シリーズ100年をつくる会社(8): 戦後10年間の復興期を終えた1956(昭和31)年以降は、かつてない高度成長期を迎える。国内では本格的な高速道路の建設が始まり,ビルの建築では大型で豪華な装いを凝らしたものが出現した。この高度成長をリードしたのは、民間企業の設備投資であった。
1956(昭和31)年、三井石油化学(岩国)・三菱油化(四日市)・住友化学(新居浜)・日本石油化学(川崎)の四つの石油化学コンビナートの建設が決定したのを契機に、日本の石油化学工業は飛躍的な発展を遂げていく。同時に電力の需要も急速に高まり,主流であった水力発電所の他に、火力発電所の建設が増加した。
こうした石油・石油化学などの工場や火力発電所の建設は、日本に臨海工業地帯の出現をもたらし、やがて日本産業の国際競争力を飛躍的に向上させる土台となった。なかでも臨海製鉄所は、日本の鉄鋼業の競争力を世界最高の水準まで押し上げていった。 当社は、このような日本の産業の発展に大きく貢献した。石油化学工業の先駆けとなった三井石油化学工業岩国工場をはじめとする四つの石油化学コンビナートの建設、また戦後初の新設火力発電所工事となった東京電力鶴見第二火力発電所の建設などがあった。これらの実績を認められ、その後も数多くの石油化学コンビナートと火力発電所を施工していった。鉄鋼業では、当時世界に誇る最新鋭の工場として、八幡製鉄戸畑製造所と富士製鉄広畑製造所があり、いずれも当社が施工したものである。
このような臨海工業地帯の発展に対し、山岳地帯では、河川の水源地域に大型ダムを建設するという戦前では考えられなかったことが求められた。しかし,それを実現させたのが当社の施工した奥只見ダムであった。
また、この頃日本が本格的に取り組みはじめた原子力開発の将来性をいち早く予見していた当社は、1956(昭和31)年原子力室を設置した。その後、日本初の原子炉となった東海村の日本原子力研究所第一号実験用原子炉の建設をはじめとし、数多くの原子力関連工事に着手した。
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