特集:月報KAJIMA 50年
使命を受け継ぐ〜情報を伝え続けて50年
積み重ねて50年。603冊の月報は,携わった多くの編集者の努力の結晶でもある。
草創期の網倉和仁・当社顧問,編集の中興の祖ともいうべき吉野裕二・鹿島出版会専務に当時を振り返ってもらい,各時代の中核を担った歴代編集長には,月報への熱い思いとともに「思い出の1冊」を挙げてもらった。
月報発行の目的を見失わないこと……………………………………………… 網倉和仁 顧問

網倉和仁 顧問 創刊50年に大いなる誇りを感じます。
 月報は何のために発行しているのか,企画はその目的に整合しているのかを,常に念頭において編集会議で議論しました。そうして決めた編集内容が読者にどう受け止められているのかも気になりました。
 モニター制度を通じて読者の声を聞き,社外の読者も含めて年一回の読者調査を行い,月報への期待,満足度をチェックしながら編集していました。
 当時の渥美健夫社長からよく言われたのは,「広報はムラ用語ではなく社会に通用する表現の仕方を考えなさい」ということ。これは相手に物事を伝達する原点であることを学びました。

 入社して初めての現場取材が奥只見ダムの竣工式でした。スケールの大きさに圧倒されると同時に,竣工を迎えての緊張感と喜びに溢れる社員の姿に感動したのを覚えています。
 わが国初の超高層・霞が関ビルの現場へは,起工式から竣工式まで何回も足を運びました。多くの工法,技術がこの工事で採り入れられ,特許の数は150件にも及び,鹿島の技術力に目を見張ったものです。
 また,有峰発電所工事は,厳冬の雪深い陸の孤島の現場でした。人の移動,物資,医療全てヘリコプターに頼るしかなく,ここで越冬する社員を取材し,建設業の社会的使命を実感しました。

 編集に携わった人は,他社の社内報と比べてこれでいいのかという葛藤が常にあると思います。しかし社内報は画一的であるべきではなく,業種,会社の形態に適ったものが求められるべきで,発行の目的が達せられることが最も大切であると思います。
 守之助会長が「月報 復刊にあたって」で言っていたのは,技術の伝承,社内の意思疎通はもとより「家族にも読んでもらいなさい」ということ。ご主人の仕事や会社の役割や方針などを家族に知ってもらい,理解を得て,会社も家庭も共同体として発展するという,高邁な考えが基本にあったのだと思います。

 これだけ職場が分散している業種というのは他にありません。2,000ヵ所もの事業所に散っている社員に,月報が会社や他の職場の動静など社内情報を伝達する重要な媒体となっているのです。本社から遠く離れている社員,一人現場で働いている社員にも一体感,帰属意識を持ってもらうことができるのです。
 通信手段の多様化でその時代,時代のコミュニケーション手段も変化して当然です。その中にあっても月報が果たす役割は不変であると思います。なぜなら一つのメディアで全てをカバーすることが困難であることを考えると,メインメディアかサブメディアであるかの違いは生じようが,メディアミックスの中での月報の役割は必ず求められると思います。
  「継続は力なり」と言います。発行の目的を見失わず,創刊100年に向け,新たな一歩を踏み出されることを期待しています。

1962.7 電源開発奥只見ダム特集 
1967.5 タワークレーンが活躍した霞が関ビル
1979.4 有峰発電所新設工事第一工区
「一体感の醸成」に月報の存在感がある………………………吉野裕二 鹿島出版会専務

吉野裕二 鹿島出版会専務 広報室に就いたのは1978(昭和53)年4月。石川六郎さんが社長に就任し,弘報部が社長直属の広報室に改組となったタイミングでした。報道担当の2年間を挟み1987(昭和62)年まで月報を担当しました。
  改組とともに社内広報の重要性が一段と増し,それまでの月報も様変わりしました。石川社長は巻頭言として,その折々の経営方針や考えていることを一号も欠かさずに掲載され,社員に経営者の考えの伝達を図りました。
  新年号では経営トップ3人がメッセージを発するとともに,社長と著名人との新春対談も企画。また「社長と語ろう」という社員との座談会も年2〜3回の頻度でスタートさせました。
  今はイントラネットに各部署の情報が網羅されていますが,当時全社をカバーできるものは社報と月報だけ。本社からの全社情報は月報が担い,各支店に広報課をつくってローカル情報は支店報が担っていました。

