鹿島紀行
鹿島紀行
第5回 益田線

〜ロシア兵が上陸した浜と山陰線の開通〜
ロシア兵が上陸した浜と山陰線の開通
 来年は日本海海戦から100年にあたる。1905年 (明治38年)5月27日は,東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が対馬沖でロシアのバルチック艦隊を撃破,日本を歴史的勝利に導いた日であった。
 その翌日午後2時頃のことである。島根県益田市の土田北浜海岸にカッターに乗ったロシア兵21人が上陸した。それを見た村人たちは仰天する。早々に逃げ支度をする一家がいる一方で,警鐘を乱打し,鎌や鍬や火縄銃を持ち出して遠巻きに見守る農民もいた。しかし疲労困憊した兵士たちは銃を投げ捨て,ただ恭順の意を示すだけだった。
 益田からは警察署長が駆けつけた。長老たちが「生国如何」と紙に書いたところで,彼らに分かるわけはない。しかし前日に沖で聞いた砲声などで事情を察した村人は,食事や入浴,寝具など生活習慣の違いに戸惑いながらも,彼らの世話に当たった。ロシア兵は沈没した仮装巡洋艦ウラルの乗組員だった。
 
 上陸地点の土田北浜と小さな岬を隔てた浜が土田前浜である。この海岸近くに住む松本幸男さんの祖母がこの事件に遭遇した。「薪拾いに出ていて,騒ぎを知ったのだそうです」。まだ若かった祖母は浜に駆けつけ,人垣の間から初めての異邦人を見た。「そんな興奮を,子供の頃祖母からよく聞かされました」と,松本さんは話してくれた。
ロシア兵が上陸の際使用したカッターの前で記念撮影する地元住民(寺戸康氏提供)
99年前,ロシア兵が上陸した土田北浜海岸
 上陸の翌日,ロシア兵は土田海岸のある鎌手地区から10kmほど離れた益田市内へ護送された。当時まだ鉄道はなかったから,彼らは3台の客馬車に乗せられた。沿道にはロシア兵を一目見ようという人が並び,馬車の中の兵士も見慣れぬ風景と人々を興味深げに見ていたと,地元の『石見鎌手郷土史』にある。
 益田でも収容先の妙義寺の本堂と庫裏の周りは鈴なりの人だったという。異国の人を見る機会など滅多になかったのである。
兵士たちが収容された妙義寺本堂
 石見益田−鎌手間の鉄道敷設が始まったのはその17年後,1922年(大正11年)2月のことである。青森から鹿児島に至る日本縦断の主要鉄道幹線は,1909年(明治42年)末までにほぼ完成。引き続き準幹線や支線の建設が大正時代を通じて行われていた。
 鹿島組は1880年(明治13年)に敦賀線の土木工事を請け負ったのを手始めに多くの幹線工事に参入,すでに「鉄道の鹿島」の名を確立していた。大正時代に入っても,山口−石見益田間を結ぶ津和野線工事を受注。全11工区のうち6工区を担当し,匹見川橋梁や田代トンネルなどの主要工事を完成させた。
 この後さらに,益田線全4工区(浜田−石見益田間)のうち第4工区の鎌手−石見益田間約11kmを施工したのである。請負金額は101万円余。『日本鉄道請負業史』に「当時としては稀に見る大工事」であり,請負業者は「超一流ばかりだった」との記載がある。
 鎌手−石見益田間のルートは,鎌手からロシア兵を馬車で運んだ砂利道とほぼ平行して,海岸線沿いに設けられた。石見津田からは益田平野の中を高築堤で津和野線の終点・石見益田駅に接続する。担当工区内には益田川橋梁,津田隧道などの工事が含まれる。
 津和野線・津和野−石見益田間が1923年4月1日に開通したのに続き,同年12月26日,益田線・三保三隅−石見益田間が開通して山陰縦貫線(山陰・益田・津和野線)は全通した。
益田線
鹿島組が施工した石見益田駅(1922年竣工時)
石見津田駅−鎌手駅間に位置する,線路と海に挟まれた旧国道。
土田北浜付近。1両編成の山陰線列車が海沿いを走る
 文豪・徳富蘆花夫妻が,随筆『死の蔭に』(1917年刊)を著すために山陰路を辿ったことがある。あいにく鉄道は間に合わず,ガタ馬車に揺られながらの旅だった。ロシア兵を搬送した砂利道も通ったに違いない。
 その後,島崎藤村が山陰路を旅して『津和野まで』を著したが,この時は鉄道の恩恵に浴している。もっとも石見益田と鳥取間284kmは9時間半を要したというから,東京からだとどのくらいの時間がかかったのだろうか。
 いまは1993年(平成5年)に益田市の三里ヶ浜近くに開港した「萩・石見空港」のお蔭で,東京からわずか1時間40分で着く。

