24KAJIMA202512リトルトーキョーの始まり ロサンゼルス市は1910(明治43)年頃に近郊都市と合併し,1914(大正3)年には人口45万人を擁する大都市となった。ダウンタウンに近い日本人街は,その頃から「小東京(リトルトーキョー)」と呼ばれ,家族経営の小売店や旅館は渡米間もない日本人や日系移民たちの心の支えとなっていた。1915(大正4)年,ロサンゼルスに日本国領事館が置かれ,新聞社,雑誌社,学校,私塾などができてくる。 1940(昭和15)年,ロサンゼルスの日本人は,一世,二世,三世あわせて約3万2,000人,アメリカ全体では約11万人の日系人が暮らしていたが,翌1941年末の日米開戦により,太平洋沿岸から立ち退かされ,強制収容される。その後,アメリカ政府は1945(昭和20)年1月から日系人の太平洋沿岸への帰還を許したものの,すべての日系人が元の場所に戻ってきたわけではなかったため,各地の日本人街は廃れていった。カリフォルニア移民の中心だったサクラメントの日本人街も,市街地再開発によって消えてしまい,各地で都市改造が進むにつれ,日系人は離散していった。 リトルトーキョーも例外ではなかった。日系人不在の間に街は荒らされ,建物は老朽化が進み,街の復興は思うに任せなかった。生まれ変わる時を迎える 1961(昭和36)年夏,リトルトーキョーにある都ホテルを取得して新ビルを建設しないかという話が住友銀行(現・三井住友銀行)から鹿島に持ちかけられる。都ホテルビル1階に住友銀行のアメリカ子会社である加州住友銀行の支店があった。鹿島守之助・卯女夫妻は,1か月半にわたる欧州・北南米視察途中だった1961年12月,リトルトーキョーを訪れた。 社長・鹿島卯女はこの時のことを次のように書き記している。「リトルトーキョーに隣接する都ホテルという瓦造の古いホテルがあった。住友銀行の支店はそこに入っていて,銀行の支店長の案内でそのホテルの屋上からリトルトーキョーを眺めた。ホテルは,住友銀行がよくこんな汚いところにいられると思うほどの古い汚いビルで,そこから眺めた日本人街は決して美しいとはいえない古い汚いさびれた町だった」※1。「前面には立派なシティーホール※2があり,警察などの建物が並び,その向かいに古い大きなフーバーダム(アメリカ)視察のときの守之助・卯女夫妻(1961年)1972年当時のリトルトーキョー本稿は『鹿島の軌跡歴史の中から見えてくるものがある』小野一成,伊東孝,倉方俊輔監修,鹿島建設刊(2021年)より転載(一部追加・変更)アメリカ最大の日本人街であり,ロサンゼルス市内の観光名所のひとつとして賑わうリトルトーキョー。しかし,戦後同地区はスラム化が激しく,存廃の危機に陥っていた。そのとき当社をはじめとする日本企業が立ち上がり,再生させていったことは意外に知られていない。のちに当社の開発事業・海外事業が躍進を遂げていく原点は,このときの守之助と卯女の判断にあった。停車場がある。広いパーキングには,何百台もの自動車が色とりどりに並んでいた。日本人街のほうは,日本語の看板がたくさん出ているが,なんともさびしい風景であった。長年培った日本人街,リトルトーキョーも今なんとか生まれ変わらねばならない時期ということであった」※3。日本人街は日本人の力で再建美化を 帰国後,守之助は住友銀行の堀田庄三頭取とともに,リトルトーキョー再建に立ち上がる。「ロスはその近傍に,カリフォルニア在留日本人のほぼ半数である約8万人が住んでいる日本文化の中心地である。そのリトルトーキョーを近代化して日本人の生活圏を擁護し,その四散を防止することは,急務中の急務」※4だと考えた守之助は,さまざまな反対や困難にもかかわらず再開発を断行する。日本は敗戦国かもしれないが,アメリカの日系人がそれによって貶められることのないように,ようやく日米対等といわれるようになってきたこの時代に「一方が貧民窟のようなところに住んでおり,一方が高度に近代化された高層ビルに住んでいて鹿島守之助没後50年特別連載(全5回)ロサンゼルスは米大リーグ・ドジャースの本拠地。大谷翔平選手の活躍により,リトルトーキョーはますます賑わうようになった。大谷選手の壁画は,この地区にある「都ホテルロサンゼルス」の東側の壁に描かれている(2025年)最終回リトルトーキョー再生都ホテルビル屋上で説明を受ける守之助と卯女(1961年)