 原稿用紙に書いたものとオペレーターの打ったものが間違いないか,一から校正する,そんな時代でした。月報は60ページ台,最大72ページという分厚い時があり,校正から校了まで全てやるのは大変でした。
  当時,土木技術部・次長の野尻陽一さん(故人)が「技術屋さんは論文を書くのは慣れているが,第三者にわかりやすく書くのが苦手。自分の言葉で書くように」と言われ,技術の言葉を咀嚼して書くことを徹底指導されました。技術の分野は幅広く奥が深いうえ,当時は開発段階の荒削りなものが多く,専門的でわかりにくいものでした。
  それでも何とか毎月継続して見開き2ページの「鹿島の技術」を紹介してきました。結果的に「技術を如何に分かりやすく伝えるか」が鍛えられて,編集技術を蓄積することができたと思います。
 
  いわゆる「特集」のかたちで巻頭に8〜10ページをつかって,まとめるようになったのが私の頃からです。それまでの月報は,現場や支店の情報について資料を集めて若干リライトして出せばよかった。しかし「特集」は企画から考えるものだから手間が多い。「特集」があって,竣工工事の紹介,鹿島の技術,支店ニュースなどが続く特集中心の流れができました。

 月報の表紙も苦労しました。カラーの表紙は新年号ぐらいで,1985年1月号は新国技館でしたが,色校正の段階で「土俵のひび割れ」を指摘されてもフィルムなので修正できません。でも,今見るとその時代の持つ味わいみたいなものがありますね。

 組織には社員のヨコ串を刺すような,共通の言葉,共通のイメージが必要です。特に建設業の現場では,社員に孤独感がある。社内広報には,そういう人たちに「こういうことをやるぞ」という「のろし」を上げる役目もある。月報がその有力な武器になるのです。一体感の醸成。そこに長い歴史に根ざした月報の存在感と役割があると思っています。

1978.5 社長と語ろう(第1回)
1979.3 特集 各地で進む駅前再開発
1985.1 新国技館
歴代編集長が語る「思い出の1冊」
伊原 宏 飛翔する鹿島を投影

1990年8月号〜1995年4月号担当
伊原 宏(現 東京建築支店営業部)

思い出の1冊:1991年1月号

1991年1月号
 編集長拝命の前月に宮崎明社長が就任。石川六郎会長,鹿島昭一副会長,宮崎社長による強力な経営陣が形成され,1991年2月の長期経営計画・KE21策定へと向かう。
  「鹿島建設月報」も1991年1月号でフルモデルチェンジした。「思い出の1冊」と言えばこの号である。誌名を「KAJIMA」に変え,特集を2本立てにした。1月号の特集では「神々とともに憩う島・バリ」「東京臨海部リポート」を掲載,建設分野に止まらず,快適な環境を創出する,という鹿島の目指す方向性を多元的に表現した。編集後記に「KAJIMAは(中略)21世紀に向けて飛翔する鹿島を投影する冊子として90年代を駆け抜ける所存です」と記した。
  以後約4年。バブル経済崩壊,ゼネコン事件,阪神・淡路大震災等の出来事を経て,最後の編集後記に「本誌の一層の充実を祈ろう。なぜならそれは鹿島が元気である証となるからだ」と書かせて貰った。今もその気持ちに変わりは無い。

1991.1 KAJIMA TODAY 東京臨海部リポート 天王洲総合開発
鞆田 茂 スゴイ仕事をやっていた

1995年9月号〜1996年5月号担当
鞆田 茂(現 営業本部)

思い出の1冊:1996年1月号

1996年1月号
 1995年9月に広報室に異動,意気込んでまとめた最初の新年号です。
  「1996年の風景」と題して,同年に完成・最盛期を迎える5大プロジェクト,エムウェーブ,東京湾横断道路,ミレニア・シンガポール,来島海峡大橋,フジテレビ本社,と鹿島技研のビオトープを紹介しました。思えば,長野冬季オリンピックのメイン会場,東京湾アクアラインのシールドと人工島,シンガポールの巨大複合開発,臨海部を代表する大規模ビル,最後の本四連絡橋3連続吊橋,規模も難度も当社の技術力の粋を集めて実現する100年を創るプロジェクトです。
  失われた10年の只中ではありましたが,すごい仕事をやっていました。時代は変わっても,鹿島の売りは難しい条件の下でこれまでの経験に新しい知恵と工夫を加えて,時代の要請にこたえていくこと。10年以上前の月報を見てこんな思いがよぎりました。