 益田では松本さんのほかにも,故郷の歴史を大切にする方々の話を聞くことができた。
 宿泊した老舗旅館「益田国際観光ホテル島田家」(1842年/天保13年創業)に紹介していただいた佐々木一三さんは,1907年生まれの97歳。日本海海戦の2年後に生まれた。「とんと昔になったな・・・」と言いつつ,子供の頃に聞いたロシア兵の話や山陰線開通式に浜田まで出かけたことなど,たくさんの出来事を丹念に話してくださった。
 「鉄道工事の際の鹿島組益田出張所もよく覚えていますよ。油屋の一軒家を借りていました。大きな看板がありましたね。社員の一人に久保田という人がいて,工事終了後も益田に残って請負業を営んでいました」。
 佐々木さんが教えてくれた出張所の場所は島田家から1分ほど。いまは駐車場になっていた。益田線工事起工式を報じる1922年6月の『鹿島組月報』を繰ると「久保田島市」の名があった。
 鎌手公民館長の田中寛二さんには,山口県萩市から島根県平田市の海岸線に至るロシア兵上陸や死体漂着に関する多くの資料を見せていただいた。田中さんの父も若い頃,益田線鎌手−石見津田駅間の土木工事に従事したという。
 益田市内に住む吉田正人さんは旧国鉄マンで,鎌手駅をはじめ多くの山陰線の駅に勤務。益田駅には助役を含め6年ほど勤めた。「兄も益田駅の助役をしたことがある。姪はかつて鹿島に勤めていました」という。
 兄の国忠さんの長女・紀子さん(現姓山崎)は,益田から約20km離れた三保三隅に生まれ,大学進学で上京した。1980年に鹿島入社,5年ほど勤めたあと出産を機に退職した。いまは長野市内に住む。電話を入れると「美しい石見の海が自慢でした。高校が浜田だったので,山陰線は良く乗ったものです」と,懐かしそうに話してくれた。
 国忠さんは紀子さんが結婚する1ヵ月前に亡くなり,吉田さんが国忠さんの書き残したスピーチの原稿を読んだという。
吉田正人さんと妻・幸子さん。
島崎藤村も賞賛した医光寺の雪舟庭園。
高津柿本神社。かつてロシア兵が乗船したカッターが保存されていた
 松本さんは病気療養中のため,妻の秀子さんに案内されて土田北浜を歩いた。300mほどの長さの入り江で,やや赤味を帯びた砂浜が広がっている。潮風の中に「露兵上陸の地」を示す看板があった。最近新たに立て替えられたそうだ。
 前浜とを分ける左手の小さな岬には松が数本,北西の風に逆らって立っている。秀子さんの話では,30年程前まではたくさんの松の木があり,節句や花見シーズンの浜辺は弁当を広げる人で賑ったらしい。
 北浜を見下ろす土田八幡宮の境内に「日露戦役海戦碑」が建っている。東郷平八郎揮毫と碑にはあった。そこから少し上がったところに国道9号線が走り,その脇に鎌手駅舎がひっそりと建っている。益田線開通時の建設というこの木造駅舎も,来年には国道拡幅に伴い取り壊されると聞いた。
 1両編成の電車で益田に向かうと,すぐ右手眼下に海岸が見えてくる。夕景の日本海は99年前のあの日と違って,穏やかな表情を見せていた。益田駅まで2駅,15分の旅である。
現在の益田駅
鎌手駅。
鎌手駅付近の山陰線列車。
 津和野線開通とともに,旧益田地区からやや離れた吉田地区に開設された石見益田駅も鹿島組が施工した。その後1961年(昭和36年)に改築され,現在の益田駅と改称されたのは1966年10月のことだった。新興の吉田は商店街を東に伸ばし,旧益田も西へ伸びて市街地は一体化した。ロシア兵が収容された妙義寺は市の東部にある。柿本人麻呂ゆかりの高津柿本神社の境内には,ロシア兵が上陸に使ったカッターが保存されていたが,太平洋戦争後に廃棄された。

 藤村は『津和野まで』の中で益田をこんなふうに書いている。
《石見までやって来てよかったと思った。思ひのほか,この地方の旅は楽しい・・・益田の医光寺と萬福寺を訪ねた時は一層その感じが深かった。あの雪舟が遺した庭なぞは山陰道にあるものの中で,最も美しいものの一つであらう》
 「鉄道の鹿島」がまたひとつその名を記した町・益田。いま駅前再開発の計画が進んでいるそうだが,医光寺,萬福寺の雪舟庭園や人麻呂ゆかりの万葉公園など,なお静謐な佇まいを残す美しい町のままにある。鹿
土田八幡宮境内にある「日露戦役海戦碑」
土田北浜海岸には「露兵上陸の地」を示す看板があった
益田市
クリックすると大きくなります