思想は「進歩改良に精進する」ということである。時勢がどんどん進んでいく現代では「動的安定」しかなく,つねに積極的に進歩改良を心がけていかなければならない。この思想こそが守之助の事業観であり,人生観でもあった。社長就任の頃の守之助(1938年頃)タイトルバック:丹那トンネル西口坑門(1934年頃)守之助が経営にかかわり始めた1936(昭和11)年頃,旧来の経営のままで何も改革を行わないならば,鹿島は他社との競争から取り残されてしまうという深刻な状況にあった。「時勢がどんどん進んでいく現代では『動的安定』しかなく,つねに積極的に進歩改良を心がけていかなければならない」という思想のもと,守之助は事業改革に乗り出した。第3回守之助が行った改革と鹿島の飛躍新社長による経営方針 1937(昭和12)年副社長に,またその翌年の1938(昭和13)年社長に就任した守之助は,鹿島組の経営にあたって「科学的管理法」と「施工能力の増強」の二大原則を提唱し,実行していった。(1)科学的管理法 米独の工業能率の増進は科学的管理や合理化によるものであることから,鹿島組においても科学的管理法の適用が急務であるとした。その骨子は予算統制と経営比較からなる。つまり,予算統制の根本原理に基づき,請負事業に影響する諸条件を考慮して事業計画を立て,それを実行する。さらに計画と実行とを対比して成績を判断する。最も効果を上げたのは工事の実行予算による統制だった。実行予算を超えることがないかは会計の数字が示してくれる。実費と予算との対照により将来の会計に役立てた。会計上の数字で管理することにより事前に損得が判断できるため,工事中損失が見込まれるような場合でも対策を講じられるようになった。(2)施工能力の増強 施工の万全を期すには,技術と段取りが優秀でなければならない。施工能力増強のため「科学的施工」を必須条件として掲げ,具体的に,①いかに見積もるか,②運営費,③段取りの重要性,④いかに施工すべきか,⑤そのほか心得るべきこと,を明確化した。 また「営業政策の転換」が必要であると考え,土木部門は従来の鉄道工事だけでなく電力工事や鉱山工事も行い,建築部門を拡充して軍需工場の建設などに積極的に進出していった。鹿島守之助没後50年特別連載(全5回)主任会議(現在の経営総合会議)での記念撮影(八重洲本店ビル屋上)。2列目中央あたりに鹿島精一会長,その左が社長の守之助(1940年1月)

23KAJIMA202508事務主任会議で訓示する守之助(1941年2月)ジョンソン基地(現・入間基地)100万フィートコンクリート舗装完了記念碑の前で。左からゴーマン中尉,守之助(1948年頃)創業120年記念祝賀式典での会長・守之助の挨拶(1959年) 守之助は,鹿島組の事業そのものが将来いかに変化していくか,周囲の経済界はどう動いていくかを先見し,国際的に大観して生産力拡充の必要性と正当性を洞察していた。積極的な人材拡充と教育 この二大原則を推進していくためには前時代的だった経理の改革が急務だと考えた守之助は,1938(昭和13)年,塚田十一郎(後に郵政大臣,新潟県知事,参議院議員)を長崎高等商業から迎え入れ,彼の勧誘により商業学校などから簿記の教諭を採用,人材の確保にあたった。守之助が請負業に詳しい経理の玄人よりも素人の学校教諭を重視したのは,採用後に鍛錬し創意工夫に努力した者のほうが,科学的管理の実現に沿う社員になり得ると考えたからである。 給与については,つねに同業他社の情報を集め,他業種とも比較して平均水準以上の高給を堅持することが,守之助の経営上の固い信念だった。「高賃金,高能率によって世界最大の産業を築きあげたヘンリー・フォードこそ,新時代の経営者としての大道であるべきだ」。これは守之助がベルリン大使館在勤当時,有力な経済紙に掲載された「フォード論」に感銘を受け,その後フォードの自叙伝『わが生涯と事業』を読了して以来,心に銘記したひとつの理想だった。 1940(昭和15)年,守之助はあらゆる手段で優秀な人材を集め,育成するという方針を全社的に指示し,翌年には200人余りの社員を新規採用する。また,彼らに,土木建築請負業に関する実際的教育を施すため,第1回教習会を開催し,以後これを続けた。