20KAJIMA202510クーデンホーフ・カレルギー伯爵との出会い オーストリアの貴族,リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー(RichardCoudenhove-Kalergi,以下「クーデンホーフ」)伯爵は,守之助が生涯にわたって大きな影響を受けた人物である。守之助は彼の提唱するパン・ヨーロッパ論に感銘を受け,パン・アジアの形成を生涯の理想とするに至った。 1922(大正11)年,守之助が外交官補としてドイツの日本大使館に着任したばかりの頃,ベルリンの新聞二紙に発表されたクーデンホーフ伯爵のパン・ヨーロッパに関する最初の論説を読んだ。両紙はそれと呼応して創設途上にあるパン・ヨーロッパ連合のメンバーを募るために,ヨーロッパ合衆国の共鳴者へ広く呼び掛けていた。 ある朝,守之助は新聞でクーデンホーフ伯爵の著書『パン・ヨーロッパ』が刊行されたことを知った。早速手に入れ,閲読してその要点を本多熊太郎大使に伝えたところ,「クーデンホーフ伯爵ならよく知っているから,近いうちに紹介してあげよう」と言われ驚いた。本多大使がウィーン在勤中,伯爵はしばしば日本大使館に出入りしていたのだという。伯爵は,すでに「貴族論」「倫理と超倫理」「技術礼賛」などの諸論文を発表しており,著作はウィーンでベストセラーになっていた。 クーデンホーフ伯爵が夫人を伴ってベルリンに来遊した際,本多大使は夫妻を官邸でのお茶の会に招待し,守之助に引き合わせた。話題の中心は,パン・ヨーロッパとドイツ文学および演劇についてだった。クーデンホーフ伯爵夫人のイダ・ローランは,有名なウィーンの女優で,2つの劇場を持ち,経営の才にも恵まれていた。守之助が夫人に文学や演劇の話題を持ち出したところ,ツルゲーネフやドストエフスキーのロシア文学,ほかにイプセンやストリンドベリ,シュニッツラー,ホーフマンスタールなどの話になり,夫人は日本人である守之助がこれほどヨーロッパの文学に精通していることに驚いたという。パン・ヨーロッパ運動と著作の普及 クーデンホーフ伯爵は,歴史的に発展した個々の国家は将来その独立の存在を保つにはあまりに小さいため,国家連合として完成し,拡張しなければならないとし,今日,指導的な世界国家は,ソビエト連邦(当時),イギリス,アメリカなどの連邦国であり,ヨーロッパはこれに倣うべきであると説いた。さらに,パン・ヨーロッパという名称のもとヨーロッパ統合を提唱した特別な理由として,次の諸点を挙げている。第一は,ソビクーデンホーフ伯爵に第一回鹿島平和賞を贈呈する守之助(1967年)タイトルバック:「パン・アジアの碑」がある秋恵園世界的な思想家・政治家であるクーデンホーフ・カレルギー伯爵との出会いは,守之助の生涯の思想に決定的な影響を与えた。後にEUの理念の先駆けとなる伯爵が提唱したパン・ヨーロッパ論に守之助は深く感銘を受け,やがて自身のパン・アジア実現という理想にたどり着く。終生変わることなく尊敬をもち続けた伯爵との交流をみていく。エト連邦の軍事的・政治的侵略を防止すること。第二は,小国に分裂したヨーロッパは,巨大化したアメリカの経済に到底対抗し得ないこと。小さな店や工場が大企業に対抗できないのと同様である。第三は,ヨーロッパを26の小国の競争や紛争に委ねていたら,ヨーロッパ再戦は不可避であること。ヨーロッパの平和を確保するには,絶対にパン・ヨーロッパが必要だというのである。 あるとき守之助は,クーデンホーフ伯爵からパン・ヨーロッパについての講演会の招待状をもらい聴講した。以来,急速に伯爵と親しくなった守之助は,彼の著書『パン・ヨーロッパ』の翻訳を委嘱され,パン・アジアを結成するように勧められた。アメリカはすでにパン・アメリカが100年以上も続いてい鹿島守之助没後50年特別連載(全5回)クーデンホーフ・カレルギー伯爵が来日の折,鹿島守之助・卯女夫妻に贈った自身の写真。「われわれの親愛なる友人,鹿島守之助博士ならびに令夫人へ。われわれのすばらしい日本訪問の記念として」というメッセージと署名が添えられている(1967年)第4回クーデンホーフ・カレルギー伯爵との交流生家である永富家(兵庫県たつの市)の庭園「秋恵園」に建てられたパン・アジアの碑の除幕式にて(1973年)※1パン・アジアの碑に彫り込まれた守之助自筆の原文

21KAJIMA202510第一回鹿島平和賞授賞式にて(1967年)る。イギリスはその自治領とともに大英帝国を構成し,ソビエト連邦も連合体である。できていないのは,ヨーロッパとアジアだけだというのである。それから3年の間にパン・ヨーロッパ運動は急速な発展を遂げ,有力な政治家たちが公然とこれを支持するに至った。守之助は日本で最初にパン・ヨーロッパ運動やクーデンホーフ伯爵のことを,東京日日新聞や雑誌『外交時報』『国際知識』などで紹介した。そのときはほとんど注意を払われなかったが,ヨーロッパで広く論じられるようになるとやがて日本でも認められるようになった。守之助はドイツからの帰国後も『パン・ヨーロッパ』の翻訳を続け,1927(昭和2)年,訳書『汎ヨーロッパ』の刊行を果たす。 ちょうどその頃,守之助はイタリアの在ローマ日本大使館勤務となっていたため,着任以来旧交を温めていたクーデンホーフ伯爵とともに出版の報を聞いて喜んだ。