土木が創った文化

土木が創った文化・・・・・・第4回 「道路」 〜都市を繋ぐ動脈〜

開通時の名神高速道路山科工区。モデル工区での経験は,その後の日本各所の高速道路建設に生かされることになる。開通当初は,路肩に自動車を止めて記念撮影するなどのエピソードも残っている

未明の東京・築地の中央卸売市場は,都民の生活に欠かせない水産物や青果物,食肉などの生鮮食料品が全国の生産地から運びこまれ,活気付く。

静岡・焼津港や神奈川・三崎港などで水揚げされたマグロなどの水産物は,冷凍トラックで零下40度の状態のまま入荷し,群馬・嬬恋村などからは保冷車などで新鮮なたくさんのキャベツが届く。花卉もハウス栽培の普及で,四季を問わず出荷できるようになった。

「冷凍・冷蔵輸送の普及と高速道路網の拡充が,遠方の産地から鮮度や質の高い物品の運搬を可能にし,首都圏3,300万人の台所を支えている」と,東京都中央卸売市場広報副参事の石田望さん。中央卸売市場に集まった生鮮食料品などを新潟県などの東日本各地へ転送することもあるという。


急速なモータリゼーションの中,わが国経済の高度成長と豊かな暮らしを支えてきた高速道路。生産地から毎日の食材を運ぶだけでなく,地域経済や雇用に寄与する工業団地の立地を促し,人々の日常生活の足として,広域化するレジャーや観光の手段として貢献している。

既存の道路網と一体となって幹線ネットワークを形成することで,救急医療,災害時支援,迂回路機能の確保の面でも,「命の道」としての機能を果たした。私たちの生活は高速道路抜きでは成り立たなくなっている。

こうしたわが国の高速道路の先駆けは,名神高速道路の一部として1960年5月20日に完成した山科工区(京都市東山区)5,280mである。当社は,名神高速道路建設のテスト区間にもなったこの工事を担当した。1963年7月,山科工区を含む滋賀県栗東IC〜兵庫県尼崎IC間71.1kmが開通。高速道路時代の幕が開いた。名神高速道路は1965年7月に小牧IC〜西宮ICが全線開通している。

1969年には東名高速道路が開通して,物流の中心が鉄道からトラックに変わった。当社はその後も名神,東名のほか,中央,山陽自動車道など全国各地の高速道路建設を担当した。


現在の名神高速道路山科工区付近。京都東IC〜大津IC区間の1日当たりの平均交通量は,いまでは上下線合わせて約8万9,000台(2008年度)にも上り,自動車交通の大動脈になっている
 
金子益雄さん
大地滑り地帯に遭遇。難工事となった八戸自動車道鳥越工事
淡彩画を描いたころの山田高嶺さん

当社東北支店専任役の金子益雄さんは,東北・八戸・磐越・秋田自動車道など,東北地区の9つの高速道路工事に携わっている。「高速道路工事は切盛土工,トンネル,橋梁,跨道橋,用・排水工,舗装・・・など数多くの工種があり,まさに土木の総合デパート」という金子さん。「大自然の中を貫く一本の線を,いかに自然と一体化させるかが高速道路建設の大きなテーマになる」。要は自然との共生だ。

手掛けた最初の工事は,1973年の東北自動車道飯坂工事(福島市)だった。「当時の日本道路公団の設計図書は英語と特有の記号で表示され,辞書を片手に仕事をしたものです」。

最大の難工事は八戸自動車道鳥越工事(岩手県二戸市)だった。国道4号,東北本線,一級河川の馬淵川を跨ぐ長大橋と2本のトンネル,切盛土工など全長2.5kmの工事だが,大地滑り地帯に遭遇。「地滑りに対する土木技術のすべてを駆使して乗り切りました」という。

わが国はこれまで約8,800kmの高速道路を整備してきた。しかし,長期にわたる経済の低迷,国家財政の逼迫などから,高速道路整備の再検討が求められる一方で,輸送手段を自動車や航空機から環境負荷の低い鉄道に置き換えるモーダルシフトが進んでいる。

