特集:本州四国連絡橋 座談会 「瀬戸内海に夢を架ける」
●本四架橋工事との関わり 山城:私は,南備讃瀬戸大橋で関所長(現顧問)のあと,昭和55年の6月から3年間所長をやりました。野球で言えば4回1/3投げたと言ったところです。それから溝渕君が来島海峡大橋の所長のときは,私は四国支店長をやっていて間接的に3年間ほど関わりましたね。 井保:私は南備讃瀬戸大橋の工事には起工式のときから気中コンクリートがおわるまで約6年半勤務しました。その後大阪支店に昭和60年に転勤になり,その年の秋から明石海峡大橋の調査工事に関わりました。引き続き主塔基礎2Pの終わるまで6年半所長をやりましたから,通算では13年ということになります。 溝渕:私も昭和53年から従事させてもらったんですが,当初,関所長から四国の施工担当希望者は非常に多いから「1年ぐらいやらしてやるよ」と,こういう感じで従事させてもらったんです。こんなに長くなるとは思わなかったんですが,それから約19年,私はずっと本州四国連絡橋公団(以下本四公団)の仕事をするようになったんです。着任したてのとき,瀬戸大橋の7Aのケーソン(75m×59m)の建設地点で,当時の関所長が「おまえはそこでずっと番をしてろ」(現場が大切である。ここを任せるの意)と一言,これで19年です(笑)。 井保:それで約1年で関所長が転勤され,山城所長が着任されました。私はそのとき工事部長で,溝渕さんが工事課長でしたね。 山城:私が所長として緊張して着任したわけですが,先方の本四公団の坂出所長に杉田さんという立派な先輩がおられ,幸いこの方を私がよく存じ上げていたので非常に心強かった思いがありました。
−山城所長のもと,大変な工事が続いたわけですが,まず南備讃瀬戸大橋の施工の1番のポイントは何だったんでしょうか。 山城:やはりプレパックド工法で打設した24万m3に達する水中コンクリートが成功したことです。これはコンクリート打設を一度始めると,区切りがつくまで中止することができないのです。もし,中止することになると最も重要な海中基礎部に不良品が生じ取り返しがつかないことになります。三昼夜連続してのコンクリート打設を7回繰り返し,巨大な海中基礎部を完成させることができました。もう一つはこれより以前にこの水中コンクリートの言わば型枠の役目を果す超大型の鋼製ケーソンを,苦労の末完全に基礎岩盤に沈設させた時で,本当にほっとしました。 井保:先程話の出た本四公団の杉田所長さんが設置ケーソン工法を提唱されました。造船所で鉄の箱をつくって海中に沈め,コンクリートの型枠の役目をさせるという工法です。初めてですよね,あんな大型のものは。この方法ですと現地での工事期間が短くなるんです。運ぶための前作業を現地でやっている間に,造船所で製作して浮かべてきて置く。全体工期は短くなるし,確実性もあるということで,これはもう画期的な工法だったと思いますね。 溝渕:設置ケーソン工法は,日本の工業力や大型ドック造船技術,これらを統合して考え出されたんですね。当初は我々も本四公団から教わることばっかりでしたね。基本的な部分はほとんど官主導の工事だったんです。 山城:私もそれは痛切に感じてますね。TQCのプラン・ドゥ・チェック・アクションの基本部分は本四公団が回し,我々はそのドゥの中でPDCAを回しているような感じだったですね。こういう工法でやろうとか,こういうものを使おうとか,本四公団で基本面を企画立案して,その細部についてはこちらの要望をどんどん取り入れていただいたんです。明治の初期に西洋からの技術を勉強をして,それを導入したような感じがしましたね。
●3橋工事の特徴 −やはり海工事という特殊性はありましたでしょうか。 山城:瀬戸内海は大小様々な船の往来が非常に多いです。それで例えば海底掘削をしている時は掘削した土を運ぶ土運船はこれらの船の航路を横切ることになります。万一第三者と事故を起こしたら大変なので,絶えず気を遣っていました。しかし,一番心労したのは同じ工事と言うか作業がずっと1年ぐらい続く。それが終わると,今度は今までとは全く違う工事がまた1年ぐらい続くのです。普通の工事ですと色々な工種作業がまじり合って進むものですが,ここでは今言ったように全く工事の進み方が違うのです。