25KAJIMA202512は,対等ムードなどは到底考えられないことである。リトルトーキョーの近代化なくしては,日米対等は考慮できない」※5。 当時の鹿島は,1955(昭和30)年にようやくわが国の建設業大手5社のひとつに数えられるようになったばかりであり,この頃の鹿島の実力からすると海外進出はかなりの冒険といわざるを得ない状況であった。しかし,守之助は「この地は近い将来きっと立派に再建される地域である。日本人街は日本人の力で再建美化しなければならない。鹿島建設としても米大陸への進出を考えねばならない時期である」※6として,進出を決意した。リトルトーキョー再生計画 1962(昭和37)年,リトルトーキョー地区再開発プラン作成プロジェクトチームがつくられた。当時,鹿島建設副社長の鹿島昭一(のちに社長)が常務取締役の土岐達人(建築設計担当)以下設計陣を動員し,リトルトーキョー再開発マスタープランを作成した。彼らプロジェクトチームに与えられた場所は東京のホテルの一室。イェール大学へ留学直前だった岡田新一※7は,出発の当日までここで作業に励んだ。のちにカジマ・インターナショナル社(KII)取締役となり,アメリカで建築家として活躍した高瀬隼彦もメンバーのひとりだった。まだ日本に「街づくり」「都市づくり」という意識のなかった時代である。当時としては,まれに見る大プロジェクトだった。このマスタープラン作成から,リトルトーキョー再開発の設計・事業にいたるまで,一貫して鹿島昭一が主導した。 計画は2か月余りで完成し,日系人商業会議所を通じてロサンゼルス市に寄贈され,高い評価を受ける。市はシビックセンターを拡大するため,すでにリトルトーキョーの一部を接収しており,取り壊して日系住民9,000人をメキシコ人居住地の隣に移動させる計画であった。それを,この再開発プランが実現するのであれば,リトルトーキョーを存続させるとしたのである。リトルトーキョーの存続と,そこにかかわる日系人の運命が鹿島の計画に委ねられた。 まず,現場に足がかりをつくるため,日系人がすでに設立していたファーストエンタープライゼズ社(FEI)に資本参加,1964(昭和39)年にKIIを設立する。会長に鹿島守之助,社長に渥美健夫(鹿島建設副社長,都ホテルビル屋上から見たリトルトーキョー(道路左側)(1961年)都ホテルビル屋上よりサンペドロ通りを望む(1961年)正面から見る都ホテルビル(1961年)都ホテルビル1階にあった住友銀行都ホテルビル屋上から見えるシティホール(市庁舎)(1961年)
26KAJIMA202512のちに社長),副社長に鹿島昭一と現地の日系人を代表する実業家であったジョージ荒谷氏※8が就任,住友銀行の堀田頭取を相談役に迎える。しかし,買収済みの都ホテルビルの居住者の立退きに2年を要した。加えて,敷地の一部を市の道路拡張工事に無償提供しなければならず,当初の計画に変更が必要となる。さらにベトナム戦争による金融市場の逼迫,金利の上昇は建設資金の調達をより困難にし,資材費や労賃の上昇を招いた。たびたび変更を余儀なくされ,その都度新たなプランがつくられた。 地元有力者は,立地条件が悪いからビルを建てても入居する企業がないだろうという。建物形状はシンボル的な日系人の拠点となる建物だから高層ビルがいい,いや,フロアあたりの床面積が大きいとテナントを集めやすいから中層がいいなど二転三転した。加えて,ロサンゼルスでは建物の有効面積1,000ft2(=92.9m2)に1台の駐車能力が必要である。これらの条件を満たし,アメリカの規格化された材料と工法を用い,なおかつ日本らしい雰囲気が求められた。 1966(昭和41)年9月,都ホテルビルともう1棟を解体し,地下1階地上16階の高層部と地下1階地上3階の低層部からなるカジマビルの建設が始まる。リトルトーキョーの拠点カジマビル 1967(昭和42)年11月15日,カジマビルの竣工式が挙行された。竣工式典を行わないアメリカでは,神主が神事を行う様子が珍しく,テレビ局や新聞社が取材に訪れ,思わぬかたちでのPRとなった。その夜カジマビルで開かれたカクテルパーティには,定刻前から招待客以外の大勢の客が詰めかけて長蛇の列となった。ビルの完成を,涙を流して喜んだ人もいた。 カジマビルは日本のビジネスセンターとなり,1∼5階が加州住友銀行ロサンゼルス支店,ほかにジェトロ連絡所,電通,法律事務所などが入居した。15∼16階には守之助が誘致を働きかけていた日本国総領事館が入ることになった。これは守之助のこれまでの功績なくしては成し得なかったことである。 カジマビルは日米の友好関係確立に貢献し,現地日系人の地位を向上させる一助となった。守之助は著書の中で「カジマビル建設は,日本の建設業界初の本格的対米進出という,私企業としての記録であるのみならず,国家的事業であることを強調したい。すなわち『カジマビル』建設,これを先駆とする『小東京』再開発に対するわれわれの参加は,ロサンゼルス市の偉大なる社会建設への協力であり,このことを通じて日米親善に寄与するとともに,日系人の地位向上により,真の日米対等の地位を築くという,崇高な使命に基づくものである」※9と記している。東洋と西洋の架け橋をめざして 次いで建設することになったのが,ホテルと商業施設である。1970(昭和45)年頃から検討を進め,1972(昭和47)年11月,ロサンゼルス市地域再開発局が公募した「リトルトーキョー再開発計画」に応募する。翌月,鹿島を中心とする日系グループ案が選定された。当初,鹿島は設計・監理だけを行うつもりだったが,中心企業が見つからない。