シリーズ100年をつくる会社(3):
      株式会社鹿島組へ  
             〜1921〜1930年

 1923(大正12)年に発生した関東大震災で焼失した本店も,1929(昭和4)年には東京・京橋に新社屋が竣工した。翌1930(昭和5)年,当時の鹿島組組長鹿島精一は,匿名の組合組織を株式会社組織に変更する。明治から大正にかけて社業を拡大させた当社は,更に発展していく過程で経営組織の近代化を推し進めていった。


  1921(大正10)年10月,鉄道50年祝典で功績を認められ表彰を受ける。当社創業82年目のことであった。当時鹿島組は,鉄道請負をはじめ,水力発電関係工事等「土木の鹿島」として名を馳せていた。特に日清・日露戦争後は,国内ばかりでなく朝鮮,台湾,満州の開発にも進出していった。

北海道留萌港岸壁工事
北海道留萌港岸壁工事(1929年〜1930年)
港湾工事はそれまで官庁直営工事であったが,本工事は港湾工事を民間請負に出した最初の画期的出来事であった

 1923(大正12)年9月1日,関東大震災が発生した。鹿島組の被害も甚大で,木挽町の本店,月島の倉庫,深川島田町の鹿島家本邸などすべて焼失する。本店焼け跡に2階建の仮建物を建て仮事務所とした。幸いなことに丹那トンネル等の施工中現場への被害は少なく,むしろ関東一円にわたり被災した既設の鉄道・道路等交通網や倉庫・工場建物の応急復旧工事に多忙を極めた。

震災前の木挽町本店
震災前の木挽町本店

新宿御苑仮駅
1926〜1927年大正天皇の御大葬用新宿御苑仮駅
大正天皇の御大葬にあたり当社は霊柩を鉄道移送するための仮駅設置という名誉ある特命工事を受ける

 大正期以降。建築工事も徐々に拡大していき,昭和初期の代表的建築物として,上野駅や東横デパートがあげられる。
 1929(昭和4)年,新社屋が京橋に完成。翌1930(昭和5)年,組長精一は匿名組合から資本金300万円の株式会社に組織を変更し,社長に就任した。鹿島組は既に1915(大正4)年にそれまでの個人経営を資本金30万円の合資形態の匿名組合に変更している。その後増資を続け,株式会社設立に至ったのである。  

上野駅
上野駅本屋建設工事(1930〜1934年)
明治年間に建てられた旧駅に代わり,近代的建物に一新された

京橋の新社屋
1929(昭和4)年竣工の東京・京橋(現在の八重洲ブックセンターの位置)の新社屋は,地下1階地上4階建ての鉄筋コンクリート造であった。

出資者会議
1930(昭和5)年,株式会社鹿島組に組織変更当時の出資者会議