シリーズ100年をつくる会社(7):
    戦後の経済復興へ   〜1951〜1955年

 1950(昭和25)年の朝鮮戦争による特需景気をきっかけに,日本経済は敗戦後の停滞から立ち直りをみせ,炭坑・製鉄・電力・化学工業・造船・電機等主要産業の拡充強化が図られた。それに伴い当社の業績も順調に発展するようになる。一方で1953(昭和28)年,鹿島守之助(当時社長)は参議院議員選挙で当選し,以降3期18年にわたり国会議員としての活動が続いた。


  戦後の経済復興の大きな柱の一つは水力発電を中心とする電源開発であった。中でも五十里ダム・上椎葉ダム等堤高100m以上におよぶわが国の代表的ダムが各地に次々と建設されていった。戦前「土木の鹿島」で名を馳せた当社の技術はここでもその真価を発揮した。

五十里ダム
建設省五十里ダム(栃木県塩谷郡)
日本初の堤高100mのダム。堤高112m,堤頂長261.8m,有効貯水量4.600万m3 
洪水調節を主目的に発電・灌漑用の多目的ダム。
1950(昭和25)年〜1956(昭和31)年
上椎葉ダム
九州電力上椎葉ダム(宮崎県東臼杵郡)
日本初のアーチダムで,堤高113m,堤頂長330m,有効貯水量7,600万m3を誇り,
その後のアーチダムブームを誘発する先駆的実績だった
1952(昭和27)年〜1955(昭和30)年

 一方大都市では人口集中による通勤対策も社会問題とされ,地下鉄建設計画がたてられた。当社は帝都高速度交通営団四号線(丸ノ内線)赤坂工区・御茶ノ水工区や大阪市地下鉄第一号線延長などを請負った。

地下鉄丸ノ内線お茶ノ水工区
帝都高速度交通営団丸ノ内線お茶ノ水工区(東京都千代田区)
神田川の満潮面からの影響と国鉄線路下を通るため,
丸ノ内線中最も難工事として注目された
1954(昭和29)年〜1956(昭和31)年

 また戦後不足していた事務所ビルの建設ラッシュも各地でおこる。戦後初の本格的官庁建築であった中央合同庁舎第一号館では,近代的施工技術の導入が図られた。基礎工事に技術研究所の開発した真空式基礎工法を用い,またコンクリート打設も諸機械設備を有効に駆使することで,26,000m3におよぶ良質かつ均一なコンクリートを当初見込みより約2か月短縮して打設し得た。民間建築では,三井別館,福岡東邦生命ビル,群馬銀行本店,後楽園スケート場,東京厚生年金病院等を手掛けていった。

霞が関中央合同庁舎第1号館
霞が関中央合同庁舎第1号館(東京都千代田区)
鉄骨鉄筋コンクリート造,地下1階,地上8階 延べ75,900m2を擁する巨大な新官庁ビルが誕生した 1950(昭和25)年〜1957(昭和32)年

 戦後初の海外工事は,一九五四(昭和二九)年ビルマバルーチャン第二水力発電所であった。これは賠償第一号工事であるとともに,延べ二六八万八千人を導入した大工事となり,本工事の見事な完成は両国親善関係推進にも貢献した。

ビルマバルーチャン第二水力発電所
ビルマバルーチャン第二水力発電所
出力16万8千kwのビルマ初の水力発電所 1954(昭和29)年〜1959(昭和34)年

 1953(昭和28)年,鹿島守之助は第3回参議院議員通常選挙に全国区候補として出馬,第4位で当選する。建設委員会委員や中央建設業審議会委員に選任され,建設業法の改正等にあたり建設業の振興に尽力した。その後1957(昭和32)年,国務大臣北海道開発長官就任を機に当社社長を鹿島卯女夫人に譲ることになる。

鹿島守之助
1954(昭和29)年3月,参議院本会議にて代表質問する鹿島守之助議員