特集:鹿島ブランドを考える……第1回

2.鹿島ブランドの変遷

歴史で振り返る「鹿島ブランド」の歩み
 鹿島はこれまで様々な冠で呼ばれてきた。「鉄道の鹿島」「超高層の鹿島」「原子力の鹿島」――。その冠は,パイオニアに与えられる称号であり「その分野なら鹿島だ」という,いわば当社のブランドの歴史と言えるだろう。当社の160年以上にわたる歴史を振り返り,これからの「鹿島ブランド」を考えていく前段としたい。
はっぴ

「洋館建築の鹿島」から「鉄道の鹿島」へ
 当社の歴史は創業者,鹿島岩吉が1840年,大工として江戸・正木町に店を構えたことに始まる。時代は江戸末期。岩吉は多くの大名の江戸屋敷を建築した。1858年の日米修好通商条約締結後,横浜居留地第一号となる英一番館を建築。明治の文明開化と共に西洋館建築技術を身に付けた岩吉は,その後も多くの洋館建設に携わり,西洋館棟梁として名を馳せた。

英一番館の復元模型
1860年に完成した英一番館の復元模型(神奈川県立博物館所蔵)

  父・岩吉の事業を引きつぎ,洋館建築主体で事業を行っていた二代目岩蔵であったが,工部省鉄道頭・井上勝の強い勧めで,鉄道建設というそれまでの日本には存在しなかった新しい事業に転身する。当時,全国的に気運の高まっていた鉄道建設を経営規模拡大の好機と捉えた岩蔵は,鉄道請負業へと転身する一大決心をしたのである。その後,難工事といわれた東海道本線・丹那トンネルの施工を成功させたことで,「鉄道の鹿島」の名を一気に高め,多くの鉄道敷設にあたった。
 1900年代に入ると電力需要が急増し,鉄道建設のみならず,水力発電所の巨大ダム建設に従事,「土木の鹿島」として日本の国土開発に大きく貢献したのである。

羽越線阿賀野川橋梁
1911年に竣工した羽越線阿賀野川橋梁(新潟県)。
当時日本一の長さを誇る1,240mの鉄道橋であった

建築分野への進出「超高層の鹿島」へ
 戦後の廃墟の中で,事務所ビル不足によるビル建設ブームが起こった。当社は建築分野へも積極的に進出していった。1964年の東京五輪による関連工事が活発化し,日本経済が高度成長期に入る頃,当社は年間受注高世界一を達成する。また,柔構造理論の武藤清東大教授を副社長に迎え,1965年,日本初の超高層ビル「霞が関ビル」を着工。当時の耐震技術と施工技術の粋を結集して,地上36階建の超高層ビルを完成させた。当社はこの完成により,超高層ビルのパイオニアとしてその後の超高層ビル建設ラッシュに先鞭をつけ,名実共に「超高層の鹿島」を築き上げた。

霞が関ビル
日本初の超高層ビル・霞が関ビル。
戦後日本の経済復興を象徴する金字塔であった

「原子力の鹿島」,「海外事業の鹿島」
 高度成長期,日本経済は活況を呈し,建設投資額も膨張を続けた。当社は将来のエネルギー政策を見通し,1957年,日本原子力研究所第一号原子炉の完成を皮切りに,原子力分野へ進出する。この先駆者的な取組みによって後の国内の原子力関連工事の半数近くに携わることになり,「原子力の鹿島」の名を欲しいままにする。
 また戦後1954年に海外へ進出。東南アジア諸国でダム・発電所・ドッグ工事を多数手掛けた。その後1964年,ロサンゼルスにKIIを設立。これは日本の建設業初の米国本格進出として注目された。その後,ヨーロッパ,アジアにも現地法人を設置し,他社に先駆けて海外事業を積極的に展開した。


