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コラム集

英一番館・アメリカ一番館の模型

神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)に明治20年前後の横浜居留地の模型が展示されている。当時の部分的な写真や絵等から1997年に制作されたもので、その中に英一番館とアメリカ一番館を見ることができる。「英一番館」は,現在の山下公園前大桟橋入口付近に建つシルクセンター(1959(昭和34)年当社施工)の場所にあった。

英一番館・アメリカ一番館の模型の写真

一番手前がアメリカ一番館、隣の白い建物が英一番館
(神奈川県立博物館所蔵)

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創立記念日2月22日の由縁は?

鹿島組創立51年目にあたる1930年(昭和5年),3代目精一は経営組織をそれまでの匿名組合から株式会社に変更する。1月1日発起人会を開いて定款を定め,「先代岩蔵の命日(明治45年2月22日)を期して創立総会を招集した」ことにより,それ以来この日を創立記念日としている。

鹿島組の半被の写真

建設大手の創業期と1840年頃は?
竹中工務店 1610(慶長15)年,初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業,神社仏閣の造営を業とする。1841年志摩国分寺本堂(三重県),43年大宝神社本殿(滋賀県)などを施工している。
清水建設 1804(文化元)年,初代清水喜助が東京・神田鍛冶町で大工を開業。1838年江戸城西の丸修営に参加している。
大成建設 1873(明治6)年,大倉喜八郎が東京・銀座3丁目に前身である「大倉組商会」を設立した。
大林組 1892(明治25)年,大林芳五郎が阿部製紙所工場建設を落札したのを期に大阪市西区に「大林店」として創設した。

(各社社史およびホームページより)

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鉄道請負業へ転身の理由-工部省鉄道頭・井上勝との出会い-

明治初期,鹿島岩吉は横浜の外国人居留地において亜米一ウォルシュ・ホール商会の建物を施工し,主人のウォルシュ兄弟から厚い信用を得ていた。一方,旧長州藩毛利家では東京邸洋館の建設を計画し,適任の業者について西洋事情に明るい旧藩士の伊藤博文らに相談していた。伊藤博文はじめ旧長州藩実力者と親しかったのがウォルシュ兄弟である。ウォルシュ兄弟は,岩吉を継いだ岩蔵を,伊藤を通じて毛利家に推薦した。これが岩蔵が毛利家東京邸洋館建築を請負うことになったきっかけである。

長州藩出身の工部省鉄道頭・井上勝は「日本鉄道の父」とよばれる。幕末に渡英し,理化学・土木技術などを学んだ。西洋での生活様式や西洋館の実態について明るかったことから,井上は毛利家から東京邸洋館新築に当たり監督を依頼されていた。

この工事を通じて岩蔵と井上が出会う。当時井上は,鉄道建設というそれまでの日本には存在しなかった新しい建設工事を推進するために,信用と統率力のある確実な請負業者を捜していた。井上は鉄道請負業に転身することを岩蔵に強く勧めたのである。それまで洋館建築主体の事業を営んでいた岩蔵にとって,鉄道請負への進出は大変な冒険であったという。しかし,当時全国的に気運の高まっていた鉄道建設を経営規模拡大の好機ととらえていた岩蔵は,鉄道請負業へと転身する一大決心をしたのである。1880(明治13)年のことであった。初めて鹿島組の商号を用いるようになったのもこの時であった。

1880(明治13)年に鉄道建設工事を行ったときの写真

日本初の鉄道建設工事で約6,000m³の砂利を納入。「鉄道の鹿島」の出発点である(写真は現在の港区高輪付近)

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不振の時代の教訓から新市場を求めて建築へ積極進出

1929年創立50周年以降,業績が急速に下降する。堅実で保守的な経営方針の結果「鹿島組自体が老舗として収まってしまった」と考えた守之助は, 1938(昭和13)年に社長に就任すると,それまでの勘や腹づもりの請負業経営へ科学的管理法を導入することで一大改革をおこなう。マーケットリサーチの結果,それまで“従”であった建築工事に積極的に進出し,将来性のある新市場を開拓する必要性を唱えた。

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米軍へのクレーム

終戦直後,日本の建設業は駐留軍工事でかろうじて生き延びた。そのため請負上トラブルが生じた場合例外なく日本側が譲歩し泣き寝入りせざるを得なかった。特に完成直前で些細なことで監督官の機嫌を損ね追放される業者があとを断たなかった。外交官出の守之助はこちらに非がなければ司令部まで上訴し堂々とクレームを述べた。中でも勝訴した厚木・松島飛行場工事に関する「昭和25年のクレーム事件」(1950)は片務契約に対する建設業者の地位向上に大きく寄与した。

厚木基地の工事中の写真

厚木基地工事

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「土」の研究からはじまった技術研究所

1949(昭和24)年,他社に先駆けて技術研究所が設立される。戦後の混乱期であったにも関わらず,その後の技術競争を見越した先見の明であった。ここでの先端技術の研究開発は当社が大きく飛躍する源となる。特に最初に取り組んだ軟弱地盤を制する各種新技術・新工法の研究開発は,昭和30年代の臨海工業地帯の建設に「技術の鹿島」として参入する礎を築き上げるものであった。

技術研究所の写真

当時永代橋のたもとにあった

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八重洲ブックセンターの誕生

1978年,東京駅前旧本社ビル跡に八重洲鹿島ビルディングが新築される。テナントとして,八重洲ブックセンターが入居した。片時も読書をやめず,「どんな本でもすぐ手に入るような書店が欲しい」といっていた飽くなき読書家鹿島守之助の文化的遺産と称され,開店初日3万8千人,2日め5万人と予想をはるかに上回る愛書家の来店があった。

開店初日の八重洲ブックセンターの写真

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オイルショックと狂乱物価から

1973年,日本経済は第4次中東戦争に端を発するオイルショックと狂乱物価から一転して長期不況へ見舞われる。渥美社長(当時)は量的拡大による発展から新しく質の面における成長を強調し推進した。在来型の受け身の受注依存から開発事業等周辺分野への拡充の中から成長因子を見つけることも唱えられた。

上空からの志木ニュータウンの写真

志木ニュータウン
1977(昭和52)年~1988(昭和63)年

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