シリーズ100年をつくる会社(5):
戦時統制経済下の混乱,そして終戦  
             〜1941〜1945年

 1937(昭和12)年の日華事変をきっかけに日本は長期にわたる戦争へ突入した。そしてついに1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発。戦時という異常事態の下、揺れ動く経済社会の中で、工事は軍需関連の工事に大きく推移し、繁忙を極める。そして、1945(昭和20)年8月15日、終戦を迎えた。


  1938(昭和13)年、国家総動員法が施行され、戦時経済体制が一段と強化されると、不要不急の建築は排除され、一般の民需建築は制限されるようになる。そうした情勢の中、鹿島組は当時の産業報国の時流に沿って工場建設、鉱山開発、土木工事などに従事した。また、台湾・朝鮮・満州においても、戦時経済の下で市場は更に拡大していった。特に、満州では土木・建築工事の飛躍的増大に伴い、1940(昭和15)年、株式会社満州鹿島組を設立した。

厳松発電所
日本発送電 厳松発電所(北海道) 1939(昭和14)年〜1943(昭和18)年

華川ダム
漢江水力電気 華川ダム(朝鮮)1939(昭和14)年〜1945(昭和20)年

 1941(昭和16)年、太平洋戦争が開始されると、産業界では一段と軍需生産の増強が要請されるようになる。当社も東京芝浦電気の京町工場・川崎工場、日立製作所清水工場、古河電気工業平塚工場他多くの軍需関連工場を手掛けた。統制経済の強化と相まって資材・労働力の不足、輸送の不円滑、食糧・衣料もままならない等、幾多の困難と闘いながらの工事であった。またこの頃、直接軍発注による工事も多数に及んだ。松代大本営を始め、市ヶ谷大本営陸軍部の地下工事、海軍江田島兵学校等を施工した。

日立製作所清水工場
日立製作所清水工場(静岡) 1943(昭和18)年〜1944(昭和19)年

 海軍兵学校江田島校舎
海軍兵学校江田島校舎(広島)1941(昭和16)年着工

 戦争の激化に伴い、応召あるいは徴用される社員も多数に上った。1945(昭和20)年5月25日には京橋本社が空襲のため焼失。本社各部は急遽、渋谷松濤の仮事務所と軽井沢分館とに分散して執務することとなり、戦局を見守った。  

 出征社員の武運長久祈願
出征社員の武運長久祈願(明治神宮)
応召・応徴された人数は1943(昭和18)年には社員総数1,900名のうち2割強の458名に上った

 そして、8月15日、終戦の詔勅が放送された。各現場も現場もほとんどが工事中止となった。終戦によって平和はよみがえったが,当社は多数の優秀な社員と莫大な外地資産を失い,復興には果てしれぬ困難が予想された。まさに廃墟からの出発となったのである。