そこで,最初に新しいものに取りかかる時は様々な準備とか態勢づくりに追われ,一旦始まってからは長期間の同一作業の連続によるマンネリにならないように気を遣いましたが,これが今までやってきた現場管理と一番大きく違った点と私は感じましたね。 井保:それは私も明石の所長のときに痛切に感じましたね。瀬戸大橋のときは気楽な立場だったけど(笑)。それと,明石に触れさせていただきますと,瀬戸大橋での経験が非常に役に立ったというか,あのステップがなかったら明石はできていないと思いますね。より条件の厳しいところがあって,例えば,潮の流れが倍ぐらい,深さも深くなる。海底地盤も岩じゃない砂礫。というようにいろいろあって,あれがいきなりだったらできなかったでしょう。 −瀬戸大橋から明石に,その延長に来島という...。 溝渕:それが来島は単純に延長線上の海中基礎だけでなく,他にもいろんな基礎がありました。5P,6P,7A,8Pと4個の基礎がありまして,5Pが海の中,6Pと7Aが陸上,それから8Pが汀線部(なぎさ部)。先輩方の仕事は,マグロとかクジラを料理するようなところがあるんですが,私のは瀬戸内のタイやメバルを料理するといった感じです。でもその魚がそれぞれになかなかのもので,例えば来島5Pの工事海城は潮流が明石よりも速く,5Pを征する者は来島を征すと言われるぐらい難しい工事でした。南備讃の7A,明石の2P・3P,来島の5Pと,海中基礎工事の代表として名前に挙がるくらいの基礎だったんです。 井保:いずれの工事でも,厳しい条件の海中での作業期間を短くするという共通のテーマがありましたね。 山城:来島ではSEP KAJIMAをもってきて,1本の杭を打ったわけだ。 溝渕:それなんです。南備讃の7Aも明石の2Pも割に海底が平らなところにケーソンを据えたんです。だから,シンカーとウインチによる方法でケーソンの位置決めをすることができたんですが,来島の5Pは,海底が急峻でそういう据え方はできない。それで,ケーソンの中心にあたる部分に芯杭を設置し,それにケーソンをクレーンで差し込んだんです。明石の2Pケーソンの重量は1万5,000t,南備讃の7Aは1万8,000t,来島の5Pは2,800tですから規模の違いもありますけど。そういう地形的な条件もあってこの方法が採用されました。 山城:それと溝渕君のやったところはほかと違って,すぐ近くに漁場や農地があり,地元の方のご理解を得ながらやっていくということもまた大変だったと思いますね。私の場合は,どちらかというと技術的なことに没頭していればよかった。来島は周りに70%ぐらい気を配り,いろいろ手続きを踏んだり,啓蒙活動をしたりと,非常に大変だったようです。
−他工区との情報交換といいますか,施工技術の啓蒙とでもいいますか,何かそういったやりとりはあったんですか。 井保:明石でいうと基本的な工種はアンカレイジも海中基礎も同じですね。調査工事のときから私は入ったんですが,これは1Aから4AまでSEP KAJIMAなどを持ち込んで調査に関わった関係もありまして,情報交換が大変うまくいったと私は思っています。また,南備讃と違うのは,計画段階から当社も技術的に関わり,例えばケーソンを潮の流れの速いところにつなぎとめたときにどういう挙動を起こすかとか,海底に置いたあとケーソン周辺の地盤の変状がどうなるかなど,技術研究所で模型実験をしました。他のゼネコンとも成果を持ち寄ってそれが施工方法に反映された面もあり,情報交換は大変よかったと思いますね。 山城:南備讃の場合は,自分のところをやるのに一生懸命でしたね。それでも5Pという小さなピアでパイロット的な工事が一つあったんです。それを大成さんの工区がやって,その結果を公団さんを通じて教えていただきました。 井保:明石では水中コンクリートの例もありますね。明石海峡の海中基礎は,水の中でも分離しない不分離性コンクリートを日本で初めて大量に使ったんです。パイプを通じて打設するとコンクリートがどの程度広がっていくか,また計画通り4メートル先まで流れ合流したところでのコンクリートの強度はどうかという,この辺は非常に疑問があったのです。ですからそれは本四公団の試験工事として,関係する各工区から人を出して一緒に勉強したんですね。そういうことで普通の工事と違って,一緒にやろうという意欲は強かったですね。 溝渕:私は先のお話にあった技研での水理実験と明石2P・3Pの施工検討の業務に従事しました。その過程で,明石は潮流が速い,それから方向性がある,こういう条件では四角いケーソンより,小判型そしてさらにその次に円形の方がいいという結論になりました。明石のケーソンが円形になったいきさつを私も勉強させてもらいました。来島も同様に四角から始まったんですが,円だとどの方向から潮流が来ても抗力係数は1であり安定していることから,来島の5Pもやはり円が適切だという結論になりました。南備讃,明石を経て,来島の5Pに経験が生かされていると言えますね。