二人三脚で輝かしい発展の時代を築く  激動の戦中戦後の時代に,鹿島の事業は飛躍的な成長を遂げた。卯女との結婚から30年を迎えた1957(昭和32)年,参議院議員だった守之助は国務大臣に任命された。それに伴い,卯女が社長に,自身は会長に就任する。1959(昭和34)年,創業120年を迎えた鹿島は,激しく変化する時代の流れに即応し,社内機構を整備拡充するなど,より能率的な状態と合理的な組織に改革しながら大躍進を続けていた。 守之助は,著書『続わが経営を語る※3』の中で,「本書を鹿島建設前社長わが妻鹿島卯女に捧ぐ。偉大なる内助の功に深謝しつつ」と前書きしたうえで,この大躍進の時代を次のように振り返っている。 「私たちは過去30年来,平和な豊かな会社,強力にして創造的な会社を目指すばかりでなく,さらに高い,偉大なる会社を目指して,相互に協力し合ってきた。たんに当面の利害得失の問題のみに止まらないで,不況に対する繁栄の勝利,不和に対するチームワークの勝利,無知に対する英知の勝利を目指して進んできた。一言にして言えば,合理主義と人道主義に即した創造的な進歩と発展を目指して努力してきた。私たちが協力して経営してきたこの時代は輝かしい発展の時代と認められることを固く信じる」。    [第4回(10月号)に続く]※1 『私の履歴書』鹿島守之助著,鹿島研究所出版会,1964年※2 詳しくは,本誌2025年2月号11ページに掲載※3 『続わが経営を語る明日へのビジョン』鹿島守之助著,鹿島研究所出版会,1967年 戦後間もない1947(昭和22)年9月,連合国軍占領下にある日本を襲ったカスリーン台風は,各地に記録的な大雨を降らせた。16日午前1時,埼玉県北埼玉郡東村(現・加須市)の利根川堤防が決壊。毎秒1万4,000m3もの濁流が栗橋,久喜,幸手,越谷へと進み,19日未明には東京にまで流れ込むという未曽有の大災害が起きた。 緊急締切工事の特命を受けた鹿島組は,21日にトラック70台を連ね,総監督以下100人,作業員1,700人が現地に乗り込む。本店では推進本部を組織し,施工促進,資材,建築,輸送,計理,人事,情報連絡,同業者交渉,および衛生の9班を設け,それぞれ精鋭をもって任務を分担するなど,全社挙げての総動員態勢を固めた。 10月10日,「鹿島婦人会」による手作りおはぎ300個が現場に差し入れられた。鹿島婦人会は,1941(昭和16)年,当時監査役に就任した卯女が理事長となり,鹿島組はじめ関連会社の役員・社員夫人を会員として設立したものである。もち米を調達し,小豆はなんとか8升ほど買い求め,統制品の貴重な砂糖は各会員の家から少しずつ持ち寄った。文京区小石川関口町の社長邸で朝から作ったおはぎをトラックに積み込み出発したが,栗橋の検問所で止められる。見咎められたらおしまいである。真っ先に卯女がトラックから降り「不眠不休で緊急締切工事をしている人たちにお見舞いに行くところです。どうぞ通してください」と頭を下げ,ようやく通してもらったという。 工事の第一次締切工は上流より鹿島組,下流より内務省直轄。第二次締切工は上流が鹿島組,中流が間組,下流が内務省関東土木出張所担当だったが,予定より早く10月13日に当社担当分が完成したため,引き続き他組分担分の一部も受け持った。施工は超突貫工事で行われ,予定より1週間早く10月25日に締切完了。同日の竣工式では,内務省より「とくに上流の鹿島組に対しては深甚なる謝意を表すものであります。水深,流速等最も悪条件の難工事をものともせず,危険な作業にもかかわらず犠牲者をひとりも出すことなく,よく他組を指導し一致団結の実を発揮して予想以上の成果を上げ,この締切を完成したることに対して厚く感謝する次第であります」という感謝の辞が述べられ,後日感謝状が贈られた(この年の末,内務省は解体,翌年建設省などに業務を継承)。これは建設大臣が業者に感謝状を贈った初の事例となった。 東京への被害を最小限にくい止めるに至ったこの緊急工事のことを,守之助は生前,何度も誇らしげに語っていたという。利根川決壊緊急締切工事と鹿島婦人会column現場で陣頭指揮にあたる守之助建設大臣からの感謝状