当社技術研究所

日本原子力研究所第一号実験用原子炉
1949年に設立された当社技術研究所 日本原子力研究所第一号実験用原子炉(茨城県)。1957年竣工

「技術の鹿島」としての品質と信頼
 当社は戦後まもない1949年,技術研究所を設立した。建設業で自社の研究施設を持つのは当社が初めてだった。以来,半世紀以上に亘ってたゆみない研究を続け,戦後の高度成長を支えた社会基盤整備を担い,日本の建設技術向上に貢献したことは言うまでもない。時代を先取りする先見性とそれを実現する技術力,そして社員一人ひとりの力によってつくりあげてきた高品質な建設物により「技術の鹿島」という名誉ある称号で呼ばれたのである。

バブル景気とゼネコン事件
 1980年代,いわゆるバブル景気と共に大型物件を次々と施工したが,1990年代始めからのバブル経済崩壊と共に,建設設備投資は民需を中心に減少した。
 1993年,いわゆるゼネコン疑惑事件が発生し,建設業界全体が激震に見舞われた。これによって業界イメージは大きく損なわれた。当社では,これを機に業務を足元から見直すこととし,企業行動規範を策定した。以来,全役員・社員がこれに則って日々努力を積み重ね,熱意と誇りを持って業務に邁進している。社会的信頼を回復し,新たな「鹿島ブランド」を構築していくために。

 こうして歴史を振り返ってみると,常に時代を先取りし,新しい分野にチャレンジしてきた経営者たちの姿が見えてくる。時代に応じてさまざまな呼称を与えられてきたことは,創業以来の「進取の気性」を引き継いできたことに他ならない。このことはこれからの「鹿島ブランド」を考えるヒントになるに違いない。

社名,シンボルマークの変遷
 名前やシンボルマークは,いわばそのブランドを表現し,認識するための大切な手段。当社の変遷を見てみよう。
 創業当時の屋号は「大岩」であった(“大工の岩吉”の略という説がある)。時代は明治へと移り,横浜において洋館建築で名を馳せた岩吉は「大岩」を改め「鹿島方」に改称。その後1880年,二代目鹿島岩蔵は鹿島方を解散,鉄道工事を専門とする「鹿島組」を設立,初代組長に就任した。そして,中興の祖と呼ばれる四代目鹿島守之助は,科学的合理主義に基づいた近代経営を推進し,1947年,社名を「鹿島建設株式会社」に改称し,総合建設会社としての礎を築いた。1991年,21世紀のエクセレントカンパニーを目指し,長期計画KE21(KAJIMA EVOLUTION21)を発表,拡建設を目指し,通称を「鹿島建設」から「鹿島」とし,現在に至っている。
 商標(シンボルマーク)は明治初期から1を用いていた。カはカジマの「カ」だが,同時に「力(ちから)」も表現している。この商標は,商売以外の面はあまり美的ではないとのことから,1911年ころから2の商標を別に作り用いるようになる。1963年に印刷物用,社章として直線的な3のマークを制定。しかし現場の社旗,看板などには従来のマークを使用しており,2種が同時に使われていた。1984年,この2種を一体化して4に統一。1991年,KE21と同時にCI(コーポレートアイデンティティ)を実施し,現在のシンボルマーク5に改訂。丸みのあるデザインに生まれ変わった。
シンボルマーク1 シンボルマーク2
1.サシはサシの意味で, 技術商売にうってつけであった 2.中央に岩吉の「岩」のてん字を図案化したものを配し,鹿島組の頭文字「K」を合成したもの
 
シンボルマーク3
3.印刷物用に直線的な右のマークを制定,現場の社旗・看板などには従来のマークを使用していた
   
シンボルマーク4 シンボルマーク5
4.二つのマークを一つに統一 5.当社伝統の「カ」を踏襲しつつ「人間にとって真に快適な環境創造に」という企業理念を表現するため丸みのあるデザインとなった




1.ブランドって何?
|2.鹿島ブランドの変遷
3.外から見た鹿島