土木が創った文化

土木が創った文化・・・・・・第2回 「橋梁」 〜瀬戸内に架ける〜
 1955年5月11日早朝,香川県高松港を出港した宇高連絡船「紫雲丸」(1,480t)が,濃霧の瀬戸内海で,貨物船と衝突,沈没した。紫雲丸の乗客730人のうち,小・中学生の修学旅行生を含む168人が死亡した。
 もし瀬戸内に橋が架けられたら・・・。惨状を目撃した人たちは,霧の海を恨んだ。
 
 それから30数年のうちに,瀬戸内に3つの橋が架かった。海峡部が10kmに及ぶ長大橋の建設。技術者の熱意と叡知と勇気がそれを支えた。
 最初の橋は児島・坂出ルートの瀬戸大橋である。鉄道と道路の併用橋で上部が上下4車線の高規格道路,下部には在来の複線が施設された。開通は1988年4月10日。翌日の新聞は《日本列島を陸続きにする瀬戸大橋が開通した十日,地元は喜び一色に染まり,この日を待ちかねた多くの人たちが歓声を上げながら眼下の島々の美しさに見とれた》(読売新聞)と,その喜びと感動を伝えた。
 同時に新聞は,瀬戸大橋開業の前日,宇高連絡船が78年の歴史を閉じたことを報じた。
【南備讃瀬戸大橋】児島・坂出ルートの渡海橋のうち,北備讃瀬戸大橋と並んで最も長い1,723mの長大橋である。渡海橋は全部で6橋。南・北備讃瀬戸大橋と下津井瀬戸大橋が吊り橋,櫃石島橋と岩黒島橋が斜張橋,与島橋がトラス橋である。このほか,四国側アプローチに当たる番の州高架橋(当社施工)などがある。瀬戸大橋はこれらの橋の総称である(写真提供:瀬戸大橋記念館)
 本四架橋児島・坂出ルートは,瀬戸内海の塩飽諸島東部の島々を橋梁で結んだ。3つの吊り橋と2つの斜張橋のほかトラス橋などで構成される。瀬戸大橋はこれらの橋の総称である。当社JVが担当した工事は,南備讃瀬戸大橋(1,723m)の海中基礎アンカレイジ7A建設と番の州高架橋(2,939m) ,北浦港橋梁だった。
 瀬戸内に架ける橋は,1998年に神戸・鳴門ルートが全線供用開始され,1999年には尾道・今治ルートが開通。3列の美しい橋梁群が本州と四国を結んだ。瀬戸内海の大量の航行船舶に配慮しながら,潮流,台風,地震,複雑な海底の地質などの厳しい自然条件を克服して築き上げた渡海橋は全部で18。わが国の土木技術,架橋技術の粋を集めて建設された世界一の橋梁群だった。
 当社は3ルートの中核となる南備讃瀬戸大橋,明石海峡大橋,来島海峡大橋のアンカレイジや主塔基礎の建設などの工事を担当した。
【建設中の南備讃瀬戸大橋】瀬戸大橋で当社が担当した工事のうち,ルートの最南端に当たる南備讃瀬戸大橋では世界最大級の海中基礎・アンカレイジ7A建設に携わった。同大橋は世界第5位のスパンを持つルート最大の吊橋で,海上からの高さは75.5m。水深50mの強固な岩盤の上に設置ケーソン工法で施工された。巨大ケーソンの沈設を始め,難工事の連続だった
【明石海峡大橋】神戸・鳴門ルートは,鳴門海峡を跨ぐ大鳴門橋が1985年に完成。最後の難関だった明石海峡大橋は1998年に全線開通した。全長3,911m,中央径間(スパン)1,990m,海面上塔高333mの世界最長の吊り橋である。本州と淡路島を隔てる明石海峡は,1日約1,400隻もの船舶が行き交う超過密海峡だった。当社は神戸側の主塔基礎(2P)の建設を担当した
【来島海峡大橋】尾道・今治ルートは,尾道市と今治市を結ぶ西瀬戸自動車道で,因島や大三島など瀬戸内の8島を10橋で繋いでいる。このうちの来島海峡大橋は,4,105mの来島海峡3水道を跨ぐ世界初の3連吊り橋である。当社は5P海中主塔基礎,馬島の7Aアンカレイジ,6P,8P主塔基礎建設を担当した。橋桁は景観的にも美しい箱桁方式が採用された
 月報「KAJIMA」は,2004年1月号で,瀬戸大橋建設に携わった技術者・田川寿美さんを紹介した。
 京都大学大学院で土木工学を学び,「瀬戸内に架ける長大橋の建設に関わりたい」の一心から,1974年鹿島に入社。瀬戸大橋の着工と同時に,南備讃瀬戸大橋のアンカレイジ7Aと番の州高架橋建設を担当した。長女の名に喬子(きょうこ)と名づけるほど,橋への思いは強かった。このいきさつは,当社ラジオCMにも取り上げられた。
 月報の記事に感銘を受けた当社の若い技術者が,田川さんにメールを送った。
 《番の州高架橋は私の夢の原点である橋です。私は愛媛県新居浜市の出身で,瀬戸大橋が中学生の時に開通しました。瀬戸大橋記念公園に家族で出かけた時,番の州高架橋の壁式橋脚を眼前に見て体が震えました。人間はこんなに大きなものが造れるのだ,と。
 そのとき以来,夢を抱きました。大学受験を控え夢は決意に変わり,入社試験時の面接では,番の州高架橋を見た感動と土木への憧れを話し,鹿島に入社しました。小さなころの夢が現実となり,昔の感動を思い出していたところ,月報で番の州高架橋の記事を見ました。瀬戸大橋を初めて見た感動,そして田川さんの名前はこれからも忘れないと思います。私も,自分が携わった橋を見て夢を抱ける人が現れるように,良いものを造っていきます=要約》
 
