鹿島紀行
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第8回 筑後大堰

〜暴れ川を治める/流域住民の膨大な汗と英知と〜
 日本で最も干満の差が激しい有明海。場所によってその差は6mにもなる。干潮時,海は沖合い数キロも後退して,ムツゴロウの棲む泥の干潟が出現する。満潮になると,海は川の水を押し戻して,内陸の奥深くにまで浸入した。
 海と陸との境目に住む筑後川下流域の農民は,長い間「アオ (淡水)」の利用で水田を養っていた。満潮時,川は比重の重い海水を下にして,真水はその上に乗って逆流する。この真水だけをクリークに掬(すく)い取る技術を農民は編み出したのだ。これが「アオ」である。

 筑後川は阿蘇の外輪に源を発し,熊本,大分,福岡,佐賀の四県を流れて有明海に注ぐ延長143km,九州随一の河川である。暴れ川として知られ,江戸期以降の400年間に189回もの洪水を起こしている。特に1953年(昭和28年)6月の豪雨は流域に記録的な被害をもたらした。福岡,佐賀県下の21ヵ所で決壊,久留米市全域を水浸しにさせたのである。当社九州支店は建設省九州地方建設局から特命発注を受け,決壊した堤防の応急仮締切り工事を担当。災害の傷跡も凄まじい現場に直行して,昼夜兼行の復旧作業に取り組んだ。その後本工事を受注し,1955年までに堤防工事を完成させている。
 それから4半世紀以上を経た1984年5月,河口から23km地点の福岡県久留米市に完成したのが筑後大堰だった。総貯水量550万m3,総延長501mの可動堰である。これにより洪水と塩水逆流を防止しただけでなく,灌漑用水と水不足が深刻化していた福岡市などへの都市用水の供給が確保されたのだった。
筑後大堰全景。完成により暴れ川・筑後川の治水と利水は完結した(写真提供:水資源機構)
 九州支店管理部安全環境担当部長の中山三生さんと一緒に筑後大堰に立った。地元の人はこの大堰を「ちっご大堰」と呼ぶ。満々と水を湛えた筑後川は大河の風格をみせ,大堰の管理橋を忙しげに車が行きかっている。河川敷は公園やジョギングコース,ミニゴルフ場が整備された。
 大堰上流の広大な貯水池を利用して「イカダフェスティバル」などさまざまな催しが行われるようになり,1990年の国体ではカヌー競技の開催場所にもなった。中山さんも夫人の実家が近いこともあってよくここを訪れるという。「暴れ川もいまは静穏でのどかな佇まいになりました」。梅雨の晴れ間の川面を見やって,中山さんがつぶやいた。
 大堰のゲート脇の柱には,施工に携わった建設会社などの名前が刻まれたブロンズのプレートが設置されている。「稀に見る大工事だったので,お願いして作らせてもらったのです」。中山さん自らのデザインという。
堰の右岸に設けられた魚道
久留米市内の筑後川沿いにある水天宮。全国の水天宮の総本山である。筑後大堰工事の安全祈願もここで行われた
施工に携わった建設会社などの名前が刻まれたブロンズのプレート
 1978年,中山さんはアルジェリアのセメント工場での2年に及ぶ技術指導を終え帰国した。待っていたのが水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)の筑後大堰建設だった。計画段階から現場事務所の工務係長を命じられ,以後完成後の資料整理・作成までの6年余を筑後大堰と関わることになる。
 しかし建設には多くの難題があった。治水対策とともに,水不足の福岡市からの分水要求も急を要したが,一方で有明海に海苔養殖の漁場を持つ漁民らを中心に反対の声が上がっていた。堰建設で栄養分に富む川の水が遮断されるという心配だった。施工業者の一員として,中山さんは施工計画の変更など,その隘路で悩むことになった。
 1979年に公団は準備工事に踏み切ったが,反対運動の激化で間もなく中断。本格着工は80年末にずれ込んだ。工事は6月から9月の洪水期にはできない。工事中も川の機能維持のために水量を狭めるわけにはいかない。工期も実質3年強という制約があった。難しい工事だった。
 1期工事6月の集中豪雨では水位が急上昇して,現場の仮締切りの上端まであと50cmという危機に直面した。「決壊する前に一部を切って水を逃がすかという瀬戸際でしたが,水位の上昇具合や降雨量などから判断して“待ち”に出た。賭けでした。駄目だったらすべてやり直しだったのですから」。
 工事は河道整備や堤防構築をした上で可動堰を設置する。堰のゲートを上下することで流量を調節するとともに,平常時には堰を締め切って海水の浸入を防ぎ,堰き止めた川の水を農業や都市用水として利用するのだ。