「道路の役割も価値観も時代とともに変わる。でも高速道路が果たした貢献は計り知れない。それを支えたのが私たち土木技術者だったという自負はある」と,金子さんはいう。


群馬県藤岡市の藤岡JCTで関越自動車道と分岐した上信越自動車道は,軽井沢,長野を経て新潟県上越市の上越JCTで北陸自動車道に合流する。延長204.3kmの高速道路である。1993年3月に藤岡IC〜佐久IC開通。1999年10月に全線開通した。東京から富山・金沢などを結ぶ最短ルートとなり,物流の動脈としての役割を担う。

群馬県下仁田町に住む山田高嶺さんが,建設工事の始まった上信越自動車道の淡彩スケッチを始めたのは1991年の夏ごろだった。「最初は荒々しかった工事現場が,次第に元の故郷の景色と融和してくる。そんな様子と工事現場の躍動感を記録したくなったのです」。金子さんのいう「一本の線の自然との一体化」の証明だ。

暇を見つけては工事現場近くに出かけた。黒のダーマートグラフで素早く骨太の輪郭を描き,淡い水彩絵具で四季の色を付ける。1枚を仕上げるのに30分ほど。「淡彩画は集中力で描く。でも集中力は長続きしない」からという。

藤岡,多胡,甘楽,富岡,妙義,下鎌田橋,横川,碓氷橋など,スケッチは結局,群馬県内の50地点を超えた。冬枯れた桑畑,奇怪な妙義の山並み,鏑川の穏やかな流れ・・・。山田高嶺さんの淡彩スケッチの背景には,甘楽谷津の情景があった。その一枚一枚に故郷を懐かしみ,故郷の未来を見つめる温かな思いがこもる。

「シロウトの絵です」と謙遜するが,山田さんの新上州姫街道を辿るスケッチは,富岡市での個展開催となり,新聞の地方版での連載に繋がった。

上信越道工事 上信越道工事
山田さんが淡彩画に描いた上信越自動車道建設現場。藤岡〜下仁田付近まで並行する国道254号は,かつての中山道脇往還「上州姫街道」である。善光寺参りの女性に多く利用されたという
大塚一雄さん 

当時,上信越自動車道は長野新幹線とともに,長野五輪のアクセス整備として急ピッチで進んでいた。藤岡〜佐久の区間で当社が担当したのは,富岡大島工区と碓氷橋である。そのいずれも山田さんはしっかりと記録していた。

土木管理本部土木工務部橋梁グループ長の大塚一雄さんは,碓氷橋東(PC上部工)建設に設計兼工事主任として携わった。碓氷橋はJR信越本線,旧国道18号,霧積川,碓氷川上を横切る約1.3kmの高架橋で,当社はこのうちPC中空床版橋とPC斜張橋を担当した。

「碓氷橋は,妙義山の姿が映える美しいPC斜張橋になりました。住民の関心も高く,現場に見学者用の案内所『斜張室』を設置したほどです」と,大塚さんは当時を振り返る。高速道路橋としては初めて採用された本格的な一面吊りのPC斜張橋で,高さ113mの曲線を生かした逆Y字型の主塔は,同自動車道のシンボルタワーになった。1989年6月に着工,92年12月に完成している。

大塚さんは軽井沢や長野方面に行く時など,いまもよく利用するという。「交通量も多く,便利に使われているのを見ると嬉しくなりますね」。

大塚さんが携わった上信越自動車道碓氷橋建設現場

今年山田さんは83歳になった。50枚の淡彩画はいまも大事に保存している。山田さんが「クマやシカやサルの棲みか」などと茶化していた下仁田界隈も高速道路の開通で,すっかり“近代化”していた。「マイカーで高崎方面への往来が至便になり,特産の下仁田ネギやコンニャクの知名度も上がりました」。

山田さんが描いた「道」は,嬬恋村発東京市場行き“キャベツ特急便”のメーンルートにもなっている。

碓氷橋は2径間連続で橋長220m,橋脚高52m,主塔の高さ65m,橋体幅21.4mの斜張橋である。東京圏と北陸地方を結ぶ最短ルートとして,観光や物流の動脈の役割を担う