 メールの主は藤代勝さん。現在は横浜支店第二東名浜北高架橋工事事務所の工事課長代理をしている。
 当時は入社5年目で,青森・三戸大橋の施工現場にいた。「私の夢の原点となったあの橋には,技術者たちの熱い魂が込められていた,そう思った時,感動を抑えきれなくなったのです」と振り返る。
 浜北高架橋では西下り線(全長1,652m)の上部工を担当する。「いまの仕事に満足しています。苦しいことがあっても,夢の原点を思い起こせば元気になれる」と,2011年6月の竣工に向けて,工程管理に目を光らせる日々だ。
 「土木の中でも橋梁は景観的に美しい。実際にたくさんの人に使われている姿を見ると,私の選んだ道に一層の責任と緊張を感じます」という藤代さん。
 「海外で活躍している人も多い。高度な架橋技術を受け継いで,将来はアジアや中東の大規模プロジェクトにも関わりたい」と夢は膨らむ。自らの進路を決定付けた「瀬戸大橋の感動」から15年。田川さんの「橋にかける思い」を,未来の大きな夢に繋げる。
 
 瀬戸大橋開通から22年,3つの本四連絡橋が瀬戸内を跨いで11年が経過した。3橋は地域開発と発展にどう貢献し,どんな効果をもたらしたのか。
 瀬戸大橋開通20周年を機に「本州四国連絡高速道路」が纏めた『本四架橋と私達のくらし』によると,大鳴門橋開通前の1984年度に比べ本四間の自動車交通量は約2.6倍に増加し,移動時間も道路利用で約3分の1,鉄道利用で約4分の1に短縮した。全国と四国間の自動車による貨物輸送量は約2.1倍,交流人口は約1.8倍になり,輸送人員の79%を本四架橋が担うという。
 四国の工場立地,設備投資の増加や高速ネットワークの拡充とともに,徳島県産地鶏や愛媛県産養殖真鯛など,四国の特産品の東京圏や大阪圏への出荷が増加した。観光の活性化,災害時のライフライン,医療活動の広域化といった“架橋効果”は広範囲にわたる。連続した橋梁群の景観も格好の観光資源になった。
藤代 勝さん。施工中の第二東名浜北高架橋前で
石原重孝さん 当社土木営業本部次長の石原重孝さんは,瀬戸大橋の番の州高架橋の設計に携わった。ドイツ留学で橋梁建設の技術を習得。横浜ベイブリッジ,呼子大橋(佐賀県)など大型橋梁の設計,青森ベイブリッジ,池田へそっ湖大橋(徳島県)などの設計・施工を担当している。根っからの“橋屋”である。
 「橋梁技術者は“絵になる橋”の施工に携われる幸せがある」という石原さん。その一方で「実践の積み重ねこそが技術を発展させる」ともいう。「スパンの長さなど世界最大級の技術を駆使したのが本四架橋でした」。
 公共事業費の削減が進み,本四架橋以後,わが国で大規模橋梁の実績はない。長年培った世界トップクラスの土木技術,橋梁技術をいかに継承し,若い技術者の夢を育むか。土木に課せられたテーマの一つになっている。
 
 田川さんは,1985年から1992年まで明石海峡大橋架橋工事に従事。その後関西支店の営業部営業統括部長などを務めたが,2006年8月16日,57歳で亡くなった。藤代さんら若い技術者が遺志を継ぐ。
 藤代さんのメールは,夫人の田川郁代さんの了解を得て掲載させていただいた。橋の存在の大きさと過ぎ去った時間を愛しく思い出すという郁代さん。「夫が土木屋であったことを改めて誇らしく思います」と,藤代さんのメールを懐かしんだ。田川さんの夢を実現した明石海峡大橋を一望する高台の家に住む。
MAP
【橋梁の構造形式と当社施工例】
 橋梁の構造形式は,使用目的,架橋地点の地形,環境や周辺風景との調和などの条件により多種多様だが,当社はあらゆる形式の橋梁を手掛け,わが国を代表する大規模橋梁を建設してきた。最近では,新しく開発した超高強度コンクリート材料の使用や鋼部材との複合などによる新形式橋梁の開発にも取り組んでいる。当社施工例など,詳細は当社HPをご覧ください。
橋梁技術 https://www.kajima.co.jp/tech/c_bridge/index.html