●所長としての留意点 −所長として何を一番に管理項目としたか,あるいは重点項目にしたか等の話をちょっとしていただけますでしょうか。
山城:よく公団所長の杉田さんと話したことですが,我々は満員の甲子園で野球をやっているようなものだと。この観衆がまた全部阪神ファンだけじゃなくて,ほかのファンもいっぱいいる。非常に厳しい目で見ている観客もおり,まごまごしたりちょっとしたエラーでもすると,野次られるだけでなく観衆がグラウンドになだれ込んできて,試合中止にもなりかねない。従ってノーエラーで試合を進めねばならない。具体的には第三者に対して迷惑を掛ける事故とか,公害,例えば油を流すとか,そういうことは絶対に起こさないようにと,これは終始一貫気を遣いました。 −明石海峡大橋のほうはいかがでしたか。
井保:大きくは,今おしゃったようなことですね。周りから注目を集めているというか,それを一番大きく感じたのは,ケーソン係留・沈設作業の時でした。報道関係のヘリが10数機飛ぶなど報道や見学者の数がすごいんです。途中で予期しないことが起きてももう後戻りできないという緊張感を覚えました。品質面や安全面からも山の奥で仕事をするのとは随分違うということです。 溝渕:来島では,結局,プラント船とか,大量の水中コンクリートを打った技術なども大体明石の結果を踏まえて,それを設備ごと来島に持ってきたわけです。技術的なことは明石のマニュアルを踏襲すればよかったのですが,しかし,本四公団の仕事というのは,やはりお二人が言われたように甲子園で野球をしているという感じはぬぐえないわけです。しかも,私はしんがりですから,皆さんは上々の成績で卒業されているときに,あいつの代だけめちゃくちゃだったというのは,これは困るわけです(笑)。 −プレッシャーが。 溝渕:ええ,だから私はいつもそのプレッシャーを感じていたわけです。あいつの代で失敗したというのはかなわん。井保支店長も明石で南備讃を踏襲してやられたわけで大変だったでしょうが,私のほうも三男坊としてプレッシャーはやはりきつかったです。 山城:私が関さんから引き継いだときに,やっぱり痛切にそれを思いましたね。私は瀬戸大橋の所長になる前に,5年間土木工務部にいてから現場に出たので,最初は絶対に事故を起こすまいと思い,だいぶプレッシャーがあったんです。神頼みもよくやりましたよ。 井保:明石の現場に就任した際,当時の関副社長から「真剣勝負だぞ,ワンストライクバッターアウトと思え」と言われました。菅常務からは,失敗したら海のもくずだとも言われまして(笑)。それはやはり大変なプレッシャーだったんですが,それが励みにもなったなと思って,いつもその話をするんです。 −そういう意味では,先輩方の大成績に対するプレッシャーもあったけれども,逆に言うと,培われたノウハウがどんどんと厚みを持って引き継がれてきたことになりますね。その辺についてはプラスマイナスすると...。 溝渕:逆に大工事・注目工事ということで,わがままもやらしてもらいました。例えば本社の優秀な若い人を名指しで一本釣りとか無茶もしました。結果的には,若い人を大きな海洋工事に従事させることになり,鹿島の技術の継承ということにもつながったんです。関副社長や山城さんの名前を使わせてもらいまして,副社長がよしと言ってるんやからとか言いまして(笑)。 山城:瀬戸大橋にいた鹿島の社員は,私以外は全部きれいに2つの橋に分かれましたね。 井保:本四公団さんからもそういう話がよく出ていましたね。鹿島さんはうまく輩出してくれたなと。
