バブル期を中心に日本全国につくられた公立の美術館・博物館は、﹁箱物﹂行政と批判されることがある。私が勤める和歌山県立近代美術館も、開館は一九七〇年と比較的早いものの、現在の新館が竣工したのは一九九四年のこと。工事を請け負ったのは鹿島建設ではなかったが、黒川紀章設計によるなかなかに尖った美術館建築のひとつだ。日本全国どこもかしこもながら、特に人口減少が加速する地方都市においては、こうした大きな﹁箱﹂への視線は時に厳しくもある。実際、当館も予算は年々減少し、財政的には困難な状況にあると言わざるを得ない。 しかしなぜ﹁箱物﹂が問題になるのかと言うと、それは中身がないままの前提だからだ。ならば箱の中身は何であり、また誰が詰めるべきものなのかを考えることなくして、この問題は解決しない。美術館においては、まずは美術作品、すなわちコレクションがその中身になるだろう。予算を使って体系的なコレクションを育てていくことは、その土地の歴史を積み上げていくために必要な活動であるし、あるいは館の活動を理解する市民からの寄贈もコレクションの充実には欠かせない。私たち学芸員は集めたものを調査研究し、また何を集めるべきかも考えていく。現在の当館の展覧会活動は、こうした先人たちの着実な仕事の上に成り立っているのは確かである。しかし今はっきりと感じるのは、コレクションだけでは箱は埋まらないという事実だ。 この時代に必要なのは、その箱を市民が活動する場として開くことである。それは言い換えれば、利用者が公共サービスの受け手という態度にとどまるのではなく、各地域のコミュニティにおいて自分はどう関わりを持っていくのかを、一人ひとりが考えるという責任だとも言える。目指すは﹁箱物行政﹂という言葉を使うことが、むしろ市民にとって恥ずかしくなる社会だ。ならば箱を管理する行政側は、市民活動を生み出す仕組みをつくっていくことに知恵を絞るべきだろう。 そうした実例として、当館で二〇一一年から毎夏開催している﹁なつやすみの美術館﹂という展覧会を挙げたい。この展覧会では学校教員と協力し、児童生徒が夏休みの宿題として使える鑑賞ワークシートを協働で制作するために、企画段階からテーマや出品作品について議論を重ねる場を設けている。一〇年ほど経った頃からだろうか、教員らに美術館や展覧会を自分事として捉える意識が芽生えていることに気がついた。また近隣の和歌山大学には﹁美術館部﹂と名付けた公式サークルを登録し、学生らが美術館内で自主活動できる仕組みをつくった。ほかにも、小学生向けの鑑賞会﹁こども美術館部﹂に継続して参加し、美術館が日常の一部になったこどもたちは、中学校に入るとスタッフとして活動するようになってきた。まだまだ紹介したい活動は多々あるのだが、紙幅の都合上、筆を措こう。 ただこうした活動をつくり出せたのは、他ならぬ﹁箱﹂があるからだということを、私は確信している。30KAJIMA202510あおき・かなえ 和歌山県立近代美術館主任学芸員。あらゆる人が関わるミュージアム像と、そこで生まれる人々の幅広いまなび、また地域とミュージアムの持続可能な関係に関心をもつ。コレクションを中心としたシリーズ展「なつやすみの美術館」における教育普及プログラムの立ち上げや、小学生対象の鑑賞会「こども美術館部」を企画。2022年からは、移民を多く輩出した和歌山県の歴史を背景に「和歌山移民研究を軸とした国際交流事業」を推進、全米日系人博物館(ロサンゼルス)を中心に連携を進め、地理的制約を超えたコミュニティの在り方を模索している。国際的なミュージアムの組織であるICOM国際博物館会議ではICFA(美術の博物館・コレクション国際委員会)に所属し、2022年からは欧米系ではない初の委員長として、ネットワークの拡張に努めている。vol.250