創刊50年に大いなる誇りを感じます。
月報は何のために発行しているのか,企画はその目的に整合しているのかを,常に念頭において編集会議で議論しました。そうして決めた編集内容が読者にどう受け止められているのかも気になりました。
モニター制度を通じて読者の声を聞き,社外の読者も含めて年一回の読者調査を行い,月報への期待,満足度をチェックしながら編集していました。
当時の渥美健夫社長からよく言われたのは,「広報はムラ用語ではなく社会に通用する表現の仕方を考えなさい」ということ。これは相手に物事を伝達する原点であることを学びました。
入社して初めての現場取材が奥只見ダムの竣工式でした。スケールの大きさに圧倒されると同時に,竣工を迎えての緊張感と喜びに溢れる社員の姿に感動したのを覚えています。
わが国初の超高層・霞が関ビルの現場へは,起工式から竣工式まで何回も足を運びました。多くの工法,技術がこの工事で採り入れられ,特許の数は150件にも及び,鹿島の技術力に目を見張ったものです。
また,有峰発電所工事は,厳冬の雪深い陸の孤島の現場でした。人の移動,物資,医療全てヘリコプターに頼るしかなく,ここで越冬する社員を取材し,建設業の社会的使命を実感しました。
編集に携わった人は,他社の社内報と比べてこれでいいのかという葛藤が常にあると思います。しかし社内報は画一的であるべきではなく,業種,会社の形態に適ったものが求められるべきで,発行の目的が達せられることが最も大切であると思います。
守之助会長が「月報 復刊にあたって」で言っていたのは,技術の伝承,社内の意思疎通はもとより「家族にも読んでもらいなさい」ということ。ご主人の仕事や会社の役割や方針などを家族に知ってもらい,理解を得て,会社も家庭も共同体として発展するという,高邁な考えが基本にあったのだと思います。
これだけ職場が分散している業種というのは他にありません。2,000ヵ所もの事業所に散っている社員に,月報が会社や他の職場の動静など社内情報を伝達する重要な媒体となっているのです。本社から遠く離れている社員,一人現場で働いている社員にも一体感,帰属意識を持ってもらうことができるのです。
通信手段の多様化でその時代,時代のコミュニケーション手段も変化して当然です。その中にあっても月報が果たす役割は不変であると思います。なぜなら一つのメディアで全てをカバーすることが困難であることを考えると,メインメディアかサブメディアであるかの違いは生じようが,メディアミックスの中での月報の役割は必ず求められると思います。
「継続は力なり」と言います。発行の目的を見失わず,創刊100年に向け,新たな一歩を踏み出されることを期待しています。 |