鹿島の軌跡
鹿島の軌跡
第1回 辞令の持ち主たち
当社の古い資料の大半は,震災と空襲で失われた。そのため,昭和41年,『鹿島建設130年史』製作時に大規模な資料収集を行っている。
その後も継続的に資料収集が行われ,総務部本社資料センター(旧・社史資料室)に集められている。
今月から連載する「鹿島の軌跡」,第1回は辞令とその持ち主の足跡を探る。
明治時代の辞令
 現存する当社最古の辞令には,明治22年7月1日とある。墨痕鮮やかで紙質もよく後の時代のものよりも新しく見える。当時鹿島組は鉄道工事全盛期。この辞令の主,芳田鏡三郎(後の星野鏡三郎)は東北線盛岡前後の工事の代人で,当時28歳。後に碓氷峠の工事も手がけ,鹿島の三部長として名を馳せた人物である。
 鏡三郎は,安政6年姫路藩上屋敷で藩士の三男として生まれた。明治維新で父が失職し,女中の実家だった浅草の瓦屋に身を寄せたところを鹿島岩吉に見出され,11歳で鹿島方の丁稚となる。18歳で地方出張所の会計を命ぜられ,独学で代人の地位を築いていった。
 明治22年といえば,大日本帝国憲法が発布された年であり,パリ万博でエッフェル塔が建てられた年でもある。当時組員は本店で30人程度。建設業は「請負」と言われていた時代で,仕事は労務管理が中心。当時の請負業で辞令を出すということはかなり進歩的なことであった。
14歳の星野鏡三郎と29歳の鹿島岩蔵(明治5年)
現存する当社最古の辞令 芳田鏡三郎(明治18年ごろ)
旧幕臣鹿島に入る
 明治33(1900)年,中島貞勝は月俸15円という高給で迎えられた。教員の初任給が11円の時代である。中島は旧幕臣で,榎本武揚と共に五稜郭で戦い,徳川慶喜について駿河に渡り,政財界人と交流があった人物とされている。
 入社して2カ月後,中島は台南出張所詰を命じられる。当時の台湾は,明治28年4月の下関条約(日清講和条約)によって日本の統治下にあった。台湾縦貫鉄道の建設が始まり,鹿島組は台南出張所を拠点に南部線と中部線の工事に携わっていた。「中部地区72キロの軍命令の促進工事が発注された。昼夜の別なく奮闘した結果,この工事は明治38年5月16日,予定より早く完成した。バルチック艦隊が台湾付近を通過したのはそれから旬日を出なかった。」*台湾縦貫鉄道は明治41年全線開通する。
月俸15円の辞令
国内最長の鉄道橋を建設
 明治43(1910)年の加藤澤吉は高給だが日給。最初は試傭期間のため日給月給であり,1年後に月給30円となった。ちなみにこの時代の辞令は,基本事項は印刷で日付や氏名など必要事項を筆で書き入れる形式になっている。
 加藤澤吉は鉄道院の土木技手で,橋梁桁架けの専門家だった。彼が入社したおかげで,当時土木請負業者には無理といわれた桁架けを鹿島組が受注することができた。その阿賀野川橋梁は4,077呎(フィート) (1,240m),当時国内最長の鉄道橋といわれた。工事は困難を極め,何度も襲う洪水が足場を崩す中,降雪中も防雪設備を施して進められた。また,ここのあたりはダニの一種恙虫(つつがむし)が多く,工事従事者に感染被害が広がり,鹿島の工事主任がツツガムシ病で殉職している。
日給1円の辞令
阿賀野川橋梁(新発田線。現・羽越本線)4,077呎,径間200呎構桁4連,径間70呎鈑桁10連,径間40呎鈑桁56連。橋脚数69。鉄道院発注。明治43年9月〜明治44年12月請負金額339,680円 
時代背景とともに変遷
 その後,辞令は時代の変化,会社の成長とともに変遷していく。
 田井慎一郎は大正8(1919)年の入社から昭和41(1966)年に土木業務部第一部長で退職するまでのほとんどすべての人事・経理・現場関連の書類を当室に寄贈しており,その時代を知る上での貴重な資料となっている。
 その田井の辞令で見ると,株式会社の表記は昭和5年2月の株式会社設立から遅れること4年,昭和9年になってから。昭和20年7月の辞令のみ洋紙罫紙に筆書なのは,戦災で辞令の用紙も焼けてしまったからかもしれない。翌21年5月には,筆書の印刷に戻り,戦災後の当社が着々と復興していっていることがうかがえる。
 その後,昭和38(1963)年に縦書き帳票の印刷について「社内信を近く横書きに統一する予定(6月1日)なので,現在手持ちの縦書き帳票の印刷は停止されたい」との通達が出され,社用文書も横書きが主流の時代に入る。辞令も昭和41年に横書き和文タイプとなり,その後,ワープロを経て,現在のパソコン打ち出しのものへと変化していくのだった。
昭和20年7月の洋紙罫紙に書かれた辞令 田井慎一郎が大正時代に従事した現場の一つ,小湊鉄道(写真は月崎隧道坑内コンクリート打ち)


*藤村久四郎「台湾の建設四十七年史」昭和47年
本企画では,元号表記の方が理解しやすいと考え,すべての年号に西暦を併記することは控えました。