かつてニューヨークにあったジャイアンツとドジャースはほぼ同時期,ホームグラウンドの老朽化により移転先を検討していた。その頃,アメリカ大陸を横断する航空便が発達し移動が容易になってきたため,西海岸もその選択肢に入った。1957年,先にジャイアンツがサンフランシスコに移転することがほぼ確実になった際,ナショナル・リーグの他のチームのオーナーらは,少なくとももう1チーム西海岸に移転するならそれを承認すると決めた。カリフォルニアへの遠征費を正当化する目的だった―。今回は数多くの日本人メジャーリーガーを生んだドジャースの物語を紹介する。6回 ドジャー・スタジアム―野球と都市の物語Photo:AP/Afloブルックリン時代のドジャースに社長兼GMとして招かれたブランチ・リッキー(1881―1965,写真右)は,1947年,ジャッキー・ロビンソン(1919―1972,同左)をドジャースに加入させ,メジャーリーグベースボールの差別撤廃という歴史的な決断を主導した人物だ。ロビンソンはその年に新人王を獲得,ドジャースはそこから4度のリーグ優勝を果たし,1955年にヤンキースを破って初めてワールドシリーズを制した。ニューヨークの愛すべき変わり者として親しまれていた労働者階級のための球団が,エリート球団を制した瞬間であった。10KAJIMA202609

Illustration:Collier’smagazine,September27,1952,pp.60–61Illustration:MechanixMagazine,July1956,pp.84–85ドジャー・スタジアムほど「球場にいる体験」を根本から見直したものはなかった。決して建築の最高傑作だとは言えないが、普通の建築でありながらよく考え抜かれ、初期の球場の精神が自動車の時代と出会い、ともに歩もうとする場所だったのである。PaulGoldberger,Ballpark:BaseballintheAmericanCity,p.168,2019同じ頃,共同経営者だったウォルター・オマリー(1903―1979)はブルックリンに新しいスタジアムを構想し,複数の設計者に設計を依頼した。そのひとつ,工業デザイナーのノーマン・ベル・ゲデス(1893―1958)が提案したのは,スタンドの下に映画館やショッピングモールを併設,5,000台分の駐車場を備えた巨大なスタジアム(上)。後の時代のそうした娯楽施設化したスタジアム,前号で紹介したロジャース・センター(旧スカイドーム)で実現した開閉式屋根システムを予見していた。 一方,思想家,構造家でもあったバックミンスター・フラー(1895―1983)は,球体の表面を三角形の構造材で覆う彼のトレードマークである「ジオデシックドーム」を架けたスタジアムを提案(下)。これも1965年にヒューストンで建設されたアストロドームを先取りしていた。 計画はロングアイランド鉄道の駅のそばを敷地に想定。オマリーはニューヨーク州の権力者ロバート・モーゼス(1888―1981)に,公共利用のために私有地を接収する都市再生法の利用を掛け合ったが,モーゼスはこれを拒絶。代わりに別の敷地を提示した。しかしオマリーは「ブルックリンでないのなら,どこでも同じだ」と断り,どちらも実現しなかった。11KAJIMA202609

Photo:UniversityofSouthernCaliforniaLibraries/Corbis/GettyImagesこの顛末の後の1958年,オマリーはロサンゼルスへの移転を決断した。同市はダウンタウンから1マイルほど離れたチャベス・ラヴィーン地区の140ヘクタールの土地を提供し,近隣のフリーウェイからのアクセス道路の整備を行うこと,そしてスタジアム建設はドジャースが行うという取り決めを交わした。 ただしチャベス・ラヴィーンは,長年,メキシコ系移民の居住区だったところを強制的に立ち退かせて住宅を建設,市が管理していた土地だった。ドジャースは,立ち退き令に従わずこの地に残った住民との熾烈な政治闘争に直面する。訴訟は最高裁まで持ち込まれたのちにドジャースの契約が認められるという結果になる。写真は1959年,スタジアムの建設のため強制退去させられる人々である。12KAJIMA202609

ポール・ゴールドバーガー PaulGOLDBERGER建築批評家。「ニューヨークタイムズ」紙の建築批評家として15年間活躍し,建築に関する執筆活動によりピュリッツァー賞を受賞した。「ニューヨーカー」誌の建築批評家を経て「ヴァニティフェア」誌の寄稿編集者を務める。著書多数。近著はBallpark,WhyArchitectureMatters,BuildingUpandTearingDown:ReflectionsontheAgeofArchitecture,UpfromZeroなどがある。ニュースクールで教を執るかたわら,建築,デザイン,歴史的保存,都市について全米各地で幅広く講演を行っている。ニューヨーク在住。坂本和子 KazukoSAKAMOTO東京生まれ。翻訳家。日米で建築を学び,建築設計・建築教育に携わった後,翻訳家として活動し,建築・デザイン分野の書籍,展覧会,ウェブサイト等の翻訳を数多く手がけている。最近の訳書に『建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー』(2024年,鹿島出版会)など。Photo:Emma_Griffiths/Shutterstock.comチャベス・ラヴィーンという土地は,3本のフリーウェイと丘陵に囲まれ,自動車依存が進みパブリックよりもプライベートな領域のほうが重視される地域で,まさにロサンゼルスを象徴する空間だった。 しかしオマリーは,同じカリフォルニアにあるディズニーランドに着想を得て「魅力ある公共空間」の概念を拡大したいと考えた。設計を依頼されたエミル・プレーガー(1892―1973)は,オマリーの望みどおり,広々として明るく,快適に観戦できる野球専用のスタジアムを実現した。 半分地面に埋め込まれたかたちで設置され,ファサードのほとんど見えない建物の外観は,他のスタジアムと比べるとかなり地味だ。しかし広大な駐車場の海に囲まれたこのスタジアムの真価は,地面より下にある中間階のゲートをくぐってからのすべての体験にある。5万6,000席のうち,柱で遮られる席はひとつもない。東側のサンガブリエル山脈の素晴らしい眺望,広い通路,広い座席,そして充実した食事を提供する売店。ドジャー・スタジアムほど「球場にいる体験」を根本から見直した球場はなかった。13KAJIMA202609pp.04–13 デザイン―江川拓未(鹿島出版会)