1996.1 特集 1996年の風景 長野五輪会場・エムウェーブ
金子 透 校正恐るべし

1996年6月号〜1999年4月号/
2005年6月号〜2009年1月号担当
金子 透(広報室)

思い出の1冊:1997年1月号

1997年1月号
 編集長として2回,通算して約7年間担当しました。初めて編集長を拝命したのは,印刷の仕組みがアナログからデジタルへと大きく変わりつつあった過渡期です。思い出の1冊を選ぶなら,月報が本格的なデジタル編集に向けて最初の1歩を踏み出した1997年1月号でしょう。今では文字原稿も写真も電子データを用いてデザイナーや印刷会社のもとでパソコンで作り込むのが当たり前になっていますが,十数年前までは手作業が中心でした。見た目が似ている“庇”と“屁”など笑い話では済まされない誤植が減った反面,初期の頃にはワープロで打ったとおりにゲラ(校正刷)に反映されていない文字化けなどに悩まされたものです。約6年後,再び編集長として携わったらデジタル編集は著しく進展していました。しかし手書き原稿の転記ミス,漢字の変換ミスが増えていたのにも驚きました。「校正恐るべし」。編集長として最後の校正が終わるまで身にしみた言葉です。
1997.1 特集 フジテレビ本社ビル
水野達夫 テーマ性を重視しながら

1999年11月号〜2000年11月号担当
水野達夫(現 開発事業本部事業部)

思い出の1冊:2000年1月号

2000年1月号
 私が編集長の任に着いたのは今から10年前のことです。団子3兄弟♪が流行の頃でした。開発事業本部出身の建築職で役職が付いたばかりの自分に1つのメディアと編集スタッフを任せて頂いたことは大変光栄に感じています。
  私が携わった号はどれも印象深いものばかりです。当時はW杯に向けサッカースタジアム建設の最盛期でした。その他西武ドーム,来島海峡大橋,代官山アドレス等,テーマ性を重視しつつ,より象徴的に企画構成を練りました。更に,安全や海外の話題,今月の言葉,CM紹介等を毎号連載し,表紙から編集後記までのどこかで,社内外読者各人に「へえ〜」と思わせるよう,常に問題意識を高くしながら誌面づくりに苦心したものです。
  敢えて1冊と言えば2000年1月号でしょうか。トップ3の巻頭言に加え,旬を迎える国内外の現場を概観し,ミレニアム年に挑む鹿島の総力を強くアピールしました。秀作揃いの各支店長による新春短歌が印象的でした。

2000.1 特集 世界の現場から Message2000
古澤靖彦 扉ページに全てを凝縮

2002年6月号〜2004年6月号担当
古澤靖彦(現 営業本部企画部)

思い出の1冊:2003年4月号

2003年4月号
 全て感謝に満ちた思い出ですが,敢えて1冊なら現場取材記事「ベトナム メコンデルタ地域橋梁改修工事」掲載の2003年4月号でしょうか。
 日本の東北6県に相当する広大な地域で20の橋を同時に建設するこの工事。メコン河沿いの1,300kmを3日で走破する強行軍の取材を,若手のTさんに担って貰いました。
 帰国したTさんは興奮状態。「とにかく凄いんです!」と,マシンガントークが止まりません。ならば「その凄さを記事にしよう」。
 そして出来上がったゲラの扉ページ。一目で全て納得です。小さな木船の舳先から流域を眼光鋭く見据える現地・金井所長の勇姿。数々の困難な条件下で,QCDSE全てに高いレベルを達成する鹿島マンの使命感,信念,包容力の全てが凝縮されていました。
 金井所長,「凄い」を見事に見せてくれたTさん,Tさん本記事傾注のために他の仕事を快く担ってくれたグループメンバー。たくさんの感謝が込められた思い出の1冊です。

2003.4 ザ・サイト ベトナム メコンデルタ地域橋梁改修工事
奥田一雄 タイトなスケジュールの中で

2004年6月号〜2005年5月号担当
奥田一雄(現 (株)イー・アール・エス)