そして自身もパン・アジア運動に邁進しなければならないと考えた。 戦後,守之助はクーデンホーフ伯爵の思想的傾倒者として,また多年にわたるひとりの日本の友人として,彼の著作を日本に普及させたいと念願し,全著作の翻訳権を得て,次々と出版していった※2。 さらに,これらを全部ひとまとめにして読者に提供することが必要だと考えた守之助は,新たな構想のもと,集められる限りの著作をとりまとめ,全集として編集し直した。そして鹿島研究所出版会より第1巻を1970(昭和45)年4月に刊行,翌1971(昭和46)年2月に第9巻を刊行し,ここに『クーデンホーフ・カレルギー全集』全9巻の完結をみた。この全集には既刊の全著作のほかに,その思想を知るうえで参考となる来日の際の講演会や座談会の記録,公式・非公式のメッセージなどもできる限り広く収録している。 全集はクーデンホーフ伯爵の透徹した史観と卓抜な洞察力に裏打ちされた思想が凝結されており,それは今日,ヨーロッパをはじめ自由世界の指導理念として,国際政治のなかにしっかりと根づいたものである。また,彼の人生観,世界観を含め,愛情,芸術,宗教,教育,倫理など人生百般にわたる事柄について,読者に深く語りかけてくるものがある。鹿島平和研究所の設立 1966(昭和41)年,守之助は私財を投じて,国際の平和と安全に関する研究を行うことを目的とした「財団法人鹿島平和研究所」を設立。その事業の一環として「鹿島平和賞」を制定し,毎年国際平和に貢献のあった内外要人に贈ることとした。1967(昭和42)年,第一回鹿島平和賞がクーデンホーフ伯爵に贈られた。伯爵は幼児期まで日本にいたため,実に71年ぶりの訪日となった。2週間の滞在中には,天皇・皇后両陛下,皇太子ご夫妻に謁見している。 1972(昭和47)年,クーデンホーフ伯爵が亡くなった。享年77歳。第二次世界大戦後にはフランスの国籍を取得,ドゴール大統領に信頼を置かれ,政治顧問のような役目を果たした。スイスを愛し,晩年はほとんどそこに住み,守之助への来信はパリよりもベルンからが多かったという。オーストリアのシュルンスが終焉の地となった。              [第5回(12月号)に続く]※1 守之助はパン・アジアを選挙のテーマとして掲げ,1930(昭和5)年,生家がある兵庫県第4区から衆議院選挙に立候補した。いわばこの地がパン・アジア運動の聖地というべき場所である※2 1958(昭和33)年から1968(昭和43)年にかけ,『実践的理想主義』『ヨーロッパ国民』『ヨーロッパにおける女性の使命』『ゼントルマン』『母の思い出』『ヨーロッパの統合』『ヨーロッパの三つの魂』『物質主義からの離脱』『世界平和への正しい道』『技術による革命』『悲惨なきヨーロッパ』『クーデンホーフ・カレルギー回想録』『人生の戒律』『倫理と超倫理』『美の国』など,多数のクーデンホーフ伯爵著作の翻訳書が鹿島研究所出版会から刊行された リヒャルト・クーデンホーフ伯爵の母は,青山光子という日本人である。リヒャルトの父ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵が日本のオーストリア=ハンガリー帝国代理公使として東京駐在時代に光子と出会い,1893(明治26)年に結婚,翌1894年,リヒャルトは夫妻の二男として日本で生まれた。 後に,リヒャルト・クーデンホーフ伯爵が自身の生まれた国である日本について書いた『美の国―日本への帰郷』(鹿島守之助訳)に次のような記述がある。「光子は1895年に,東京の聖堂で,大司教から荘厳な洗礼を受けた。すでにそれより以前,カトリック教の特例に基づいて,2人は教会で結婚式を挙げていた。こうして光子はクーデンホーフ伯爵夫人となり,オーストリア人となり,また外交団の一員となったのである」。 本国の外務省もこの結婚について了承し,ハインリヒと交代させるため,新任の公使を東京へ派遣した。1896(明治29)年,一家でヨーロッパへ帰国するのに先立ち,光子は皇后陛下に拝謁の栄に浴し,次のような令旨を賜っている。「あなたが行くのは,ヨーロッパでも指折りの強大国です。その名家の夫人となるのは楽しいこともあるでしょうが,その反面辛いこともあるでしょう。しかしいかなる場合にも,日本女性であるという誇りを忘れないようにしなさい」。 彼女はこの令旨を忘れず,祖国日本のために貢献した。1941(昭和16)年に69歳で亡くなるまで,ウィーンを訪れた日本の政治家,外交官,芸術家などの名士で,彼女の招待を受けなかったものはほとんどいなかったといわれる。母・青山光子と日本生まれのリヒャルト・クーデンホーフ伯爵column『美の国―日本への帰郷』リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー著,鹿島守之助訳,鹿島研究所出版会,1968年ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵と青山光子の挙式後の記念写真WikimediaCommons(PublicDomain)『汎ヨーロッパ』(国際聯盟協會,1927年)の初版『クーデンホーフ・カレルギー全集』全9巻(鹿島研究所出版会)は1970年から1971年にかけて出版された