●長大橋建設技術の伝承・発展 −人の教育も含めたそういう技術の伝承ということについて,どういうふうにお思いになっておられますか。 井保:10年間,こういうプロジェクトがなかったら,多分継承できないのではないかという感じがしますね。書物とか,映像,写真,それは残りますけど,体感というものは伝わりませんから,作業員も含めて。 山城:私も,そう思いますね。 溝渕:明石の橋よりも施工条件が厳しくないものは,明石の記録を読んでもできるのではないかと思います。しかし,明石よりも厳しい条件の基礎を造るとなれば,実際に工事を経験した人でないと発展させられないんじゃないかなという気がします。 井保:多分,次の海峡大橋の基礎といったら,もっと厳しく深くなると思いますね。我々が明石でやっているときもいろいろトラブルがありました。トラブルは施工経験を積むごとに減ってきますが,もっと条件が厳しくなればそこから先は延長線上では考えられない事象が起きてくるような気がします。一度体験したものは,前例のない事をやるには事前によほどの慎重な検討や実験をしっかりやっておかないといけないと思います。この辺の意識が体験者が減ってくるとだんだんと薄くなって,失敗するんじゃないかなと。 山城:瀬戸大橋の場合は職人芸的な要素がかなりあったように思います。ところが次のより厳しい条件下へ進むために学んだことは,瀬戸大橋の教訓から言って私は二つあったと思います。一つは,工法というか施工の方針を単純明快にしたということ。日本人の職人芸的な要素を減らしていった。もう一つは,海という非常に自然現象の激しいところなので,それに追いついていけるようなスピード性を考えたこと,ですね。総合的に考えたときに,より確実なものができるという,そういう思想的な転換みたいなものがあったような感じがするんですよ。 井保:多分初めてやる場合は,うわべだけの合理的なことを考えちゃうんじゃないか,そんな感じがしています。明石は南備讃の経験もあり,一発勝負のためには2次・3次の予備をもってそのチャンスに備えようとしました。そうすると外から見れば一見ぜいたくな格好になってるんですが,それが必要だと思ったから我々はやった。だけど先々,初めて関わる人は,そんなのは無駄なことという考え方にならないだろうかという心配を,一番大きく私は持っています。 山城:全く同感ですね,うわべだけの合理性を追求するということをね。 溝渕:既に,来島ではその兆候があった気がします。例えばケーソンの設置が1月18日,厳冬期の真っ最中ですよ。4日間しか余裕のないところを2日食いつぶして,もうやめかというような時期にケーソンを差し込んでいるわけです。船のやりくりだけで工程を決めているわけです。こんなやり方を豊予海峡とか紀淡に持ち込んだら完璧におかしくなる。安く早くを絶対条件にしたら,失敗するのではないかと思います。 井保:明石のときの例で我々の担当外の話ですが,造船所からケーソンを太平洋を通り現地に引張るとき,計算上必要なタグボートをつけた。ところが黒潮が強くて潮岬を過ぎるのが予定時期よりもだいぶ遅くなった。そのうち低気圧が近づき前進できず引き帰すというトラブルがありました。そんなぐあいで,我々が2Pへ曳航する時は,滅多とない沈設のチャンスを逃がさぬよう,天候の急変等にも備え余裕のある船団を用意しました。 溝渕:私が思うには,本四橋が三つとも大体うまくいったのは,官側にも杉田さんという強い信念・思想を持つ人がいて最後までその考え方が細くはなりながらも続いたことも大きいと思います。 井保:当社で言えば関副社長の思想が通じたという。 溝渕:そうですよね。だから当社で言えば,関さんの思想というか,仕事に取り組む姿勢というものが,自分が所長をやっているときでも,ここでこんなことをしたら関のおやじに笑われるなとか,関のおやじに顔が立たないとか,そういう思想が生きていた。杉田,関とかいう精神的なバックボーンがずっと続いたということが,非常に大きかったと私は思うんです。 井保:物の考え方にそれが出てくるんですね。今後その拠り所をどこに求めるかでしょう。 山城:それと海工事はけちると大怪我しますね。昔風に言えば絶対失敗の許されない一発勝負の入学試験みたいな面もある。だからいくら準備をしても結果が成功しなくてはすべてがパーになるので,運を呼び込むことも大事なことと思っています。そういえば,昭和63年4月の瀬戸大橋開通式に,見えられた当時の美智子妃殿下にそんなお話をしたら,「失敗したら海のもくずとなるわけですね」と笑われていたのが印象的でした。
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