思い出の1冊:2005年5月号

2005年5月号
 2004年6月号から12本の月報を担当しました。毎月,タイトなスケジュールの中で,月報が形になるまで息が抜けない1年でした。
 12本の月報はそれぞれ思い出が詰まっていますが,強いて選ぶとすれば,最後に担当した2005年5月号でしょうか。表紙は軽井沢大賀ホール。この年の月報の表紙はいずれも視覚に訴えるものにという編集方針があったため,5月号の表紙も記録写真の域を脱したビジュアルなものに仕上げました。同じ号の「創る・造る・作る」のページは大賀ホールの生みの親,ソニーの大賀典雄さん。ご本人は超多忙のため,一時間程のインタビューを私が文章にまとめることになり,ソニー本社へ伺いました。録音のため差し出したボイスレコーダーが何とソニーならぬ他社製。インタビューが始まると,大賀さんがちらちらとボイスレコーダーに視線を送っている気がして,いつカミナリを落とされるかと額に脂汗が浮かんだことが思い出されます。

2005.5 表紙 軽井沢大賀ホール

社外読者からのメッセージ

柴田 仁 「社内報に抜かれるな」から長〜くお付き合い四半世紀

日本経済新聞社
柴田 仁

 「社内報に抜かれたということだ。ばかもん」。
  産業取材の新米時代。「この記事は,どう取材したのか」と上司に問われ,「社内報で紹介されていました。他紙に載っていないことを確かめて取材,まとめました」と,何の疑問も抱かずに答えた。褒められると思いきや,冒頭のような叱責が飛んできた。
  社内報であれ,業界団体誌であれ,そこで記事化されていたら抜かれたに同じ。社内報などがニュースの宝庫なのは確かだが,甘えるな。担当の業界や企業の動向を推理しながらニュースを取る,との記者の本分を改めて教えられた。
  月報KAJIMAとも,このような愛憎半ばするアンビバレントな関係ではあるものの,建設業界の担当になった1986(昭和61)年3月から四半世紀近く,建設担当を離れてからも,お付き合いが続く。
  理由は大別して三つ。

1. 1959年の月報復刊号巻頭で当時の鹿島守之助会長が強調した「会社の近況を報知する親しみのあるもの」との考えが脈々と受け継がれ,広報室担当者が企画,取材,執筆するとの手作りに徹し,「もっと,もっと,もっと,鹿島を知ろう,知ってほしい」との思いが誌面からにじみでてくるからだ。
  そのような思いは細部に宿っている。地図や断面図などの仕掛けが数多く,手間はたいへん。それをいとわず,丁寧で,変にデフォルメすることのない素直な表現を評価したい。

2. かつての「自然界から学ぶ・動物たちの土木建築学」「植物たちの超技術」や進行中の「環境学のマエストロ」のような建設会社らしい好企画に引き付けられる。本業の紹介ではなく,斬新な視点の企画からこそ,企業の風格,風合いの良さが伝わってくる。

3. 極めて個人的な利用法。待ち合わせ時,ちょっと気分転換,出張時の携帯に重宝なのが出版社のPR誌に加えて,数社の社内報。多彩な内容をテーマごとに実に巧みにまとめている。
  その中で最近,なるほどと,うならされたのは大屋根を滑らせるための潤滑油に台所用水性洗剤を取り入れたとの裏技。月報9月号の特集「新国際線ターミナルに大屋根を架ける」で紹介されているこのような工夫によって,門外漢の読者は大型プロジェクトを身近に感じるとともに,建設事業への親しみも湧いてくるはずだ。

