シリーズ100年をつくる会社(9): 1960年代は、日本経済が飛躍的に発展し“黄金の年代”と言われたように、当社にとっても“栄光の年代“であった。建設投資の急伸を上回る勢いで,当社の業績は上昇していった。1962(昭和37)年、遂に当社は受注高・完成工事高(1,152億円,913億円)で業界のトップに躍り出ると,その翌年、遂に総契約高(1,368億円)で世界の頂点を極めたのであった。
高度経済成長下にあった1960(昭和35)年、池田内閣による国民所得倍増計画のもと、社会資本の充実が図られ,治山治水・港湾・道路・住宅等の公共投資が積極的に行われた。民間の設備投資もこれに刺激され、工場・事務所ビル・ホテル等の建設も多数行われた。さらに、1964(昭和39)年の東京オリンピックを契機に、首都圏を中心に様々な競技場・宿泊施設・交通網の整備が進められた。当社はこれらの建設ラッシュに伴い、多くの工事を手懸けていった。
土木工事では一ツ瀬ダム、川俣ダム、城山発電所、新潟火力発電所といった大型工事を施工した。その中でも、東海道新幹線の建設では、軟弱地盤と多数の断層が通っていることから最難関とされていた新丹那トンネルを完成させた。
一方,民間建築ではリッカー会館、日石本館、京王ビルTBS会館などを施工した。なお、オリンピック関係では駒沢体育館、渋谷区公会堂、NHK放送センター、東京モノレールなどがあった。このように、当社の手掛けた物件は多岐に亘り、件数・規模とも年々増大していったのである。
これら業績の拡大により,当社の社会的評価が高まる中,経営の近代化も一層進められる。1961(昭和36)年、急激な工事の増加により過小資本を補う必要性から株式を公開した。それによって資本金は18億円から一気に2倍強の40億円となった。また,当時,事業の拡大に伴う多角経営を検討し,専門技術・文化の分野における子会社を次々と設立していった。鹿島道路、ケミカルグラウト,鹿島映画,鹿島出版会などがあった。 しかし,このような好景気は長くは続かなかった。オリンピック閉会後、国際収支の悪化から政府が金融引締策を実施したことで景気に急ブレーキがかかる。その結果、大型倒産が続発、日本経済は一気に不況の波にさらされていったのである。
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