シリーズ100年をつくる会社(4): 1938(昭和13)年7月、鹿島組会長に鹿島精一が,社長に鹿島守之助が就任した。国際政治・外交史の学者としても名高い守之助は、経営者として優れた手腕を発揮し、創業以来の伝統を受け継ぎながら、時流に乗った新しい発展へ鹿島組を導いた。
1931(昭和6)年頃から、鹿島組の業績は急速に下り坂になっていく。鉄道・水力発電工事以外に事業の多角化として開始された建築工事も、上野駅・東横百貨店・跡見女学校・東洋オーチス工場など特徴的な建物を施工したが、全てが採算に合った工事とは言えなかった。1934(昭和9)年の丹那トンネル完成以降、安定した収益源を失った鹿島組は一層厳しい経営状況に陥っていた。
そのような時期に、陣頭に立ったのが鹿島守之助であった。1936(昭和11)年より取締役に就任した守之助は、以前から経験と勘に頼りがちな経営と、受身で消極的な企業姿勢、さらに原価に対する曖昧さを指摘していた。弊習を一掃し、事業の合理化・経営刷新を図るため、同年10月「事業成功の秘訣二十カ条」を発表、翌1938(昭和13)年7月「社長就任の辞」では、社内の統制・コスト管理・経営の計画性を述べ、社内に新風を吹き込んだ。 続いて同年12月には「鹿島組の長期建設」を発表、施工能力の増強と科学的管理法の二大原則を明示したのである。施工能力の増強として、大量生産方式の導入を開始した。土木部門では鉄道・水力発電工事を中心に、鉱山・河川・港湾・道路・橋梁などの工事にも力を注ぎ,建築部門では外部より多数の有能な技術者を招き育成の推進と強化を図った。一方、科学的管理法の一環として、経理制度を改正し、予算統制に関する規程・会計規則・支店営業所収支予算編成規程などを制定した。
こうした守之助による経営の近代化は、業績の向上という具体的な成果を上げていった。1940(昭和15)年には一億円の請負高を達成し、鹿島組は目覚しい発展を遂げていったのである。しかし、当時の日本は1937(昭和12)年7月の日華事変をきっかけに、長期に渡る戦争の時代へ踏み込んでいた。
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