 堰には5門のゲートのうち両サイドの2門に,2段扉のゲートが採用された。これによりゲートの下から流れる水の制御の精度が増し,水の栄養分の拡散を防ぐことができる。「最も懸念された海苔への影響はほぼ避けられました」と中山さんはいう。
 堰の左岸に水資源機構筑後大堰管理所がある。堰の管理とともに,市民や子供たちへ水と生活に関する啓蒙活動などを行っている。
 子供たちの関心は専ら魚の遡上などのようだが,所長の長瀬修さんによると「最近ではゴミ問題への意識が高くなっている」という。流木などに加えて,流域都市部からのゴミがある。ボランティアの市民と管理所の職員がクリーンナップ作戦を展開している。
 「毎年春には多くのアユが遡上するほか,1992年から99年にかけての閘門式魚道調査では,51種類の魚類が確認されています」と長瀬さん。一方,堰上流部で取水し導水することで,大堰下流域ではかつてのアオ取水の苦労がなくなった。クリークから水田にアオをくみ上げる足踏み水車の風情も消えた。水資源機構では筑後川からの合口取水事業を進め,下流域の用排水系統の再編成を行っているという。
筑後大堰建設時の中山さん
筑後大堰
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 アオ採取で水田の水確保に腐心した下流域を含め,筑後川はひとたび氾濫すれば農耕地を一夜にして荒地に変える「一夜川」だった。筑後川の歴史は洪水と旱魃との闘いであり,古くから流域住民による河川改修が行われてきた。
 そのひとつが福岡県朝倉町の山田堰と堀川掘削である。筑後大堰を遡上すること約25km。ままならぬ川を押さえ込もうと,農民が必死の思いで築いた堰と堀だった。江戸中期,いまから250年以上も前のことである。
 山田堰はいまもほぼ当時の姿そのままにある。畳1帖ほどの大石を川幅一杯に敷き詰めている。堰は川に対して直角には築かず,斜めに三角状になだらかに石を積み上げている。このため水を無理なくコントロールできる。脇には2つの船通しも設けられた。
 まさに芸術品の趣だが,農地灌漑技術を総結集した農民の汗と知恵の結晶であることは,容易に察することができる。総石張りの堰に使った石の量は実に32万m3,実働人員は延べ62万人。その恐ろしいまでのエネルギーが,今日までこの堰を生き続けさせてきたのだろう。堰は朝倉郡山田堰土地改良区の人たちが管理していた。上流の治水ダムや筑紫大堰の完成で暴れ川も静かになったが,先人の残した堰をこれからもしっかり守っていくつもりという。
 山田堰右岸から取水されるのが堀川用水。新田開発と渇水対策に掘削した灌漑用水である。その堀川に江戸時代そのままに三連水車,二連水車が回っている。日本最古の実働水車でもある。
 茶褐色の菱野三連水車は田園の中を爆走するSL三重連のように力強く,威風堂々の存在感を示していた。毎分の吸水量は6100リットル。汲み上げた水は樋に落ちて2つの枡に導かれ,農道下の土管を通って田に噴出する。サイフォンの原理である。この水車群で35haの田の水をまかなうのだ。
 水車の規模,揚水量,複雑で堅固な仕様・・・。日本水車協会の話では,どれもが日本の水車技術の最高点にあるという。水車が稼動するのは水稲の作付け期だけだが,近頃は水車の迫力に魅了された観光客の姿が目立つ。冬の間は解体して保管される。今年は6月16日に据え付けを完了。ダイナミックな容姿を緑の田園に甦らせた。
 地元の水車大工がこの技術を受け継ぎ,管理をしている。「水車が止まれば水田が干上がってしまう」と,組立て後も毎朝の見回りを欠かさない。日の脚(スポーク)の回転に目を凝らし,柄杓と水の噛みあう音に耳をそば立てるのだ。
石組みの山田堰。農民の知恵と汗の結晶である
山田堰脇の水神社境内にある「水害復旧碑」
力強く水を汲み上げる菱野三連水車
汲み上げた水は樋に落ちて,2つの升に導かれる
 坂東太郎の利根川,四国三郎の吉野川と並ぶ暴れ川・筑紫次郎。その中流域には山田堰のほか,袋野堰,大石・長野堰,恵利・床島堰がある。これらの堰が筑後平野の水利用と制御の主役になり,下流部の筑後大堰の完成によって筑後川の治水と利水は完結した。
 しかし油断はならない。日本の自然は気まぐれで,時になお想像を超えて凶暴化する。この変化し続ける気象パターンの中で,日本人は生きていく宿命を負っている。
 「住民に安全と安心をつくるのが私たち建設業の使命。筑後大堰の完成後一度も洪水被害を出していないことが,工事に携わった私たちの何よりの誇りです」。そんな中山さんの言葉が心に残っている。鹿
筑後大堰