そこで世話役を務め,向こう10年間は配当を期待しないで協力してほしいと各社を回った。ロサンゼルスにいた各社はこの開発に意義を感じ,協力を快諾した。鹿島,銀行16行,商社7社,4大証券,2大不動産の計30社が出資して,KIIによるデベロッパー会社「EWDC(EastWestDevelopmentCorporation)」が1973(昭和48)年9月に誕生する。社名は東洋と西洋の架け橋の意味を持つ。 再開発計画は,建物全部を調査して残すものと壊すものに分け,アパート,ホテル,老人ホーム,カルチャーセンター,ショッカジマビル竣工式。右から4人目に会長の守之助,中央に副会長の卯女,その左隣がジョージ荒谷氏(1967年)ホテルとショッピングセンターの建設予定地(道路左側)完成したカジマビル全景(1967年)
27KAJIMA202512 カジマビルとウェラーコートの間にあるモール入口には,鹿島守之助のリトルトーキョー再開発への多大なる貢献に対し,現地日系団体によって寄贈された感謝を表す銘板が設置されている。現地日系団体による感謝の銘板columnピングセンター,オフィスなどを建設するもので,地元の協力体制も徐々に生まれてきた。ホテルはニューオータニに決定する。日本の大手ホテルチェーンのアメリカ初進出だった。ホテルは1977(昭和52)年9月オープン。地下4階地上21階,延べ4万663m2,客室448室,レストラン・バー5か所,宴会・会議室8室のホテルが誕生した。低層部3階の屋上には1,500m2の日本庭園が設けられ,「ニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン・ロサンゼルス」と名付けられた。新たな道へ進むべく リトルトーキョーは活気を取り戻していた。ホテル内のレストランや宴会場では毎日のように日系企業,日系人社会の宴会が行われた。出張でアメリカを回る日本人は,ここに泊まると半分日本に帰ってきたように感じてほっとしたという。 1980(昭和55)年には,隣接するショッピングセンター「ウェラーコート」も完成する。30テナントには日本の有名店のロサンゼルス支店が軒を連ねた。日本料理店が並び,日本食をアメリカに広める一助となる。1984(昭和59)年のロサンゼルスオリンピックでリトルトーキョーの景気は最盛期を迎える。 リトルトーキョー再生は当社の開発事業の嚆矢であり,この貴重な経験こそが,今日の開発事業と海外事業の発展を導いた。のちに相談役となった鹿島昭一は,当時のことを振り返り,「海外の多様な事業展開の原点が,このリトルトーキョーの再開発であった」※10と記している。 2007(平成19)年末,EWDCは当初の計画を完遂させたとして,ホテルと商業施設を売却する。ホテルは2007年8月にキョート・グランドホテル&ガーデンズ,2012(平成24)年6月にダブルツリー・バイ・ヒルトン・ロサンゼルス・ダウンタウンとなるが,日本庭園はそのまま残っている。 1961(昭和36)年に鹿島守之助・卯女夫妻が見たリトルトーキョーは,姿かたちを変えて,今も日系人の心のふるさととして生き続けている。 [特別連載・了]ホテルのオープニングに集まった人たち。前から2列目,右から2人目が卯女(1977年9月)リトルトーキョー全景。中央左がウェラーコートショッピングセンター,奥がニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン,右がカジマビル。中央奥の建物がロサンゼルスのシティホール(1980年)リトルトーキョー再生に貢献したとして,S.ヨーテ市長より守之助にロサンゼルス名誉市民の楯が贈られた(1968年10月)※1 鹿島卯女「ロスアンゼルスとミネアポリス紀行」,鹿島建設月報1977年10月号,p.27※2 当時のロサンゼルス市庁舎。1927年竣工。地上28階建,138m。1968年までの41年間ロサンゼルスでいちばん高い建物だった※3 鹿島卯女「ロスアンゼルスと私」,鹿島建設月報1977年2月号,p.34※4 鹿島守之助「特別寄稿私の海外旅行」,『道はるか』p.63,鹿島卯女著,河出書房新社,1962年※5 同上,p.63∼64※6 藤井義之「カジマビルの竣工に寄せて」,鹿島建設月報1968年1月号,p.10※7 建築家。1957年鹿島建設入社,1963年イェール大学大学院を修了し,帰国後の1969年,独立して岡田新一設計事務所を設立※8 日系二世。カリフォルニア州サウスパークの大農園に生まれ,慶應義塾大学,スタンフォード大学に学ぶ。ロサンゼルスで貿易会社を経営。ミカサ陶器創立者,米国ケンウッド元社長。KII,EWDC,KUSA(KajimaU.S.A.Inc.)などの役員を務めた※9 『わが経営を語る』第3集,鹿島守之助著,鹿島研究所出版会,1971年,p.167※10 『リトルトーキョー再興』,鹿島建設「リトルトーキョー再興」編纂委員会,鹿島建設刊,2009年,p.4columnは,『リトルトーキョー再興』(上記に同じ)より抜粋した