クイズと教育を生業として数年の若かりし折、大好きな俳優さんのラジオにお呼ばれした。冒頭、手ずから作ったクイズを出してくれるという。 一問目は、﹁金閣寺を建てたのは誰?﹂。 彼女は京都出身、ご当地問題だった。しかし、その出身地から好きな動物まで知り尽くしていたはずの私は、緊張のあまり作為を勘ぐり、ひっかけだと決めつけた。 ﹁と、ということは⋮⋮大工さん、ですね?﹂ 正解は足利義満だった。その後のことは覚えていない。 悪意や不足がなくても、彼女の優しさがこもった正解前提の出題でさえも、受け手次第でうまく伝わらぬことがある。身をもってそれを証明してしまった私は、そこから多くを学んだ。講演やテレビ出演で伝える側に回る時は、とにかく誤解を避けるために作為を凝らした。言葉、表情、しぐさ。それはもう﹁統御﹂に近い。その場の主題をどう伝えるか、細部まで準備し実行する。要約、共感、笑い。時々の最適解を開演から終演まで積み上げていくのだ。 しかし、それでもなお、受け取り方まで統御しきることは不可能だった。作為通りに伝わる確率は確かに高まったが、人によっては﹁まぎれ﹂が起こるのだ。 ある講演会の中盤、ステージに腰掛けて話していたら、後日﹁観客の首が凝らないよう工夫していて凄い﹂と感心された。脚が疲れていただけだった。﹁伊沢さんが5問連続で間違える動画を見て、間違いが怖くなくなりました﹂と言われた時、私はその動画を何年も見返していなかった。怖かったのだ。 狙いを外れた意図せぬ学び。しかしそれは、失敗ではない。﹁狙っていない﹂無為の学びもまた、立派な学びだからだ。私の発言と明らかに矛盾しない範囲においては大歓迎である。なんなら私の作為よりも意義深いかもしれない。受け手が自らの手で発見し、前向きになった状態には、未来の学びをより深める価値があるのだ。 だからこそ、教育者に求められることは、作為の脇で生まれた無為の学びを排除せず、むしろ広げていく姿勢である。作為を凝らすのは職業人として当たり前。その上で、凝らした作為へと固執せず、無為の学びをどう未来に繋げるか、その場で考えるべきなのだ。 講演のさなか、私は問いかける。﹁このクイズ、どうやって解いた?﹂ある生徒は答えた。﹁隣の人に聞いた!﹂﹁お前じゃないんかい!﹂。大事なのはツッコミのあと。﹁彼はいつも教えてくれる?﹂﹁いや、あんまり﹂。関わりの薄い隣人と、その知の発見。彼らが次に何を話すかが大切で、どう促すかが私の仕事だ。 作為に満ちた講演資料を作り終えたら、私は無理にでもこう考える。﹁さて、今日は何が起こる?﹂30KAJIMA202607いざわ・たくしクイズプレーヤー 1994年茨城県生まれ、埼玉県育ち。開成中学校・高等学校、東京大学経済学部卒業。「全国高等学校クイズ選手権」で史上初の個人2連覇を達成。2016年に知的エンタメ集団・QuizKnock(クイズノック)を立ち上げ、現在YouTubeチャンネルは登録者数260万人を突破。2019年に株式会社QuizKnockを設立し、CEOに就任する。『東大王』『アイ・アム・冒険少年』など多くのテレビ番組に出演。全国の学校を無償訪問するプロジェクト「QKGO」では47都道府県訪問達成のほか、復興庁・内閣府の有識者会議への参加など、幅広く活動中。主な著書に『勉強大全』『クイズ思考の解体』。vol.259