  月報KAJIMAには今後も,建設の最前線とわれわれ素人の仲立ちを大いに期待したい。

広報室メッセージ

岩本 豊 「建設業の魅力発信」の基盤として

広報室長
岩本 豊

 50年間,一度も休むことなく発行を続けてきた月報KAJIMA。編集に携わってきた担当者は毎号企画に頭を悩ませ,締切りに向けて呻吟し,難産の末発行し続けてきました。先輩諸氏のその努力の結晶であるバックナンバーを繰ってみますと,月報で紹介した特集やプロジェクトは日本の経済発展と見事に軌を一にします。当社が果たしてきた役割の大きさに改めて感動を覚えます。また月報復刊当時から社内報であるにもかかわらず,社外にも積極的に配布してきました。閉鎖的と見られていた建設業界において,会社の経営方針やトップメッセージを社外の人にも知っていただく,情報開示がすでに当たり前のように行われてきたことに先見の明を感じます。
  混迷の時代といわれて久しくなりました。そして建設業界を取り巻く環境は益々厳しさを増しています。そのような中,トップ訓示などを通じて経営方針を伝え,社員の一体感の醸成を図って行きたいと考えます。「100年をつくる会社」の一員としてものづくりに気概を燃やし,人々の安全・安心に貢献し,生活基盤整備の向上に真摯に取り組んでいる現場を一つでも多く紹介できないものかと考えています。また,絶えず「進取の精神」で技術開発に取り組んできた成果をタイムリーに紹介したいと考えています。
  建設業の魅力発信,月報は紙媒体として益々重要性を増していくものと確信しています。家庭に持ち帰り,家族で愛読していただけるような月報を目指し,今後も編集担当を始め広報室全体で知恵を絞っていきます。なお一層のご支援,ご鞭撻をお願いいたします。
BACKSTAGE OF KAJIMA 月報KAJIMAの舞台裏の担い手たち
社内ネットワーク「月報編集会議」 NETWORK
岩本 豊  月報編集に欠かせないのが,企画テーマの立案や素材集め。編集スタッフを助け,企画戦略を支えてくれるのが,月一回開催される「月報編集会議」だ。秘書室,経営企画,営業,開発や技術系各部署および連載などを担当する鹿島出版会から編集委員が集まり,3ヵ月先の特集をはじめ,現場ルポなどのコンテンツを討議する。
 また,各支店管理部門の広報担当からも,各地で施工現場などにまつわる新鮮な広報素材を提供してくれる。こうした情報をもとに,月報の骨組みができ上がっていく。
編集スタッフ EDITORS
渡邉 耕 渡邉 耕 KAJIMA編集歴 1年

 今年の月報から編集に携わっています。開発事業部門にいた頃から月報を営業ツールで活用していました。今は立場変わって電話・メールでの皆さんからのご意見・問合せにも応えて,「社員にとって本当に必要な情報を伝える」という編集の精神を大切に,「100年をつくる会社」の「思い」を誌面にすべく,月報づくりに取り組んでいます。
財部浩司 財部浩司 KAJIMA編集歴 6ヵ月

 「人」を通して,今の会社の姿を伝えたい。建造物も新技術も,人の力無くしてはカタチになりません。そのことを誌面で表現できればと考えています。「人」といえば,編集スタッフには,もう一人,I部長という大きな存在が。編集業務には迷いがつきもの。そんな時,いつも道筋をつけてくれます。月報編集の縁の下の力持ちなのです。
木皿美子 木皿美子 KAJIMA編集歴 7年5ヵ月

 月報を担当して7年が経ちました。編集のいろはもわからず,体力と気力だけで体当たりしていた頃が懐かしいです。編集にご協力頂いた社員の方々に満足してもらえる誌面を作ること――。一貫して変わることのない私の信念です。この気持ちを大切に,これからも常に目的意識をもった誌面づくりを行っていきたいです。
國府田玲奈 國府田玲奈 KAJIMA編集歴 10ヵ月

 「何ぞ数年の勤学を惜しみ,長く一生の愧辱(きじょく)を受けんや」。限られた期間の勉強が,一生を左右するという,心に留めている言葉です。取材では常に新しいことを学び,好奇心や向上心を掻き立てられています。縁あって就くことができた編集という仕事を自身の成長の糧とし,書いた記事を喜んでもらえるよう精進したいです。
レイアウト・デザイン DESIGNER
饗場千秋さん  誌面デザインを一手に引き受けてくれるのが,デザイナーの饗場千秋さん。コンテンツ素材を冷静に受け止め,コンピュータを駆使して素晴らしい“カタチ”に仕上げる。2001年1月号からすでに100号以上を仕上げてきたプロフェッショナルである。
印刷・製本 FACTORY
大日本印刷  レイアウト・校正が終ると,原稿データは印刷会社に渡って,製版・印刷・製本・配送の工程に入る。第1号から一貫して製作プロセスを担当しているのが大日本印刷。通算で推計約1,600万冊,横に並べると日本列島の長さ(約3,500km)に匹敵する。

 一九五九年。「鹿島建設月報」第1号。
 使命を受け継ぐ〜情報を伝え続けて50年