シリーズ100年をつくる会社(10): 1965(昭和40)年は、不況による大型倒産が相次ぐ幕開けとなった。これに対し政府はその打開策として抜本的景気振興策を打ち出し、これが契機となって日本経済は完全に息を吹き返した。翌1966年1月、渥美健夫が社長に就任。国際化と労働力不足の中で建設業が従来型請負業から脱して日本の近代化に積極的に貢献する機能産業に変わっていかなければならないというビジョンのもと、当社では経営革新と技術革新が展開された。そして創業130年にあたる1968年7月、東京・元赤坂に本社ビル第一棟が完成した。
1950年後半から60年代にかけて、日本の臨海地帯の地図は大きく書き換えられた。特に東京湾の東沿岸部約67kmに及ぶ京葉工業地域では、港湾、工場、事務所、社宅等の多くを当社が施工した。既に徳山・岩国・新居浜・堺等臨海コンビナート・製鉄所を手掛けてきた当社の実績が生んだ結果であった。また造船技術の進歩に伴い、各地に巨大ドック建設ブームもおこった。渥美社長は、臨海地域における鹿島の大躍進を、「第一に技術力・第二に土木・建築の総合力、第三に、過去に行った工事に対する高い評価、つまり信用力だ」と説明している。
人口の都市部への集中は交通・輸送革命を引き起こし、高速道路や新幹線鉄道網の整備ビジョンが次々と打ち出され、当社も数々の施工にあたった。更に都心化の急速な進展により大都市では都市改造が図られる。ここでも当社は、電力管路や地下鉄、上下水道工事において、軟弱地盤を克服するシールド工法を本格的に採用し、「技術の鹿島」として先陣を切ったのである。
1968(昭和43)年4月12日、この日は日本建築史上、また当社の歴史上、特筆されるべき日となった。高さ147m、地上36階、日本初の超高層建築「霞が関ビル」の竣工である。日本開国の夜明けに英一番館を築いた当社は、明治100年にあたるこの日、新たな金字塔をうちたて、今なお「超高層のパイオニア」の冠を得ているのだ。
この時代はまさに日本経済が急速に発展し、当社の活躍の舞台も土木・建築・海外と多岐にわたった。既に原子力発電工事でも先鞭をつけていた当社は東京電力福島原子力発電所の施工にあたり、以後この分野でもリーディングカンパニーとして今日に至っている。
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